『顔を捨てた男』は、いかにして〈誰も観たことのない〉心理スリラーとなったのか(ネタバレあり)
ある病により顔に極端な変形を抱えるエドワード(セバスチャン・スタン)は、容姿へのコンプレックスから目立たないように生きてきた。そんな彼が、画期的治療によって新しい顔を手に入れ、まるで別人のように新たな人生を歩みはじめる。ところがそこへ、かつての自分に似た顔を持ちながら、明るく堂々と生きる男(アダム・ピアソン)が現れて…。
『サブスタンス』と共通点の多い作品だが、こちらは、〈ルッキズム〉や〈他者の視線/評価の内面化によって生まれる自己嫌悪〉といったテーマに、より深く踏み込んでいて面白かった。
『顔を捨てた男』は、人間ドラマ、ボディホラー、ノワール、心理スリラー、ダークコメディといった様々なジャンルを自在に行き来する。
前半には、70~80年代のニューヨーク・インディ映画の趣きがある。神経線維腫症によって顔が極端に変形したエドワードに寄り添いながら、彼が外界に対してどのような恐れを抱えて生きているのかを、じっくり見せていく。(エドワードの部屋のテレビからは、70年代のニューヨークが舞台のスラッシャー/ブラックコメディ映画『The Driller Killer』(1979)が流れていたりする。)
本作の脚本・監督を務めたアーロン・シンバーグ自身も、過去に両唇口蓋裂の治療を受けており、この映画は自身の経験を表現したものだと語っている。*1
ニューヨークの地下鉄や、エドワードが住むアパートで見せる、人目を避けるような仕草やおどおどとした喋り方が、彼の来し方を観客に想像させる。セバスチャン・スタンは、撮影中、エドワードの置かれた状況や内面を理解するため、顔の特殊メイクを施したままニューヨークの街を歩き回ったという。*1

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エドワードが赤いタイプライターで打ち込んでいたように、人々は彼の外見だけに興味を抱き、外見だけを理由に彼を拒絶する。エドワードは、誰ひとり自分を人間として見ていないと感じており、そのことが彼自身の自己認識にも影を落としている。
そんななか、隣室に劇作家を目指すイングリッド(レナーテ・レインスヴェ)が越してくる。やがて二人はエドワードの部屋で共に過ごすようになるが、それ以上の関係へと進展することはない。
エドワードは俳優業に情熱を傾けるが、演技そのものは決して優れているとは言えない。彼がオーディションで演じるのは、戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』の一節。容姿への強いコンプレックスから、密かに想いを寄せる女性への恋心を押し殺す男の物語である。
本作には、トニ・モリソンの小説『青い眼が欲しい』が繰り返し登場する。この物語の主人公である黒人の少女は、自分の不幸の原因が「白人の美の基準」にそぐわない容姿にあると信じ込み、青い目になれるよう祈り続ける。その姿は、「皆と同じような顔であったら」と願うエドワードに重なる。小説の少女とエドワードに共通するのは、他者の価値基準を内面化したことによって生まれた劣等感と自己嫌悪であり、それが、彼に自らのアイデンティティを捨てさせる動機となっていく。
やがてエドワードは、彼の症状を治癒させる画期的な治療を受け、ハンサムな新しい顔を手に入れる。彼は、エドワードは自殺したのだと周囲に説明し、これまでとはまったく異なる人生を歩みはじめる。

彼は自らをガイ(Guy)と名乗るようになる。「Guy」、すなわち「ただの男」である。新しい顔を得た彼は、街を長い時間歩き続ける。誰にも見られず、誰にも笑われない。生まれて初めての〈匿名性の自由〉を享受する。
時が経ち、ガイは俳優としての夢を手放し、不動産業で一定の成功を収めている。かつて想いを寄せたイングリッドに新しい顔で会いに行くことはなく、別の相手と気軽な恋愛を楽しんでいる。
それでも、彼の本質は変わっていない。不動産の同僚に顔を触れられたとき、顔の痘痕を指摘されたとき、地下鉄で少年にじっと見つめられたとき――その度に、おどおどとしたエドワードの面影がふと顔を覗かせる。
ある日ガイは、イングリッドがかつての自分を題材とした『エドワード』という舞台を制作していることを知る。そして彼は、その主役の座を手にする。ガイが、かつての自分の人生を、かつての自分の顔のマスクを着けて演じるのが象徴的だ。この辺りから、映画は心理スリラーの様相を帯びはじめる。
『サブスタンス』の主人公が「より若く美しいバージョンの自分」になっても、また自分をクビにした番組へと戻っていくように、ガイもまた、失ったかつての自分を取り戻そうとするかのように、エドワードという役に執着していく。結局のところ、エドワードという人間の本質は変わっていないので、ガイとしての生では満たされないのだろう。
第三幕では、かつての自分に似た顔を持ちながらも、エドワード/ガイとは対照的に、明るく堂々と生きる男・オズワルドが登場する。かつてのエドワードをモデルにした演劇の役が、徐々にオズワルドに奪われていく展開となり、この辺りから映画が本当に面白くなる。そこには、ガイが手に入れたくてたまらない〈真の自分の居場所〉が、オズワルドに乗っ取られていくような感覚がある。
オズワルドは、自信に満ち、話し上手で、周囲の人々を自然と惹きつける。ガイが想いを寄せてきたイングリッドも、次第にオズワルドに惹かれていく。
エドワード/ガイは、自分の引っ込み思案な性格を見た目のせいだと考えてきた。そして、自分を外見だけで判断する社会や他者に原因があると信じてきた。だが、自分と似た顔を持ちながら、堂々とふるまうオズワルドの存在は、彼の自己理解を根底から揺るがす。
オズワルドは、エドワードがなり得たが、決してなれなかった人物のように見えてくる。顔の治療に関係なく、もしエドワードが自らを肯定できていたなら、満ち足りた人生を送れていたのではないか――。

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ここで、謎の多いイングリッドという女性についても考えておきたい。エドワードが治療を受ける前、彼女は彼と親しくしていたが、それは本当に彼の人間性に惹かれてのことだったのか?彼女の行動の動機はあえて曖昧に描かれているが、私にはそうは思えなかった。
ガイが彼女と再会し、バーで「エドワード」という役について語り合う場面。「具体的なモデルがいるのでは?」というガイの問いを、イングリッドは巧みにかわし続ける。しまいには、「あれは私の創造物だ」とまで言ってのける。
ガイがイングリッドの部屋を訪ねると、壁には、エドワードのように特異な顔を持った複数の男性の写真が貼られている。
私には、イングリッドは、エドワードという人間に興味があったわけではなく、彼女にとって創作のインスピレーションとなっている〈特異な顔〉に執着しているのだと思えてならなかった。かつて、エドワードが誤ってナイフで指を切ったときに彼女が口走ったように、なぜ彼が血を流しているのかは、「None of my business.(私には関係ないこと)」なのである。
本作を観ていて、なぜガイは自分がエドワードであることをイングリッドに明かさないのか?と疑問に思うかもしれない。だが、それを打ち明けたところで、彼女は〈特異な顔〉を持たないエドワードには、なんの興味も示さないかもしれないのだ。
エドワードがイングリッドに贈った赤いタイプライターは、今も彼女の部屋に置かれている。だが彼女は、ガイに「ほしければあげる」とあっさり言い放つ。
これは、かつてエドワードが、悲痛な心の叫びを打ち込んだタイプライターである。イングリッドによる赤いタイプライターのぞんざいな扱いは、エドワードの苦悩や葛藤を、彼女が創作の糧としてインスタントに消費していることを示唆しているのかもしれない。
他にも、赤という色が象徴的に使われていた。イングリッドは、エドワードの部屋のドアを勝手に赤いペンキで塗っていた。一方で、のちにオズワルドが同じ部屋に引っ越してくると、そのドアは黒に塗り替えられる。
この違いは、イングリッドにとって、オズワルドがエドワードとは異なる存在であり、より長期的で人間的な関係を結べる相手であることを示唆しているのかもしれない。似た顔の特徴を持つエドワードが、イングリッドにとって創作上のインスピレーションにしかなり得なかったことは、決してイングリッドだけのせいではないのだ。

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オズワルドの自信に満ちた姿に感化されたガイは、彼の魅力の根底にある自尊心や自己肯定感には目を向けず、その表面的な振る舞いをなぞろうとする。やがてガイは、不動産業の接客中に、かつての顔のマスクを着けてオズワルドのように振る舞い、結果として職を失う。
結局のところ、ガイは自らの本質と向き合うことなく、かつて「この顔さえ変われば、人生は変わる」と信じていた頃と同じように、「オズワルドのように振る舞うことさえできれば…」という思考パターンに陥っている。
やがてガイは、オズワルドがエドワードを演じる舞台に乱入して暴れ、結果として四肢を損傷する。回復するまでの間、オズワルドとイングリッドの家で世話になるが、ある日、リハビリ中にオズワルドの容貌を侮辱したトレーナーを包丁で刺してしまう。
時が経ち、刑期を終えたガイは、オズワルドとイングリッドに再会する。エドワードを題材にした劇は過去のものとなり、オズワルドはもうイングリッドの舞台には出演していない。ふたりの子どもは自立し、仕事もやり尽くしたので、カナダに移住してカルト的な団体に加わるつもりだと彼らは語る。映画は、オズワルドの「古き友よ、君はちっとも変わらないね」という一言で幕を閉じるわけだが、ふたりの人生とガイの人生との対比は、残酷なまでに鮮やかだ。
「顔さえ普通だったら、自分の人生は違っていたはず」――そう信じていたガイだったが、現実はそうではなかった。映画の前半で、隣人の男性(エドワードに出くわすたびに「Jesus, Christ」と呟いていた彼)が、すらりとした女性と手を繋いで歩く様子を、エドワードは見つめていた。「こんな顔でなければ、俺だって」と思っていたのかもしれない。しかし、やがてその隣人は首を吊って自殺してしまう。外から見えるものだけでは、その人が本当に幸せかどうかは分からない。エドワードが隣人の表層しか見ていなかったことを示している。
ラストシーンで、ガイがレストランの別の席に目をやると、この亡くなった隣人の交際相手だった女性が悲しげに座っている。彼女は、哀悼の意を示すヴェール付きの帽子をまとっており、これまでずっと亡き恋人を思いながら時間を過ごしてきたことが窺える。
この女性とガイに共通するのは、「今の自分にないもの」あるいは「失ってしまったもの」を求める気持ちである。エドワード/ガイは常に、自分に欠けている何か――はじめに「普通」の顔を、次にかつての自分を、そしてオズワルドの自信に満ちた姿を――追い求めることに、人生の多くを費やしてしまった。
ラストシーンで一度だけ、オズワルドがガイのことを初めて「エドワード」と呼ぶのにハッとさせられる。この物語において、なぜかガイの行く先々に現れる、彼とあらゆる面で対照的なオズワルドという存在は、いったい何だったのか?エドワードのドッペルゲンガーだったのか?――心理スリラーとしての余韻を残すエンディングである。

この、なかなか思いつかないような奇抜な設定のストーリーは、アーロン・シンバーグ監督の実体験から生まれた。監督は、オズワルドを演じたアダム・ピアソンが『顔を捨てた男』制作の大きなきっかけになったと語っている。*1
実際に神経線維腫症を抱えるアダム・ピアソンは、アーロン監督の過去作『Chained for Life』(2019)にも出演している。アダムと協働するなかで、アーロン監督は、彼の人間的な魅力とカリスマ性に衝撃を受けたという。*1
監督自身、自らの対人不安や人見知りの性格は、かつて抱えていた口蓋裂のせいだと長らく考えてきた。だが、アダムと出会い、本当にそれだけが理由なのか?と、自分自身の認識を疑うようになったという。この監督の体験こそが、まさにエドワードの物語に反映されている。*1
特異な顔を持ちながらも、明るく振る舞い、周囲を惹きつける人物に対して、ハンサムな男が羨望を抱く――『顔を捨てた男』のこの筋書きだけを聞くと、映像化したときに説得力を持たせるのがなかなか難しそうだと分かる。
しかし、アダム・ピアソンの見事な演技が、この難しい展開に説得力を与えている。彼が演じるオズワルドは本当に魅力的なので、ガイが嫉妬するくだりが自然と受け入れられる。これは凄いと思う。アダムという存在が、本来成立しないはずの映画を成立させていることに驚かされたのであった。
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〈引用〉
1. 'A Different Man' Director Aaron Schimberg, IndieWire's Filmmaker Toolkit - Podcast
https://open.spotify.com/episode/2RElaJ7kpl1RRDcnOqCrHU?si=S_O6sfrbTL28lnE9xP8BgQ

