見出し画像

『浦島一子』

『浦島一子』
浦島一子は、海へ行かなかった。
代わりに、毎朝、駅へ行った。
午前六時十二分発の各駅停車に乗り、終点まで行って、また戻ってくる。
仕事でもない。 趣味でもない。
ただ、乗る。
車掌が変わっても、広告が変わっても、一子は同じ席に座った。
窓の外には、田んぼ、住宅地、コンビニ、川、そしてまた田んぼ。
世界は少しずつ変わるのに、一子だけが往復している。
ある日、終点で、見知らぬ老人が隣に座った。
「あなた、毎日、同じところを行ったり来たりしていますね」
「はい」
「何を探しているんです?」
一子は少し考えた。
「……たぶん、竜宮城です。」
老人は笑わなかった。
「そうですか。私も昔、探しました。」
電車が発車する。
窓の外で、白い鳥が飛んだ。
「見つかりましたか?」
老人は首を横に振った。
「いいえ。ですが、探しているうちに、帰る場所がわからなくなりました。」
一子は、その言葉が少し怖かった。
次の駅で、老人は降りた。
降りる前に、小さな箱を置いていった。
お弁当箱くらいの、古い木箱だった。
一子が慌てて窓を開けると、老人はホームの向こうで手を振っていた。
「開けるのは、帰り道が決まってからですよ。」
電車は動き出した。
その日から、一子は毎日、木箱を鞄に入れて乗った。
しかし、帰り道が決まらない。
どの駅で降りても、ここではない気がする。
自分の家の最寄り駅でさえ、仮の停車駅のように見えた。
一年が過ぎた。
三年が過ぎた。
十年が過ぎた。
一子の髪には白いものが混じった。
ある冬の朝、窓に映った自分を見て、ふと思った。
――ああ、わたし、どこにも行きたくなかったんだ。
竜宮城を探していたのではない。
「どこへも行かなくていい理由」を探していたのだ。
その瞬間、車内アナウンスが流れた。
『まもなく、終点です。お忘れ物のないようお願いいたします。』
終点。
その言葉が、急に優しく聞こえた。
一子は木箱を開けた。
中には何も入っていなかった。
ただ、蓋の裏に、小さく書かれていた。
『おかえり。』
一子は少し笑った。
そして、生まれて初めて、終点の駅で降りた。
海はなかった。
竜宮城もなかった。
冬の空と、自動販売機と、閉まった蕎麦屋があるだけだった。
それでも一子は思った。
ここでいい。
たぶん、帰る場所というのは、見つけるものではなくて、
何もないところに、そっと「ここでいい」と言ってしまった瞬間に、できるものなのだ。
白い息を吐く。
遠くで鳥が一羽、飛んでいった。
その姿は、少しだけ亀に似ていた。

いいなと思ったら応援しよう!