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「短編小説」 澱みの家

澱みの家
「この家、何か臭わない?」
妻の佳奈が鼻を鳴らした。築四十年、格安の賃貸一軒家。都心から一時間、庭付き。内見の時は気づかなかったが、引っ越し初日の夜、湿った土と、何かが腐ったような、甘ったるい死臭が鼻を突いた。
「下水じゃないか? 古い家だしさ」
僕はそう言って、段ボールから荷物を取り出す手を休めなかった。だが、その時、僕は見てしまった。キッチンの床下収納の隙間から、細く白い指がすっと引っ込むのを。
心臓が跳ねた。見間違いだ。そう自分に言い聞かせ、僕はわざと明るい声を出した。「明日は庭の草むしりをしよう。あの物置も片付けないと」
庭の隅には、真っ黒に錆びついた南京錠がかけられた小さな物置があった。不動産屋からは「大家の荷物が入っているから開けないでください」ときつく言われていた場所だ。

深夜、二階の寝室で横になっていると、天井から「パタ、パタ」と軽い足音が聞こえてきた。
「ねえ、浩平……聞こえる?」
「……ネズミだろう。明日、毒餌を買ってくるよ」
嘘だ。ネズミにしては足音が重すぎる。まるで、小さな子供が裸足で走り回っているような音だ。
ふと、佳奈の首元に目が止まった。昨日までなかったはずの、赤黒い手型のような痣が浮き出している。
「佳奈、その首……」
「え? ああ、これ? 引っ越しの時にぶつけたみたい。痛くないから大丈夫」
佳奈は虚ろな目で笑った。彼女の瞳の中に、僕ではない「誰か」が映っているような気がして、僕は背筋が凍った。

翌朝、洗面所で顔を洗っていた僕は、鏡を見て悲鳴を上げそうになった。
鏡に映る僕の後ろ、風呂場のドアが数センチだけ開いている。そこから、老婆のような顔がこちらを覗いていた。
慌てて振り返るが、誰もいない。
再び鏡を見ると、老婆も消えていた。代わりに、鏡の表面に指で書いたような跡が残っていた。
『 お か え り 』
「おかえり」だって? 僕はここに来るのが初めてのはずだ。
その時、足元に違和感を感じた。床の隙間に、何かが挟まっている。
拾い上げると、それは古びた写真だった。この家の前で笑う、若い夫婦と小さな女の子。
血の気が引いた。その写真は、僕と佳奈に瓜二つだった。
ただ一人、真ん中に写る女の子だけが、顔の部分を鋭利な刃物でズタズタに切り裂かれていた。
その日の午後、耐えられなくなった僕は、約束を破って庭の物置の錠をバールで叩き壊した。
中から溢れ出してきたのは、凄まじい悪臭と、大量の「日記帳」だった。
一番新しい一冊を手に取り、ページをめくる。

○月×日:あの子がまた泣いている。床下に隠しても、声が漏れてくる。
○月△日:妻の様子がおかしい。鏡に向かって、死んだはずの娘と話している。
○月□日:次の『器』が来るのを待つしかない。この家は、家族を欲しがっている。

最後のページには、震える文字でこう書かれていた。
『名前を変えて、何度でもやり直す。浩平、佳奈、今度は逃がさない。』
「……浩平さん、何してるの?」
背後から声がした。振り返ると、佳奈が包丁を手に立っていた。
いや、それは佳奈ではなかった。彼女の顔は、昨夜鏡で見た老婆のように深く皺刻まれ、口元は耳元まで裂けていた。
「やっと思い出した?」
佳奈(だったもの)が、一歩ずつ近づいてくる。
「僕たちは……初めてここに来たんじゃないのか?」
「そうよ。これで四回目。あなたは毎回忘れるの。そして、毎回私を殺して、あの子を床下に隠すのよ」
脳内に、封印されていた記憶が濁流のように流れ込んできた。
床下から聞こえる足音。あれはネズミではなく、僕が前回の「人生」で埋めた娘の這いずる音だ。
首のアザ。あれは、僕が佳奈の首を絞めた時の記憶が、彼女の体に刻印されているのだ。
「この家はね、澱(よど)んでいるのよ。時間が。罪が。私たちが死んでも、家が手放してくれないの」
佳奈が包丁を振り上げる。
「さあ、五回目を始めましょう?」
その時、家の床下から「お父さん、遊ぼう」という、冷たい声が響いた。
キッチンの床板が跳ね上がり、泥まみれの小さな手が、僕の足首を掴んだ。

一週間後。
不動産屋の男が、新しい客を連れてその家を訪れていた。
「築年数は経っていますが、庭付きでこのお値段は破格ですよ。前の住人の方は、急な転勤で引っ越されましてね」
客の夫婦は、気に入った様子で家の中を見渡す。
「あら、この写真……」
妻が洗面所の鏡の影に落ちていた写真を拾い上げた。
そこには、幸せそうに笑う夫婦と、顔の潰れた女の子が写っている。
「なんだか、僕たちに似てないか?」
夫が笑う。
その時、キッチンの床下から「パタ、パタ」と軽い足音が聞こえた。
「あ、ネズミですかね。古い家ですから」
不動産屋は、慣れた手つきで鏡の表面を拭った。
そこには、指で書いたような跡が、うっすらと残っていた。
『 お か え り 』
二人の背後、暗い廊下の奥から、新しく増えた「二人分」の足音が、静かに近づいてくる。
逃げ場はない。
この家が、新しい「家族」を咀嚼するまで。

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