文字と貨幣の再創造 あるいは 王欽先生 リアクションペーパー
宮台真司は、システム世界の中で、損得勘定や功利主義によってのみでしか思考できなくなった没個性的な人間のことを「クズ」という過激な言葉によって糾弾する。みたいな動画が好きな友達がいるので、やれやれと思いながら仕方なく一緒に見ているのだが、そういえば彼と初めて外に遊びに出かけた時に訪れた店の料理が美味しすぎて、彼が食べるのが遅いことにかこつけて3分の2くらい食べてしまったのだから僕はもしかすると耳が痛くて受け付けていないだけなのかもしれない。
文字離れを憂う声が聞こえてくる現代ではあるが、僕はそういう意見には否定的である。少なくとも統計的には読書人口というのは変わっていないはずだ。ただ、内容的に「システム」に沿うようなものが人口に膾炙するようになったというのはある程度的を射ている。いわゆる「セカイ系」が流行るというのは、自分が生きる生活世界と、「真理」や「善」のような大きなものの間を媒介するような「国家」や「共同体」があまり顧みられなくなった時代になったことの象徴である。村田沙耶香の「コンビニ人間」が流行ったのもそういう文脈においてだろう。システムが強くなりすぎた時代においては、狩猟採集のような「0度」の思考からそのシステムが想定していなかった「バグ」の発見によってしか不可能である。
エマニュエル・トッドは、社会生活、道徳、集団行動などを形成してきた宗教の価値観が、まったく意味をなさなくなる状態を「宗教ゼロ」とよび、西欧における個人主義が敗北したという。
では、なぜ我々は敗北してしまったのだろうか。(日本については完全な敗北ではないにせよ)
テリー・イーグルトンが興味深い分析をしている。
一方のダランベールからドーキンスに至るまでの合理主義者は、自らの理知性が身体的なものによって構築されていることを認めたがらない。
一方の哲学的エリートたちは、後期資本主義の精神的空洞を埋めるために神学の問題を考え始めているが、彼らは宗教を嘲笑しながら。レオ・シュトラウスにしても、社会秩序のために宗教が必要とされていると主張するけれど、本人は宗教など信用したことがない。
日本が敗戦後のアメリカ統治により「利益の体系」で物事を考えなければならなくなった時と同様に、価値の体系の空洞化をなんとかしなければならない。人々は死にがいを求めて生き、オウム真理教に縋り付き、あるいはLGBTQのような運動に(賛成反対の両面で)過敏になることによって心の隙間を埋める時代を。細野先生のテーマだって、李猛先生のテーマだって、構造的な問題として考えていかなければいけないだろう。
敗戦時は丸山眞男が民主主義を普遍的価値とし、網野善彦はルールから逸脱する非農民を理想的な世界と捉えた。しかしここでいう「正しさ」というのは、束の間の正しさに過ぎないのではないだろうか。前者は不可能であり、また。後者はグローバル資本主義の言い訳になっている。
「価値の体系」とは本来、生や死を考えることである。
ここで取り出されるのが、柄谷行人ならば死への欲動がもたらす「交換様式D」であり、落合陽一にとってはユビキタス・コンピューティングによって駆動される「デジタルネイチャー」的な信仰であり、吉本隆明の影響を受けた先崎彰容にとっては死者の声を聞くことによる「ナショナリズムの復権」である。
レオ・シュトラウスは、哲学を文字によるものだといった。しかし、この「文字」というのは如何なるものなのだろうか。柄谷行人によると、「文字」はいわゆる文字以前に存在する。文字中枢なるものが存在するのだから。ここでの文字というのは環境からのアフォーダンスの認識のようなものとして捉えることができるだろうか。そうであるならば、「書く」という行為はそれを関係性のネットワークの中に放り出すことによって、編集=訂正可能なものとして場の審判力に問い合わせることを可能にするものである。環境を変形させることによって意味作用=アフォーダンスを創発させ、編集する。哲学とは、あるいは古典を読む行為とは、その編集作業に参加することである。こういうと松岡正剛の匂いが香ってくるけれど。
さて、実際的な制度についても考察するとしよう。
「普遍的貴族制」というのは、あまりに理想的に聞こえるけれど、思えば「暇と退屈の倫理学」だって同じような結論に達していたはずだ。時に人間的に訓練とともに贅沢に生きることにせよ(ノリ)、時に動物的に環世界の崩壊とともに新たな在り方を開くことにせよ(シラけ)、どこか貴族的である。問題は以下にしてその方法論を形作るかということである。それは規則を共有しない他者との対話を可能にするコミュニケーションである。王欽先生はこの「他者」「外部」みたいなものを交換様式Dと結びつけているということらしいのだけれど、弱者の連帯を可能にする「様式」を創造しないといけないとなると先の「文字の再創造」や(おそらくNAMが目指したことの一つである)「貨幣の再創造」のような表象の構造の再検討をしなければならないのではないかと考えている。そういえば、松岡正剛が千夜千冊で取り上げた最後から二番目の作品、ロビン・ダンバーの「ことばの起源」の最後の一節にこんなことを書いている。
最後に一言。もし噂やゴシップによって言語が発生したというなら、そろそろSNSやAIが新たな言語を発生させてもいいはずである。それには或るAIのつくりだした言語が別のAIにセット転化することがまずはおこる必要があるだろう。言語とは「換置」が本質なのである。
そして、これは僕を結構長く悩ませている問題である。
