これまで沸騰していた『邪馬台国と卑弥呼論争』が終焉することを願う者です。どうか、不思議に考えることなく、これらのことを胸にしまって、『邪馬台国と卑弥呼の論争』に終止符を打ちたいと願い書きました。おたしみください。
「 2026年新春の特別号 」
Opop版発刊誌
【 泉の扉 】 執筆・撰 皆川 滝雄
編集・校正 岡村 俊明
謹んで 新年の お慶びを申し上げます
新春を迎えられ、皆様におかれましては、希望と勇気を胸に、共に、頑張
って、これからの一年を、駿馬の如く駆け抜けていきましょう。
“ 邪馬台国物語 ”
この短編小説は、世間一般の方々の疑問となっている、“ 邪馬台国は、何処にあっただろうか、どんな国だったろうか、女王の卑弥呼はどんな女王だったのだろうか ”といった古今東西の学者、有識者、日本中の方々が苦し、また関心事でもあったことに、答えていこうという思いから、書いた物語であります。
話題性の高い話なので、多くの方々の視線を感じながら、これらの人々の疑問、難題について、私は、蛮勇を振って、この疑問、難題に、英断を下す思いで、この物語を書いていくつもりです。
邪馬台国及び、そしてその国の女王と言われている卑弥呼は、古墳時代の3世紀から7世紀頃の倭という国の一国の国王として存在し、君臨していた国であり女王ではないかと考えられています。卑弥呼という女王は、この頃の時代に邪馬台国という国の国王として伝えられています。しかしながら、この邪馬台国という国名はおろか卑弥呼という女王の存在すら証す資料はありません。
この時代の中国の三国志の中にある魏志倭人伝の記載内容から、漢倭奴国王という刻印から推理してみると、国の国名および卑弥呼という呼び方の倭人伝では、邪馬台国、女王が云々・・・ということが、記録されていますが、歴史書として名高い記録の史書によってもその理解は、推測の域を越えることは出来ません。また一方で、日本で史書として残っている古事記、日本書紀には、邪馬台国、卑弥呼の記載がありません。従って、この邪馬台国という国名、卑弥呼の呼称を照合していくことが出来ないのが現実です。後世の私達に、不可解であり、不可思議な謎を残したまま、今日至っています。
資料として、つまり、この年月頃の古墳時代の3世紀から4世紀頃の日本国内の歴史が、重要と考えて見ましたが、この時代の古文書があ
るにはあったと推測できる記録があったようですが、政権の興亡が激しく騒乱のさ中、消失されたとされています。従って、この時代に記された古文書はなく、照らしてみる資料はなく、解明していくことは出来ません。その存在を示す古文書も見あたらずになっています。この時代は国家統一の覇者が神格化され、古代の神話的な時代という扱いになっているようです。
古事記、日本書紀の編纂の時期は、8世紀の藤原の平安時代の初期であることから、究明する資料も少なくて、学者の方々の解明の糸口は限られていて、古墳から出土品の埴輪などから臆測するしか方法はなく、興味をそそる案件ではありますが、学者の不可解な卓越した見解を見ていくことしかありません。
学者の方々は、三国志の中の魏志倭人伝を参考にしたり、古墳の場所、大きさ、埴輪の出土品、から集落国家の規模等の盛大さから権力の大きさ規模を想定し、究明されて、今日に至っていますが、確たる結論は不明瞭で、ナ
ゾめいた騒ぎが大きく発表され続いています。また、一般の有識者は、この様な状況から、何らかの道標はないかと思案し、考え続けておられます。
最近は、郷土の産物は何だという欲目に捕らわれたような推測も多種再々に伝わったりもしています。国の位置を、三国志の魏志倭人伝を参考にし、30余の国の位置どりを考えたりしています。30余の国といっても、人口の少ない時代ですから、政治体制の整った政権国家ではなく、集落の連合組織めいた国を考えていかざるを得ないでしょう。古墳の様子から、権力の壮大さをはかったりもしていますが、明示する証はなく推測の域をこえないことで、今日に至っています。
私の友人から、以前、大学時代に、邪馬台国の所在について聞かされた話は、有りましたが、私の脳の片隅において日々過ごしていました。
その後、脳のボケ防止になるかの知れないという思いから、古代から現代までの歴史を、人間性をテーマにして、エッセイを書いて来ましたが、その中でも、気に止めることもなく過ごしていました。
そんなある日突然に、十数年前のことを思い出したように、振り返りました。先程のエッセイの文章の中、および邪馬台国の所在について聞かされた話しを思い出しました。
それは、ある朝、大学の友人の家に泊まった時のことを思い出しましたが、その時、友人は、曰く
「邪馬台国は、九州にあったようだという説がでてきた。」
と言って続けて、曰く
「お前は九州の出身だろう。何か関係があるのではないか。」と話していましたが、私は、そのとき、彼が風邪を引いていたことが気になり、曰く
「首にタオルを巻いて寝れば治るから。」と言って朝をむかえました。
彼の風邪は、その時、彼は話のとおりにして寝ていて、治っていました。その時、彼は、「俺は医者だぞ。」といっていましたが、医者に向かって、昔から習性を話して処方していることになってしまい彼が医者であることを忘れてしまったことの気がつき、お互いが変だなと思いながら、共にクスクスと笑っていたことを昨日のことのように忍ばれている記憶を思い出していました。
エッセイの中では、自分の視点の置き方をかえて、周囲を見渡す記述をし人間性についての記述していますが、この取り組みは、気分的には、なかなか面白い経験でした。
このエッセイシリーズも、いつのまにか60数話に及んでいます。
ある日、私は、この視点をかえるという経験から、邪馬台国や卑弥呼を述べるようにして書き上げてますが、エッセイの中での経験を参考にしていますが、ときには、神仏の頂点に成り代わったり、ときには、創建の覇者に成り代わったり、また、あるいは自分の内面に戻ったりしながらエッセイを書いていますが、この邪馬台国物語も同じような構成をし仕上げています。
こんな状態で毎日を過ごしていましたが、あの日の出来ごとは、忘れることがないもので、以下のとおりです。
暇潰しをしていた私は、フトしたことから、邪馬台国を見直してみました。
“ 邪馬台国 ”を“ 邪馬台の大国 ”として“ ヤマトノタイコク ”と発音してみた
のです。結果は、素晴らしく感嘆して感激の気持ちでした。感嘆して、己を忘れる程でした。熊襲の郎党の首長格の中の一族の末裔達が、大きな声を上げていたのでしょう。私に語りかけているようでした。そしてそれの声に呼応している自分でした。この歓喜の瞬間、これだと口ずさんだことを、昨日のように覚えています。
熊襲を束ねていた首長格は、誰だと、疑問をかけ続けて、己の問い掛けていました。
それは、多分、それは、熊襲を束ねていた首長格であろうと考え、その首長格の親方様に仕えて活躍した参謀は、誰だと疑問をかけ続けて行きました。参謀がいなければ、
先陣を張り道標を指示した者は誰だろうと疑問を続けていました。
あるいは、風水師のような者は、いないかと考えていました。時代が時代だけに、神仏に委ねる者はいないかと疑問は続いていました。
疑問を次から次へと抱き続けていました。
なんと、いました。
参謀として風水師が、その役割を果たしていたのではないか、世間一般でいうところのお告げ師が、その役目を果たしていたのではないかと考えたのです。
女王とされている方は、想像の架空の話であるという見方です。中国古来から伝わる道標を語る運の伝道師としての風水師を考えたことが時代からいって妥当なのではないか。この風水師が、現実の世界と嚙み合わせていた行為であろうと結論をしました。
しかしながら、風水師や伝道師のお告げ師が、巫であり、周囲に声高に弥次(ヤジ)を飛ばして、参謀の役目を果たしていたのであろう。この巫が風水師の役目を果たしていたと考えた結論です。お告げ師の巫の存在が、重くのし掛かり卑弥呼ではないかと理解していました。
これは、察知の段階から確信へとなりました。
当時、ある熊襲の首長格が、この占い師の巫に心酔していたろうと思え、この巫が、卑弥呼ではなかろうかと想像しました。
巫といいながらも、女の身の上である。熊襲の親方様は、30余の集落を手中にして覇者であろう。こんな世相の経緯の中で、心の赴くままに巫に心酔していったのではなかろうか。また、この時期に、取り巻き達が、西の国という魏の国についても知識を得ていて、この巫は、この噂話に飲まれ、心の傾倒を起こしていたのではなかろうかと考えました。
不可解なこととは思いながら推測を重ね続けながら、つぎつぎと思考を馳せていきました。いやまてよ、この親方様は、占い師の巫でしかない立場の者に、熊襲の棟梁とも称される天下の親方様に、拝謁し、自由に語りかけの出来る地位はそう簡単ではなかろう。
しかしながら、歴戦錬磨の戦いで功を上げて戦勝を為した功労者としての参謀であった風水師と考えれば、天下人の親方様に拝謁し語りかけが出来るという地位と立場を持っていたことに合点がいく疑問は、解けることだ。その後、数年の月日が過ぎ、私が、日本の古代の歴史を随筆していく過程で、この“ 邪馬台国 ”のことが、胸騒ぎして鼓動と変わり心に響いてきて落ち着かなくなってしまいました。人々の疑問の解決の道筋を解いていくべきではないかと考えて、あるいは、これが、私に課せられた、責務であり責任ではないかと思い、今日の“ 邪馬台国物語 ”に至ったのであります。
そして、この経緯が、この邪馬台国物語の創作を始めた由縁です。皆様にも、伝え知っていただこうと思い、私事ではありますが、年の四季に合わせてお届けする投稿の通信欄を活用していこうと考えた次第です。
而して、Opop版発刊誌【泉の扉】に通信していこうと考え、ここに至りました。
邪馬台国の存在、および王であったとされる卑弥呼の云々・・・を具体的に発表し、僭越ながら、蛮勇を賭して投稿しました。
これが、今日の“ 邪馬台国物語 ”に至った経緯であります。
余談ですが、ここで竹内宿禰という人物を登場させます。歴史上、秀でた官僚として活躍した方を考察しておきます。この竹内宿禰という方は、大変に長寿で、長生きをした伝説的な人であり、また、明治の最初の新1円札の挿絵としても、我々のに日の歴史に登場していますが、この竹内宿禰は、この古代のヤマト朝廷の官僚として活躍しています。天皇の政務を支えてきた人物であり、政務に長けた方のようです。活躍の年月から2百数十年の生命力としても語られ、長く生きた方伝えられていますが、恐らく、この長い間には、初代、二代目、三代目と続いた、同姓同名の襲名を重ね続いていたことと思います。人間の寿命からして、こんなに長く生きながらえるとは思
えないことです。
また、景行天皇が、その子である大和武尊を従えて、熊襲の平定を目論みて、西国に行幸と称して、征伐に向かっていますが、熊襲の手ごわい抵抗にあい、双方とも戦いを続けることに苦節して歩み寄る方法が取られています。遂に、双方が縁組をして協定し、利害の妥協を図った経緯が見えています。これは、衆達の戦禍による被害から、疲弊する衆達の被害損害の重大さと損失を考えて、双方が歩み寄る施策としての解決策だと理解しています。また、この折、熊襲の棟梁に育てられた皇子であったろうと推察しますが、その当時の流れが竹内宿禰の先祖と推察しています。
この後は、ヤマト朝廷内では、有力豪族の覇権争いを続けていますが、彼らの末達は、ヤマト朝廷内で、外戚ということから、地位(大臣)を得て権力争いを続けています。
飛鳥時代は、この有力豪族の横暴な振る舞いが目立ち、その中でも蘇我氏においては、馬子、蝦夷、入鹿、の代を境に、滅ぼされています。これが、後の“乙巳の変”であり、政治の世界で、現代の世襲性の悪癖となって現代まで残っています。“乙巳の変”は、蘇我氏の中央政界からの追放であります。これが、聖徳太子、中臣鎌足等によってなされた“乙巳の変”であります。
この政変後、大化の改新から飛鳥時代は終わり、平安時代へと時代は映っていきます。12代、景行天皇の九州への熊襲平定の行幸は、熊襲との平和共存の協定により、西の九州の平定を為し、また、東の蝦夷の従属を為しとげ、統一国家の樹立を為したこととなっています。この一連の流れは、大きな偉業と湛えられています。
よって、邪馬台国が使者を送った時期は、景行天皇の九州への行幸の前であったと思われます。物語でいう熊襲は、首長格の棟梁によって支配された集落ではないかと推察しています。30余の集落を支配下におさめ、熊襲の頂点にいた首長格は、ヤマト朝廷では有力な豪族ではないかと推察できます。有力な豪族が、風水師の役目として心酔していた巫女を、書簡の中では女王とし、その名を卑弥呼と称したことと推察します。
このような流れから、“邪馬台国”、また、“卑弥呼”の顛末が、明らかにできると推察しています。
ここで、九州の島の沿岸で発見された“漢倭奴国王”と刻印された金印は、どう解析するかという疑問が残りますが、これは、使節団が、その帰航の途中で難破してしまったことであろうと推測します。友好を示し、遜色のない貢物の返礼として、お土産品目の品として、慣例どおりに刻印をした国の王に対する王印を返礼品としものであったろうと推測します。難破した船舶から流失した遺失物の如きものが発見されたものであろうと推察しています。魏からの改めての使節団の派遣の為の派遣使の船舶ではなくて、当初倭国から派遣された派遣船の帰路の船舶が、帰航の途中で難破したと思えます。この後、調査等の船舶は来ていないこのことは、その後のヤマト朝廷にとって、不都合で不幸な難事は起きていないことを推察すれば、隣国として良好に終わっていることを推理できます。
読者は、この歴史に背景を想像しながら、この邪馬台国物語を楽しんでいただきたいと思っています。
さぁー、どんな話になるのやら、お楽しみください。
“ 邪馬台国物語 ”
《頃は、遥か昔の古代である。縁側で空を見上げて、天に向かって、一人つ
ぶやいている女がいる》
『女の声』
「遥か遠い国に行ってみたいな~・・・・・・。」
『天の空の声』
「女人よ、この地の精霊に、身を託したらどうだ。お前が仕える
主人に成り代わったらどうだ。何も心配はいらないよ。」
『女の声』
「そうかしら、天罰を受けないかしら。」
『天の空の声』
「気にすることはないよ。お前のお告げで、この沢山の集落の衆
を統一した熊襲の主の蘇我様は、この島々を、まとめて来たで
はないか。
お前さんは、多くの人々に慕われているようだ。
女占い師のまっぽし様の巫女として、他に類を見ないほど
であったぞ。」
『巫女の声』
「それは、西から流れる雲に向かって、語りかけよとおっしゃっ
ておられるのでしょうか。恐れ多いことですよ。巫女ととは言
え、そんな大それたことは怖いです。今、助けていただく衆の
親方があるわけでもないし。如何でしょうか・・・・。」
『天の空の声』
「何を言うか、この多くの集落をまとめた巫女ではないか。
なぁ~に、西の空も大差ないよ。勇気を持ちなさい。不可能な
ことなどあるはずもないことだよ。お助けを必要なことなど、
起きることはないよ。後世の人々が、苦悶するだけだよ。」
《その時、暗雲がよぎり、季節はずれの雷が怒号の如く鳴り響く》
《ピカー、ゴロゴロ・・・・、豪雨のように雨が、突然に音を立てる。ザア
ー・・・・。》
『天の空の声』
「ほれー、空をよく見るが良いぞ。天の声の主も、騒いで、後押
ししているではないか。これぞ、天の空のオミチビキだよ。安
心して西の空に進むがよいぞ。」
「その思いが、天の空まで届いたのだ。分かったかな。
巫女の想いは、天の空の胸に突き刺さったではないか。いささ
かも、躊躇うことはないぞ、一気に進め。巫女よ。」
『巫女の声』
「あぁー、恐ろしや、あぁー、恐ろしや。・・・・。
この私に御返事をなさったとは、。
私の胸にも、突き刺ってしまいました。
親方様の望みでもないのに、天の空は、この私に、雷で御返事なさるとは。
あぁー、恐ろしや、恐ろしやー・・・・。
どうか私の想いをお守り下さり給え。」
《そこへ、従者の足音がする。突然のお呼びに、スー、スーという擦る足音
ではなく、ドタ、ドタと慌てた足音がする。》
『巫女の従者の声』
「巫女様、お呼びでございましょうか。何かありましたか。」
《巫女のボォーとした様子を見て》
『巫女の従者の声』
「どうなさいましたか。如何なさいましたか。」
『巫女の声』
「広大なところを支配した西の国の魏の国にお手紙をお出ししま
す。
東の国からの親書を携えていくのです。親方様から魏の国に友
好の親書を出します。その親書のお手配をお願いします。
親書には、親方様の国とその国名を伝えてもらいましょう。
この旨お伝えしたいから、親方様の従者を呼んでおくれ。」
『巫女の従者の声』
「はい、分かりました。早速お手配いたします。」
『巫女の声』
「ほほー、楽しみですね、これからが・・・・。お頼みしますよ。
ことによっては、これからの歴史の“ナゾ”となっていくかも知
れませんねー・・・・。あぁー・・・・、楽しみだわね。思っただけで
も、ゾクゾクするわね・・・・。ただイッカイの巫女が、殿方様と
肩を並べて、広くて、まだ知らない国々に親書を送るなんてね
ー。でも、天罰が下るかしら・・・・。」
『親方様の従者の声』
「ご用を受け賜りたく、馳せ参じました。
親方様には、何でも聞いてやれとのことでしたから、何なり
と、用向きを申し下さりませ。
お引き受けいたしますから。」
『巫女の声』
「ご苦労様です。
私は、隣の国の魏の大国に使者を遣わそうと思っています。
しかし、貴賤の巫女が、大国に使者を送るなど、到底出来ませ
ん。
しかるに、親方様の国名を伝え、名を記して親書をお届けしよ
うと思いますがー。
如何でしょうか。出来ますかしら―。
それには親方様のご理解と後押しが必要です。
如何でしょうか。お分かりですか。
親書は、格式を表すものです。気位を示す格式を持って書いた
親書でなくては、お受け取り、読んではいただけません。
親方様の、ご承諾と手配をお願いします。
これは、親方様にとっても、隣国の様子窺いとでもあると心得
ています。
親方様にとりましても、決して、不都合な事態を招くことでは
ないと心得ていますがー。
よしなに、お取りはからい下さりませ。」
『親方様の従者の声』
「親方様は、かねてより、隣国の魏の国に、大層興味を抱かれて
おられます。
従いまして、万事、順調に進むかと思います。
承知つかまつりました。」
《親方様に巫女のご依頼を従者を通して伝えると》
『親方様の声』
「何、巫女が、隣国の様子窺いに、親書を携えて届けたい言って
いたか。
あの巫女は、大した者だな。まさに風水師だな。
巫女のブンザイで、よく頭が回るな。惜しいな国家平定には欠
かせない者だな。」
「それは、好都合だ。俺も30余国の集落を、平定したばかりだ
が、西の魏の国には、大層に興味を持っていたところだ。
この国については、何か報せを得たいと思っていたよ。」
「東には、ヤマトという勢力がいるが、これは、同じ倭人同士の
集落だ。
西の大国の魏については、情報が欲しいと考えていたところだ
からな。」
「早速、親書を出そうぞ。手配してくれ。」
『親方様の従者の声』
「ついては、お伺いしますが、巫女様が、お出しになる親書の差
出人は、何んとしましょうか。」
『親方様の声』
「そんなの何んとでもしておけ。国の女王とでもしておけ。」
『親方様の従者の声』
「そうですか。はい、分かりました。」
「国を現わす国名は、如何にしますか。」
『親方様の声』
「うむー、いずれヤマトとかいう国と雌雄を決しなければならな
いことは明らかだ。蘇の国より、ヤマトを冠にしたほうが、聞
き映えがよかろう。
そうだ、ヤマとの大国にしておけばよかろう。
ヤマトは、適当に当て字で補い、大国は、台地の国として適当
に考えたらよかろう。島国とばかり思っているだろうから、台
地も入れよう。」
『親方様の従者の声』
「承知しました。ジャジャ馬の大国が、貴国に、ご挨拶申し上げ
ます。
大国は、この台地の国とし、国名を邪馬台国と致しましょ
う。」
「巫女様の差出人の名は、如何いたしましょう。」
『親方様の声』
「好きにせよ。適当でよいからな。そう神経質になることはない
ぞ。」
『親方様の従者の声』
「はぃー、分かりました。
巫女様と称しているが、九州の山奥の出身でありながら、親方
様が、各地の集落を平定し、そして、この礎を成したお告げを
授けた働きによって、国作りの功労者となった方だ。巫女とい
った呼称も、参考にしておきましょう。」
「卑しい身ながらも先きの見通しの効いたお告げを授けてきた
“卑”しいも参考にしておきましょう。お告げという“弥次”を飛ば
して、信頼されて、巫女の立場を築き上げているこのことも、
参考にしておきましょう。この弥次を飛ばした呼称も、参考に
しておきましょう。
つまり、お告げを叫びお導きをしていた方でどうでしょうか。
卑しい身なれども、弥次を叫び、神のお導きを示した巫女だ。
つまり、“卑弥呼”となりますが、如何でしょうか。この巫女様
の名して“卑弥呼”がよろしいかと思われますが如何でしょう
か。」
『親方様の声』
「遠い国だから、調べる者もいないから、良きに計らってくれ。
あとは、親書と寄進の品の貢物だな。遜色のない物でいこう。
よろしくしてくれ。頼むぞ。」
《巫女様の従者に向かって》
『親方様の従者の声』
「巫女様のお名前、及び、国名の呼び名が決まりました。
倭国の、“邪馬台国”の女王“卑弥呼”として、西の大国“魏”の国
に親書を携え、ご寄進の品々の貢物を添えて、使者を出すこと
になりました。よろしいでしょうか。」
『巫女の従者の声』
「それは、大義でありましたね。私の意図を、よくい解され、満
足な取り計らいと思います。
巫女様へ早急にご報告します。ありがとうございました。」
『巫女の声』
「さすがでしたね。親方様は、西の大国“魏”に関心を抱いておら
れるとは、この国の主君に相応しい方です。よく、分かりまし
た。
早速の取り計らい、ご苦労様でしたね。」
《以上をことを思考し、推論します。》
《この推察のドラマの中で親方様の推察は、的を得ています。小さい島々か
ら上納される租税等については、気にしていません。従って、このこと
は、影響を受けていないことが明らかに分かります。
親方様にとっては、使者の云々など、難破しようがどうでも良いことだっ
たようです。
しかして、巫女が送った使者云々など、難破しようがどうでもよかったと
見ています。魏の国の情勢が分からなかっただけでしょう》
《親方様と巫女は、この後、大変な難事をかかえることになっています。人
間が有限の生き物であることを否応もなく知らされてしまうことになって
います。歳を重ねた二人に、新たな難題が押し寄せる事態に迫ってきまし
た。雌雄を決しなければならないヤマトの勢力が押し寄せてくる事態で
す。高齢のためにお導きも浮かばない巫女も周章狼狽してしまい、親方様
に助言の術を無くしてしまったのが現実でしょう。》
《ヤマト朝廷の勢力が、創建の覇者の末が、景行天皇、大和武尊といった
方々が、熊襲の平定と称し、行幸した経緯でしょう。この事態は、親方様
と巫女にとっては大事件であったでしょう。かつて武勇を馳せ、幾多の集
落の衆を従えた、思慮深い内面の評判の棟梁が、困惑する事態が目の前に
迫り、襲ってくるとは、驚きであったと思います。力と占いの名声に助け
られてきた親方様と巫女にとっては、最大の難事であったでしょう。
それも、行幸とはいえ、武勇と策に長けた大和武尊を従えて来るとは、驚
きのことであったと推察します。巫女もお告げの策がなく、遂に、縁を結
ぶ策を助言することになってしまいました。
ヤマト朝廷の威光を認め、縁を結ぶ策、つまり、ヤマト朝廷と熊襲族との
縁を結び、難局を乗り切ろうという所業です。
この方策は、現代でも、あちらこちらで行われている方法です。利害の折
衷策として祝福の中、取り行われています。血縁関係を結び、互いの利点
を補い合い、損失を最小に抑えようとする策であり、ときのヤマトの創建
の覇者が、自ら出向き、この熊襲の平定に向かいその効を上げ、行幸のメ
ドをたてるという、統一国家の偉業を為している。》
《余談だが、この大和武尊という方の逸話は、全国各地にあり、身近なとこ
ろは、鳳様の酉の市が行われ、大和武尊は、戦いの武勇者として、難事解
決の策と、武功にあやかる商売繁盛等の神様として信仰されて、現代も各
地の神社の祭事として残っている。》
《“邪馬台国”の女王“卑弥呼”の展開は、現代に至っても、多大な痕跡を日本の
歴史に多大な難事を生み、賢察を勤しむ人々の痕跡として残っている。》
《創建の覇者の血筋が、利害の調整として和議の条約を締結するという方策
を生み、また一方では、世襲の概念を残し、後世にの今日に至るまで、悪
癖として残っている。》
《この世事の戯れの出来事は、良し悪しも、その後の人々の難解な問題とな
り、また一方で世襲制の悪癖を概念として残している。俊才として誉れ高
い聖徳太子の大化の改新からスタートした中央集権国家の石杖であった律
令制、制度から起きる悪癖を繰り返し、幾多の戦乱の世を経験し、江戸時
代まで続く、世襲の概念が残されてきている。
この解決の道標の究明は、世界も含めた難事である。難しい。》
《“邪馬台国”の女“卑弥呼”が残した足跡は、重大で歴史を解明する観点から目
を離すことが出来ない程の数多くの課題と問題を含んでいるようだ。》
《この課題と問題を含みながら、“邪馬台国”とその女王“卑弥呼”の物語は、無
事に終演する。》
“ 邪馬台国物語 ”終幕
【㊟注釈】
これまで沸騰していた『邪馬台国と卑弥呼論争』が終焉することを願う者です。
どうか、不思議に考えることなく、これらのことを胸にしまって、『邪馬台国と卑弥呼の論争』を終わりにしてみては、如何でしょう。
以上が、新春の特別号に乗せた、独断と偏見から、短編小説です。悪しからず、各位のご理解を賜りますよう、ここに、僭越ながら、執筆・皆川滝雄並びに校正者 岡村俊明より、お読みいただいたことに、心より御礼申し上げます。
2026年1月吉日
Opop版発刊誌【 泉の扉 】
執 筆 皆川 滝雄
校 正 岡村 俊明
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