【短編小説】ハーフムーン
「あなた、やっと、ここまで来たわ…」
私は、手の中にある亮介の写真にそっと語りかけた。
二人で来るはずだったこの場所。
あなたの還暦を祝う「フルムーン」の旅は、突然の別れによって、叶わぬ夢となった。
亮介が通勤途中、居眠り運転の老人の車に轢かれ、帰らぬ人となったのだ。
慌ただしく葬儀を終え、心身ともに疲れ果てた私は、喪主としての務めを終えると同時に、糸が切れたように一週間も寝込んでしまった。
亮介がいない家で一人、途方に暮れる日々。
「どうして、あの時、もっと優しくしてあげなかったんだろう」
そんな後悔が波のように押し寄せ、私はただ天井の一点をを見つめることしかできなかった。
「ねえ、麻理恵ちゃん。少しでも外に出たほうがいいわよ。ジムで体を動かすとか、素敵なカフェでぼーっとするだけでもいいから」
友人ユリからの毎日のLINEが、私の重い心を少しだけ揺さぶった。
そうして一年が経ち、亮介の一周忌を終えた私は、ようやくひと区切りついたと感じた。
遺品整理を始めた私は、ふと目に留まった一冊のノートを開く。
そこには、フルムーン旅行の計画が、亮介らしい几帳面な文字で記されていた。
海辺の町にある、落ち着いたリゾートホテルで一週間。
私は決心した。亮介の写真を手に、一人でこの旅に出ることを。
海辺のホテルは大人のためのホテルのようだった。
迎えてくれたスタッフの丁寧で落ち着いた雰囲気。シンプルだけれど、高級感のある家具や備品。
部屋から綺麗な海が見えるのが素晴らしい。
私は軽く休憩し、浜辺に散歩に出かけた。
季節外れのせいか、思ったより人も多くはなかった。
大きな犬を連れた男性とすれ違った。「こんにちは」と挨拶された。
他にも三脚を立てて、カメラで海辺の風景を撮っている初老の男性もいた。
楽しそうに笑いながら波と戯れる親子連れの姿が、目に飛び込んできた。
その光景をぼんやりと眺めながら、私はこの旅に来てよかったと心から思った。
けれど、本当ならここに亮介がいてくれたなら、どんなに良かっただろう。
石垣島の透明な海、冬の日本海で見た「波の花」…。
楽しかった思い出が走馬灯のように駆け巡る。
そして、急に胸の奥からこみ上げてくる、どうしょうもない寂しさに襲われた。
あっという間の一週間の滞在だった。
明日の午前中、ホテルを立つので、今夜は最後。
夕食後に浜辺を歩いた。
空を見上げると、夜空の真ん中にまばゆい満月が輝いていた。
「あなたと一緒だったら、もっと素敵だったのに」
そうつぶやきながら、私はその光をじっと見つめる。
亮介のいない寂しさは、すぐに消えるものではないだろう。
それでも、この輝く月を見上げているうちに、心がふっと軽くなるのを感じた。
私も、まだ欠けている「ハーフムーン」かもしれない。
けれど、いつか満月になれる日が来る。
そう信じて、一歩ずつ前に進んで行こう。
心の中でそっと、そうつぶやいた。
(了)
花澤薫様
初めまして。
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