徹底解説『テレビの中に入りたい』はなぜアメリカの若者からカルト的に支持されたのか?(ネタバレ)
この記事は『テレビの中に入りたい』のネタバレを含みます。
アメリカ郊外の暗闇に浮かぶネオンの光が印象的な『テレビの中に入りたい』は、怪しく輝くノスタルジーの魅力に満ちている。かわり映えしない郊外の街の、自動販売機やアーケードの人工的な光。子どもの頃、深夜番組をドキドキしながら見つめたあの感覚。90年代、ゼロ年代のエモく懐かしいインディー音楽(※1)――38歳のジェーン・シェーンブルン監督は、このタイムカプセルのような映画で、90年代の郊外の町で過ごした自身の思春期へと観客を誘う。
※1 スマッシング・パンプキンズの「Tonight, Tonight」、ブロークン・ソーシャル・シーンの「Anthems For A Seventeen Year-Old Girl」が劇中に流れる。
アイデンティティに揺れる二人のティーンと、彼らが取り憑かれるように夢中になるテレビ番組『ピンク・オペーク』。ポップカルチャーは現実からの避難場所となり、時に自己理解への扉となる。「時々、テレビの話が現実みたいに思える」と呟くマディの言葉に、自分自身を重ねた人も多いのではないだろうか。私もその一人で、だからこそ、あのアンチ・クライマックスなラストシーンには胸を打ち砕かれてしまった。
シェーンブルン監督は、『テレビの中に入りたい』(以下、『テレビの中に』)をトランスジェンダーの寓話として説明している。自らがトランスジェンダーであることに気づき、それを受け入れる(あるいは否認する)ことについての物語であると。監督が脚本に取りかかったのは、周囲にカミングアウトしてホルモン補充療法を始めた3か月後というタイミングだった。あの悪夢的なエンディングは、単なる悲観や露悪ではなく、当事者が自らのトランス性(transness)に気づいたあとに直面する困難な道のりを、正直に描こうとした結果なのだという。*引用1
避難先あるいは自己理解の扉としてのポップカルチャー
1996年の大統領選の投票日、不器用で内気な中学一年生のオーウェン(イアン・フォアマン/ジャスティス・スミス)は、夜の学校で2つ上の学年のマディ(ジャック・ヘブン)に出会う。
二人は、マディが夢中になっている『ピンク・オペーク』というテレビ番組を介して不思議な絆を結ぶ。この架空のティーン向けドラマは、夏のキャンプで出会った2人の少女、タラとイザベルが、テレパシーを通わせて念力を放ち、悪の親玉 “ミスターメランコリー” の手下を倒していくという設定だ。

オーウェンは厳格な父親が決めた就寝時間を守らないといけないため、『ピンク・オペーク』をリアルタイムで観ることができない。ある日、オーウェンは夜更かしして放送を観てもいいか尋ねるが、父親の返事は「その番組、女の子向けじゃないのか?」というもの。オーウェンの思春期には、この威圧的な父親が影を落とし続ける。
マディもオーウェンも、クラスメートたちが恋愛やパーティに夢中になっていく中、「自分は何かが違う」と感じている。彼らが通う高校の名前は「虚無」を意味するVoid High School(略してVHS)。そんな二人の欠落感を埋めてくれるものがまさに『ピンク・オペーク』だった。
心の奥にあるものをポップカルチャーの中に見つけるという体験は、自分が何者であるかを理解するための第一歩となり得る。特に90年代は、ゲイやレズビアン、ましてやトランスの物語がメインストリームにはほとんど存在しなかった。その中で、『ピンク・オペーク』は、オーウェンとマディにとって極めて大きな意味を持っていたのだろう。

これには、ノンバイナリーのトランスジェンダーであることを公表しているシェーンブルン監督が、閉鎖的な郊外の町で疎外感を感じながら育った経験が投影されている。自分の居場所を見失った思春期に、『バフィー 〜恋する十字架〜』(※2)や『ピートとピートの冒険』(※3)といった1990年代から2000年代初頭のティーン向けドラマが自分を救ってくれたと語る。*2
※2『バフィー 〜恋する十字架〜』……超人的な力を持つバンパイアハンターの女子高校生バフィーが友人らとともに怪物を倒していく学園ホラー
※3『ピートとピートの冒険』……郊外に暮らす二人の兄弟の日常に起こる超現実的なできごとを描いた青春コメディ
実は、『テレビの中に』には、これらの作品に出演していた俳優がカメオ出演している。『バフィー 〜恋する十字架〜』で「タラ」という名前の魔女で、女性同士の恋愛関係を持つキャラクター(当時のティーン番組では珍しかった)を演じていたのが、女優のアンバー・ベンソン。ある日、オーウェンはマディから一緒に町を出ようと提案されるが、怖気づいて昔の友人ジョニーの家の門を叩く。ここで、パニックになったオーウェンを優しく抱きしめるジョニーの母親を演じているのが、アンバーだ。
それから8年後、一度失踪して戻ってきたマディに、真実を伝えるからと体育館に呼び出された夜、オーウェンが家を出るとそこに2人の白塗りの男性が立っている。この2人こそ、『ピートとピートの冒険』の主人公兄弟を演じたマイケル・C・マロンナとダニー・タンベレッリである。監督は、これらのカメオ出演は単なるイースターエッグではなく、映画のテーマを深めるために必要なものだったと語っている。*3
トランスジェンダーの葛藤を驚くべき切実さで描く
オーウェンが家出する約束を破ったあと、マディはひとり姿を消す。不思議なことにその同じ月、『ピンク・オペーク』が突然打ち切られる――ヒロイン2人が生き埋めにされ(クィア性やトランス性を自身の内側に閉じ込めることのメタファーといえる)、“真夜中の国” に囚われるという衝撃的なクリフハンガーを残して。オーウェンは優しい母親を癌で失い、父親と二人暮らしになる。退屈な映画館の仕事に就き、大人になっても帰りが遅れたことを謝りながら日々をやり過ごす。
8年後、マディが突然オーウェンのもとに戻ってくる。番組の中のタラと同じ格好をして。彼女はオーウェンに『ピンク・オペーク』を観ていたときの記憶を問いかける。すると彼の中に、抑圧された記憶(あるいは、ありえた可能性の幻視だろうか)がよみがえる――イザベルと同じピンクのドレスを着た自分の姿だ。
2人が会話する町のはずれのバーは、シェーンブルンが影響源のひとつに挙げる、デイヴィッド・リンチの『ツイン・ピークス』に登場する酒場「ロードハウス」を思わせる。バンドのライブ演奏が映画のエモーションを増幅し、登場人物たちの言葉にしない思いを伝える。
マディは真相を打ち明ける――『ピンク・オペーク』は現実だと。彼女はタラであり、オーウェンはイザベルなのだ。オーウェンが暮らす郊外の町こそが “真夜中の国” であり、そこから脱出しなければならない。戻る方法はただひとつ。オーウェンは自分を「生き埋め」にして、イザベルへと「変身」しなければならない。
オーウェンのイザベルへの「変身」は、アイデンティティの移行、つまり性別移行(トランジション)の暗喩であろう。オーウェンはマディについていくが、最後の瞬間にためらい、マディの差し伸べる手をまたも拒んでしまう。
『テレビの中に』における真の悪役は、登場人物たちに向けられる「視線」である。だからこそ、ミスターメランコリーは空から彼らを見下ろし、服従させ続ける。オーウェンは、抑圧的な父親や、オーウェンを「普通」という型にはめようとする、あの郊外の町のあらゆる「視線」によって、身動きが取れなくなっている。

シェーンブルン監督は、自身がカミングアウトした当時、32歳で結婚していた。カミングアウトすればこれまでの人生が終わってしまうと理解していたという。これまでの生活を捨てて性別移行することは、現実の世界を捨ててテレビ番組の中に入るのと同じくらいクレイジーなことだと感じていたと語っている。*1
オーウェンが『ピンク・オペーク』シーズン5の最終話を観るシーンでは、現実世界とテレビの世界が反転するような演出がなされている。ミスターメランコリーがイザベルを閉じ込めるスノードームの中では、幼少期のオーウェンが部屋でテレビを見ている。この映画では、オーウェンのいる現実世界をビスタサイズ(1.85:1)、『ピンク・オペーク』の映像をアカデミーサイズ(1.37:1)で映し出すが、この場面ではこの2つの世界の画面サイズが反転していく。
家族を大切に想うあまりカミングアウトできないジレンマ
私が本作で一番胸を打たれたことの一つは、オーウェンが自らのトランス性を認めるのをためらう気持ちが、見たことないほどの切実さで描かれていたことだ。イザベルこそがオーウェンの真の姿なのだとマディが説得しようとするとき、父親と野球の試合を観に行ったときの記憶や、母親と一緒に料理をしたときの記憶が、オーウェンを踏み止まらせる。
マディに町を出ようと持ちかけられたときにも、「僕をマディと一緒に行かせないで。家を去りたくない」とアンバー・ベンソンに泣きついていた。オーウェンにとって彼の両親は、自分をありのままにさらけ出せる相手ではなかったとしても、大切な両親であることに変わりはないのである。
しかし、家族との関係を壊したくないと思うあまり、オーウェンは本当の自分を認めてあげることができない。家族を大切に思う気持ちが、ある意味では足枷となっており、この映画はそのジレンマを巧みに描き出している。マディの母親と継父が彼女に無関心である一方で、オーウェンは過保護な両親のもとで育った。この2人の家庭環境の違いも、それぞれが歩むアイデンティティ探求のプロセスに影を落としているという見方もできるだろう。
エンディングの解釈
その一歩をどうしても踏み出せないオーウェンは、本人の言葉通り、自分を内側に閉じ込めて、実家に留まる。それでも、マディが再び現れていつか自分を地下へ押しやってくれる日を待ち続ける。しかし、彼女が姿を現すことは二度となかった。歩道にチョークで書いた「まだ時間はある(There is Still Time)」というメッセージだけを残して。
それからのオーウェンの人生は一見、順風満帆のように見える。彼自身が語るように「生産的な社会の一員」となり、アーケードでの仕事、家、大きなテレビ、そして大切な家族(観客の目には一度も映らないのだが)を持っている。
あるとき、彼は久しぶりに『ピンク・オペーク』を観直す。VHSのテープがなくても、今やストリーミングで簡単に観ることができる。だがそれは、かつてオーウェンが夢中になり、自らを重ねていた複雑なドラマとは似ても似つかない、陳腐で安っぽい子ども番組でしかなかった。
そして第三幕へ――二十年後、オーウェンは今もアーケードで働いている。ネオンカラーの装飾に彩られた店内は、彼が選ばなかった道を残酷に思い起こさせる。彼はゼーゼーと息をして、年齢以上に老け込んでいるように見える。オーウェンは本当の自分を押し殺す日々の中で、文字通り窒息しかけている。
アーケードで開かれる子どもの誕生日パーティで、オーウェンは突然発作を起こし、叫びはじめる。「助けてくれ」とくり返すが、不思議なことに、その叫びは誰にも届かない。彼の内側で何かが死につつあるという叫びを、周りの人たちは無視し続ける。
洗面所に駆け込んだオーウェンは自分の胸を裂き、鏡の前に立って体を引き裂いていく。すると、その奥から目も眩むようなテレビの光があふれ出す。ボディホラー的な描写だが、そこには確かにカタルシスがある――彼は死んでなどいなかった。まだ自分の本来の姿を取り戻す可能性が残されていたのだ。ポップ・ミュージシャン yeule がカバーした「Anthems For A Seventeen Year-Old Girl」がエモーションを最高潮に高める。
だが、次の瞬間、「さっきは取り乱してすみません」とオーウェンが客に謝って回るシーンに切り替わる。先ほどの光景は幻想にすぎなかったのか――そのまま映画は幕を閉じる。オーウェンの中のイザベルは “真夜中の国” に閉じ込められたままだ。静かに窒息しながら。
「I’m sorry」に込められた、内面化した恥の意識
シェーンブルン監督は、このエンディングで、たとえトランスジェンダーが自らのトランス性に気づいても、そこからすぐに性別移行のステップに踏み出せるわけではないという事実を正直に描いたのだという。かつて監督自身が、「カミングアウトすれば罰せられる」というシグナルを社会から受け取り続けた結果、「自らのトランス性は恥ずべきもの」という意識を内面化していたと語る。そしてこの「自分という存在自体を謝りたい」という感情は簡単に消え去るものではないことを、嘘偽りなく描きたかったという。*4
ただこの映画の限られた時間で、オーウェンを真の自己愛の境地へ導き、彼をあるべき人物にするのは不誠実だと感じました。私にとって、その可能性がある場所へ辿り着くまでの過程だけでも、一本の映画として描くには十分に大きなテーマだから。
ラストシーンで「I’m sorry」とくり返すオーウェンの姿は、彼が初めて『ピンク・オペーク』を観た夜にマディに言われた、「謝らないで」という言葉と響き合う。マディはいつだってオーウェンの自己発見の旅路の少し先にいて、彼を導いてくれる存在だった。あの郊外の町で成長していく中で芽生えた違和感――自らの内にあるクィア性によって結び付いたオーウェンとマディの絆は、胸を打つものがある。

北米の若者のあいだで巻き起こったSNSムーブメント
映画は悪夢のような結末を迎えるが、これを『ピンク・オペーク』のようなテレビシリーズの文脈に置き換えるなら、『テレビの中に』のエンディングもまた、次のエピソードのためのクリフハンガーなのかもしれない。そして、絶望的なクリフハンガーに続くはずの希望に満ちたエピソードは、映画の外に広がっているといえるかもしれない。
本作が北米で封切られるや否や、大きな反響が巻き起こった。映画を観た多くの若者たちがカミングアウトの投稿をしはじめたのである。北米の映画レビューサイトLetterboxdで最も閲覧されたレビューは次のようなものだ。
私の名前はジュリー。トランス女性です。今夜こうして言葉にして、だれかに伝えたのはこれが初めてでした……。エンドロールが流れた瞬間、もう隠れるわけにはいかないと、はっきりそう思ったんです。
TikTokでは、Z世代やミレニアル世代を中心に、本作の原題『I Saw the TV Glow』を冠したハッシュタグトレンドが生まれた。このトレンドは、自分について何か大切なことをカミングアウトした体験――周囲の反応やそのあと自分に起きた変化など――をシェアするものだった。トランスジェンダーだけでなく、シスジェンダーのゲイ男性や、教義の厳格な宗教を離れた人、自分がアルコール依存症であるという事実から長年目を背けてきた人も、誰もがこのトレンドに乗って自分のブレイクスルー体験を共有することができた。
この現象は、『テレビの中に入りたい』という映画の最大の良さを端的に表しているように思う。トランスジェンダーのテーマに扱うにあたり、シェーンブルン監督は、性別移行やカミングアウトといったモチーフを前面に押し出すことを避け、代わりに、解釈の幅のある普遍的な寓話として描くように心がけたという。(*5)その結果、監督自身がトランスジェンダーとして経験してきた個人的な葛藤を、「現実世界で疎外感を感じている主人公が、フィクションの世界に救いを見出す」という誰もが共感し得る物語へと昇華した。
シス男性である筆者が、トランスジェンダーの人の苦しみを完全に理解するのは不可能であろう。しかし、自らの内にトランス性を見出し、それを受け入れていく過程での葛藤は、私もまた思春期に経験してきた、ぐにゃぐにゃした未定義な「私」という厄介な生き物と向き合った憂鬱な日々から、そう遠く離れたものでもないのかもしれない。『テレビの中に入りたい』は、クィアなピンクネオンの光に満ちながら、それでいて誰もが経験する思春期の痛みを切実に掬い上げたカミング・オブ・エイジ映画である――あえてそう呼びたい。(終)
※劇中のキャラクターの代名詞は、シェーンブルン監督がインタビューで使っているものを使用しています。
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