aki先生、インドネシアで教室運営に悩む
思えば、私がセンターに配属されてきたばかりの頃は、まだCovidの影響が残っていて、入所してきた生徒たちへの職業訓練も人格側面の教育も、目的があいまいなまま混沌としていた。
朝8時と決まっていた授業の開始には生徒の殆どは揃っておらず、夕方15時半の終業時には各自の作業ツールは片付けられないで、ごったに作業台の上に残っており、ハサミや針などの危険物はもとより、唯一無二のはずの作りかけの作品はそのままほったらかし、作業台に散らかったおやつの食べかすに蟻が集って不潔この上なかった。何ヶ月も拭き掃除されていないねっとり汚れた作業台で安物のビーズをとりとめもなく繋いで「職業訓練に参加」ときた。とりあえず教室に来て携帯をいじっては友だちと喋っているだけという生徒が散見された。
教師もそれを放置しており、泰楽な印象だった。本気で育てる気がないのだな、と感じた。しかかった作品を片付けないのは、翌日また同じ場所へ戻って来て続きをするためかと思いきや、昨日のことは忘れて今日は今日でまた他のことを始める。大人がそういう子どもっぽい無責任さを看過した結果、生徒たちもそれで良いものだと勘違いしていた。毎日のように揚げ物のおやつを食べて油の散らかり放題のそばにある物体は見たところゴミなのか作品なのかわからず、市場流通性があるなしどころか、そもそも誠実に完成された作品があまりなかった。そんな状態の教室運営では、犯罪被害者のような精神身体的には健常な生徒は特に指導が難しかった。人間不信から信頼関係を築きにくく、為を思っても躾が利かないし、徒党を組んでやさぐれてしまう。問題児の人数が多いから、といえばそれまで、センターやインストラクター側にモチベが欠けているのは明らかだった。愛想が良いのは上べだけで、新任の「お雇い外国人」のようにチヤホヤ私に懐く振りをすることにそのうち気がついた。スタッフたちもだ。そういう意味ではセンターはウソだらけだった。おべっかが通じないとわかるとそっぽを向き出す。どう打てば響くのか。
去年11月には新大統領が就任、管轄の社会省の大臣も交代した。12月にジャカルタから赴任してきた新任のセンター長のもと、1月に人事異動があり、組織が改編され、活動の時間割も大幅に変更され、より系統だった内容になった。同僚だった人どうしが上げ下げされて割を食った方もあったが、今度の人事はある意味では適切な部分もあるように思える。諦めて動かないのはダメである、というセンター長の意思が見えた。判断と手続きの早い人だ。2月に入って新しい生徒も入所してきた。生徒たちに最も近い場所、すなわち教室で、私が生徒たちに手工芸の指導に当たることに変わりはないが、少し精神的な環境が整ったことで、実施内容をより理想に近づける、ブヨブヨと緩んでていた部分が少しは筋肉質になりそうな気がしている。
完成形がどうなるかも知らずただ私を信じて、重要な基礎でありながら地味なプロセスに耐えてくれている数人のガッツな生徒の作品群が、最終的には私の拙いインドネシア語の説明より雄弁にならなければならない。作った作品がその人のものの考え方生き方を物語るような、入魂の成果物をたった一つでも仕上げさせようと、そのために、一時、インドネシア語の勉強はさておいて、編み物の中で最もつまらない基礎や、アイロン仕上げのテクニックや糸始末についてのプロとしてのポリシーについて言い聞かせ、手を変え品を変え、繰り返し実施させた。中には、恐れをなして、本教室に逃げ帰った生徒もいた。それでも私は方針は変えなかった。これからも一貫していなければならないと思っている。生徒に媚びて信念を曲げてはいけないのである。人の心を動かすような作品なり商品なりを作るためには、手間を厭うべきではないと、craftmanshipとは、credibilityとはそういうものだ、と、それをみんなにわかってもらうためにはるばる私はやって来たのだと言い続けた。
安価でも買い手の見つかりそうにないありふれた袋物ばかり製作させている同僚に、外へ勉強しに行くように何度か忠告した。センターは役所の末端組織だ。停滞した役所に消費者の食指が動くような生き生きした作品アイデアがそうそうあるはずがないではないか。そもそも誰も売れるモノづくりがわかっていないし、真剣にそうするべきだと思っていない。国際見本市に行くべきだと何度も誘ったが、変な勝気から応じようとしない。現状に甘んじている自分を知りつつ認めたくないから言い訳しているのだ。小さく纏まりたい気持ちも立場もわかるし私も対立は避けたい。しかしこのままでは生徒は育たない。剛を煮やした私は、やる気のある生徒を7人連れて本教室を出た。そして別な理由をつけて分室、つまり私の裁量で使える場所へ移動した。どちらか好きな方を生徒が選ぶだろう。センターの放任に慣れた生徒たちは着いてこなかった。それもまた良しあしで、実際一人で障害者7人の指導ははちゃめちゃだった。一人の相手を長くしている間に、他の生徒を待たせなければならない場面が多く、生徒にも辛抱をしてもらわなければならなかった。謝り通しの私に、「いいえ、大切なことは先生から編み物を教わって編めるようになると言うことです。」と一人がメッセージを送ってくれた時には、生徒あっての教師だと痛切に感じた。
分室に移動した11月以来、生徒は時間通りに教室に来て、時間内は集中して作業し、勝手にいなくなったり、他のクラスからも滅多に乱入したりしなくなった。食べ物を持って入ってきた小学生には、外で食べるように、話しかけて邪魔する生徒には勉強道具を持ってきて静かにすることを命じた。外出する時は担当インストラクターの許可を得るようになった。担当の社会福祉士は、より生徒寄りになり、クラスでの様子を見ることもなく想像で生徒の進捗を報告することや、インストラクターに断りもなく授業中に気まぐれに生徒を誘拐(いきなり教室に入ってきて、作業中の生徒を連れ出しカウンセリングと称して審問すること)することが減ったように感じる。このセンターのソーシャルワーカーたちは、教育現場や子どもの教育を受ける権利を下に見ているからそういう態度なのだ。60までしか数えられない彼らと一緒に懸命に目数を数えている最中に、生徒が今何をしているのか観察も理解もせず、自分の用の方がプライオリティが高いと思い込んで割り込んでくる傍若無人さが不愉快極まりなかった。そして勝手な時に上役が企画した日中の親睦会にインストラクターたちを、生徒を放置してでも招集する病的な施設文化を、受け入れざるを得ない圧もあった。実際、食べ物が喉を通らない気持ちであっても。
今日と明日の二日間にわたって、全体オリエンテーションが行われ、社会省の障害者の生活改善や社会的包摂への取り組み、スハルト博士のビジョン、センターの沿革、職業訓練や心理社会教育、スポーツや音楽他、センターで実施されているもろもろの活動の内容や意義について、各部門からの生徒たちに向けた説明があった。少し社会省のプロパガンダ的な部分や、センター各部門の成果の担当者よがりな喧伝の側面もなくはなかったし、知的障害の生徒や子どもには難しかったであろうけれど、生徒たちが自分の置かれた環境を俯瞰するための情報共有はできたと思う。私のクラスの生徒たちは一番前の列に陣取り、私が紹介される場面になると誇らしげに私の名前を呼んでくれた。それはクラスの主役である彼女らが作り上げたチームだ。
自己紹介の代わりに、マイクを渡された私は、ただ「私はどこから来たでしょうか?」と会衆に尋ねた。Jepang! そう答えてくれたみんなに、なおも尋ねた。「それは近いでしょうか?遠いでしょうか?」「遠いです。」「はい、そうですね、私はとても遠くから来たのです。飛行機に乗って合計で10時間です。皆さんの夢が叶いますように」「Amin!!」

漠然と活動していた生徒たちに、ルーティンにおけるルールやその意味をあらためて共有することは、私が当初から主張していたモチベーションのアップにつながることとして一定の評価はできる。意味もわからず、毎日毎日何かを強制されて作業するのは、古代の囚人科役の石積の刑のようなもので、課された人はどうしてもふてくされていく。それに、放置されてきた彼らが良いインドネシア人として社会に認知されるためにも、健全な目標を持つ必要があると考えてきた。
センターに配属されて以来ずっと、生徒の背景がなんであれ、一人一人が人格と人権を持った人として尊重され、待遇されるべきだと思っていたから、センターの精神的進歩は望ましい方に向かっていると信じたい。インドネシアは、障害者権利条約を日本よりもずっと早く批准している割には、市中では依然として彼らを露骨に奇異な目で見て、邪険に扱う人々が少なくない。
階級や身分差のある社会や共同体では、人間をいろいろに区別する。望んでそのように生まれたわけではない特性で仕分けられ、教育を受ける機会を制限されるために開花できないでいる人は多い。私のクラスにはデータ上は低IQとされる生徒が何人もいる。確かに彼女たちは世間知らずではあるが、決して愚鈍ではない。それぞれ個性はあるが、情に厚く、友達や家族想いで、正直で真面目である。世古に長けたたいていの人よりずっと信じられるのである。
オリエンテーションが終わって、ひとり教室で次の日の授業の準備をしていたら、受け持ちの生徒含む10名前後の17歳から30歳の女子たちが、はしゃいで少し興奮気味に教室に向かって歩いて来た。
バインダーを持ったひとりが、
「今日の活動の出席簿にMs.Akiもサインしてください!」
「私も?サインね、いいわよ。」
「ここも書いて!」
見ると、空欄に、"参加の動機"という項目があった。
私は少し考えて、「生徒みんなの夢を叶えるため。」という意味の言葉をインドネシア語で書いた。何人かが覗き込んで、「フムフム。」とスペルチェックをしてくれた。
そして、また高揚して輝く笑顔で、大きな声で何かを話しながら10人してまた分室から出ていった。
そんな彼女たちの後ろ姿を見ながら、このクラスを始める前、少なくとも、このセンターにいる間は、みんなと全力で同じ青春を走っていく、と心に決めたのを思い出した。
こんな幸せな瞬間が、日本に帰った後で、将来きっと何度も瞼に甦るだろうと思った。私は来るべきところに来たんだ、と、この眩しい青春に立ち会うために来たんだ、と、そう思えた。
