『浦島アーニャ』
『浦島アーニャ』
浦島アーニャは、窓辺に座るのが好きだった。
何かを待っているわけではない。
考えごとをしているわけでもない。
ただ、
窓の向こうにある「まだ起きていないこと」を眺めるのが好きだった。
だから、よく言われた。
「何を見ているの?」
アーニャはいつも少し考えてから、
「まだ分からないもの。」
と答えた。
答えになっていない。
しかし、自分ではそれがいちばん正確だと思っていた。
ある雪の日。
アーニャは窓辺に座っていた。
空から、静かに雪が降っている。
向かいの家の屋根。
電柱。
郵便受け。
全部が少し白くなっていく。
そのとき。
窓ガラスを、
こん、こん、と叩く音がした。
亀だった。
赤い毛糸の帽子をかぶっている。
「寒くないの。」
とアーニャが聞いた。
「少し。」
と亀が言った。
正直だった。
アーニャは窓を開けた。
亀は入ってくる。
そして、
窓辺に並んで座った。
しばらく、
二人とも雪を見ていた。
「今日は何も起きませんね。」
と亀が言った。
「うん。」
「いい日です。」
アーニャは少し笑った。
その感覚が、
自分とよく似ていた。
すると亀が言った。
「竜宮城へ行きますか。」
「今日は何課。」
「予感課です。」
そんな課もあるらしい。
海を渡る。
竜宮城へ着く。
そこには、
無数の小さな鈴が吊り下げられていた。
銀の鈴。
木の鈴。
ガラスの鈴。
しかし、
どれも鳴っていない。
「何これ。」
とアーニャが聞く。
「まだ起きていない出来事です。」
と亀が答えた。
静かな部屋だった。
風もない。
鈴は、一つも鳴らない。
すると、
一匹の魚がやって来た。
名札には、
『予感課・微風担当』
と書いてある。
魚は帳簿を開いた。
「浦島アーニャさんですね。」
「はい。」
「あなたは、何も起きない時間を大切にしすぎています。」
「だめなの。」
「いいえ。」
魚は首を振った。
「人は、予感を育てるために、何も起きない時間が必要です。」
静かな部屋だった。
そのとき。
どこからか、
小さな風が吹いた。
ちりん。
鈴が一つだけ鳴った。
「今の、何。」
魚は帳簿を見る。
「明日、少し嬉しいことがあります。」
「何が。」
「まだ分かりません。」
また、
ちりん。
「これは。」
「来月、誰かと再会します。」
「誰と。」
「まだ分かりません。」
アーニャは笑った。
全部、
まだ分からない。
でも、
それが少し嬉しかった。
魚は言った。
「予感は、内容より先に来ます。」
「……。」
「だから人は、理由もなく窓を開けたり、空を見たりするのです。」
帰り道。
海の上には、
雪のような星が浮かんでいる。
亀が聞いた。
「明日は何をしますか。」
アーニャは少し考えた。
それから答えた。
「窓辺に座る。」
亀はうなずいた。
「いい予定です。」
家へ帰る。
雪はまだ降っている。
窓辺に座る。
何も起きない。
でも、
何も起きないということは、
まだ何でも起きるということでもある。
人はたぶん、
答えを知るためだけに生きているのではない。
まだ名前のついていない予感が、
いつか小さく鳴るのを聞くために、
窓辺に座っているのかもしれない。
その夜、
雪は音もなく降り続けた。
まるで、
世界がゆっくりと、
明日の準備をしているようだった。
