見出し画像

皮肉なことに 第二話 残らない人

皮肉なことに
第二話 残らない人
駅前のベンチには、いつも同じ老人が座っていた。
朝でもなく、昼でもなく、夕方の四時過ぎ。
買い物袋を足元に置き、鳩が近づいてくるたびに、ほんの少しだけ身体をずらす。
「餌をやらないんですか?」
ある日、私は聞いた。
老人は鳩を眺めながら答えた。
「一度やると、毎日期待されるからね」
「鳩にですか?」
「人間も似たようなものだよ」
そう言って、老人は笑った。
私は、そのベンチの前を毎日通っていた。
老人はいつもそこにいて、いつも同じように街を眺めていた。
ある日、私は思い切って声をかけた。
「毎日、ここにいるんですか?」
「そうだね」
「何をしているんです?」
老人は少し考えた。
「何も」
「……何も?」
「何もしていないことをしている」
妙な答えだった。
それから、私は老人と少しずつ話すようになった。
仕事のこと。
家族のこと。
駅前にできた新しい店のこと。
最近の天気。
老人は何を聞いても、少しだけ皮肉を混ぜて答えた。
「最近の若い人は忙しそうですね」
「忙しいふりが上手になっただけだよ」
「健康には気をつけたほうがいいですよ」
「病気になってから気をつけるほうが、医者は喜ぶだろうね」
「人生って、何があるかわかりませんね」
「分かっていたら、人生じゃなくて予定表だ」
私は、そのたびに笑った。
老人は、ほとんど笑わなかった。
ただ、帰り際には必ず、
「また明日」
と言った。
ある雨の日、ベンチは空いていた。
翌日も。
その次の日も。
一週間ほど経った頃、駅前の花屋で老人が亡くなったことを知った。
長い病気だったらしい。
最後まで、誰にも弱音を吐かなかったという。
私は少しだけ立ち尽くした。
あれだけ毎日会っていたのに、私は老人の名前すら知らなかった。
その日の夕方、私は初めて、そのベンチに座った。
思ったより硬かった。
街は何事もなかったように動いていた。
学生が笑いながら通り過ぎ、会社員がスマートフォンを見ながら歩き、駅のアナウンスが一定の間隔で流れている。
老人が見ていた景色は、何も変わっていなかった。
ただ、老人だけがいなかった。
ふと、ベンチの隙間に小さな紙切れが挟まっているのに気づいた。
引き抜くと、老人の字で短く書かれていた。
――人間は、いなくなってからのほうが、よく会う。
私は少し笑った。
「最後まで、嫌なことを言う人だったな」
もちろん、返事はなかった。
それから私は、ときどきそのベンチに座るようになった。
本を読むこともあった。
何もしないこともあった。
鳩が寄ってくれば、少しだけ身体をずらした。
ある日、小学生くらいの女の子が隣に座った。
「おじさん、ここ毎日いるね」
「君もね」
「暇なの?」
「たぶん」
女の子は少し考えた。
「じゃあ、友達になろうよ」
私は笑った。
「ずいぶん急だね」
「だって暇なんでしょ?」
「それもそうだ」
それから、女の子はときどきベンチに来るようになった。
そのうち、学校帰りの学生も座るようになった。
近所の老人が新聞を読むようになり、買い物帰りの人が荷物を置いて休むようになった。
誰かが待ち合わせに使い、
誰かが昼寝をし、
誰かが、ただ街を眺めていた。
いつの間にか、そのベンチには人が集まるようになっていた。
ある夕方、花屋の主人が隣に座った。
「ここ、前はあの人しか座ってなかったんだけどね」
私は頷いた。
「そうでしたね」
「変な人だったなあ」
「ええ」
「何か、名前をつけようかって話も出たんだけどね」
「名前を?」
「このベンチに。『○○さんのベンチ』とか」
私は少し考えてから言った。
「やめたほうがいいでしょうね」
「どうして?」
私は老人の言葉を思い出した。
――名前をつけると、毎日期待される。
「たぶん、本人が嫌がるので」
花屋の主人は笑った。
「そうかもな」
夕暮れが近づいていた。
ベンチの向こうで、鳩が一羽、地面をつついている。
私はふと思った。
老人は、生前、何も残そうとしなかった。
記念碑も。
写真も。
名前も。
誰かの記憶に残ろうともしなかった。
ただ毎日、同じ場所に座って、
何もせず、
街を眺めていた。
それだけだった。
けれど、いなくなったあと、その場所には人が集まり始めた。
誰かが座るたび、
誰かが誰かと話すたび、
老人のいた時間が、ほんの少しだけ続いていく。
残そうとしなかったからこそ、
誰のものでもない場所になった。
そして、誰のものでもないからこそ、
みんなの場所になった。
私は空いた隣の席を見た。
「また明日」
小さく呟いた。
もちろん、返事はなかった。
けれど、その言葉を口にした瞬間、
なぜか老人がそこに座っているような気がした。
何も残そうとしなかった人のいた場所に、
いちばん多くの人が残るようになった。
皮肉なことに。

いいなと思ったら応援しよう!