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『エクソシスト』を語る夜|本物の発掘現場と、信じさせるための狂気——史上もっとも恐れられた映画はどう作られたか【シネマ先生の裏漫談】

🎬 シネマ先生の裏漫談 金曜日のレビュー本編では語りきれない、映画の「外側」の話。 制作秘話、文化への衝撃、先生だけが知るエピソード—— シネマ先生がひとりで静かに語る、水曜夜の余談です。 本編とセットでどうぞ。ネタバレはほぼありません。


今夜は『エクソシスト』。観た方には「なぜあそこまで怖かったのか」の答えを、まだ観ていない方には「半世紀前の映画が、いまだに恐れられている理由」を。

2026年7月22日、水曜日。夜。今日は、トックもヨイ君もいない。一人で、酒でも舐めながら話す。——金曜の本編は、いつもの漫談とは、少し趣向を変えるつもりだ。何をやるかは、まだ言わない。観てのお楽しみ、というやつだ。ただ、その下準備として、今夜は、ある二人の男の執念の話をしておきたい。この映画を「本物に見せた」男たち——フリードキン氏と、ブラッティ氏。この二人がいなければ、あの映画は、ただのお化け屋敷で終わっていた。


それは、実話から始まった


まず、原作者のことから話そう。ウィリアム・ピーター・ブラッティ氏。彼は、敬虔なカトリックだった。

1949年、ジョージタウン大学の学生だったブラッティ氏は、新聞である記事を読む。メリーランド州の、ある少年が悪魔に憑かれ、イエズス会の神父たちが悪魔祓いを行った——という実話の報道だ。少年は仮名で「ローランド・ドゥ」と呼ばれる。亡くなった叔母がウィジャ盤(降霊術の道具)を教え、その死後に異変が始まった、とされる。

この記事が、二十数年後、ブラッティ氏の中で小説になる。彼は単なる怪談として書いたのではない。ブラッティ氏自身が、生涯を通じて信仰と向き合った人だ。彼にとってこの物語は——「悪魔が存在するなら、その反対側に、神も存在するはずだ」という、信仰の証明の試みだった。

ここを押さえておいてほしい。原作者は、これを「信仰の物語」として書いた。悪が実在することを描くことで、逆説的に、善の実在を信じようとした。——この前提が、金曜の本編の話に、深く効いてくる。


監督は、信仰を削った


ところが、映画化で監督を務めたウィリアム・フリードキン氏は、まったく違うアプローチを取った。

フリードキン氏は、もともとドキュメンタリーの出身だ。彼の関心は「信仰の証明」ではなく、「これは本当に起きている、と観客に信じ込ませること」にあった。だから彼は、ブラッティ氏が込めた宗教的な「救いの説明」を、画面から削いでいった。神学的な慰めを、ほとんど残さなかった。

結果、何が起きたか。原作者ブラッティ氏は、完成した映画を観て、こうこぼしたと伝えられている。「みんな、悪魔が勝ったと思っている」と。——信仰の勝利として書いたはずの物語が、監督の手で、神の見えない、底の知れない映画になっていた。

私はこの「作者と監督のすれ違い」こそが、この映画を傑作にしたと思っている。ブラッティ氏の「信じたい」と、フリードキン氏の「信じ込ませたい」。この二つがぶつかった裂け目に、観客は落ちる。救いがあるのかないのか、決められない。その決められなさが、半世紀、人を捉えて離さない。


本物の発掘現場で、撮った


では、フリードキン氏の「信じ込ませる」執念が、どこまで常軌を逸していたか。冒頭の、イラクの場面の話をしよう。

あの、老神父メリンが砂漠の遺跡を歩く場面。フリードキン氏は、あれをセットで撮らなかった。実際にイラクへ行き、ハトラという古代都市の、本物の発掘現場で撮影したのだ。当時、ドイツ人考古学者が指揮していた本物の発掘に、カメラを持ち込んだ。マックス・フォン・シドー氏演じるメリンが遺跡を歩くショットの多くは、演出ですらない。本物の発掘作業のただ中だ。

しかも、その現場で掘り出されていたのは、本物の出土品だった。紀元240年、この都市は征服され、住人も彫像も、首を刎ねられた。発掘隊は、その首のない彫像を、実際に掘り出していた。映画に映るあの不穏な遺物の数々は——本物の、首を落とされた古代の像なのだ。

ただ一つ、脚本が要求した「丘の上の、悪魔パズズの大きな像」だけは、現場に都合よく埋まってはいなかった。そこでワーナー・ブラザースはどうしたか。——像を一体、自分たちで作り、バグダッドまで空輸した。本物の遺跡に、本物の出土品に囲ませて、たった一体だけ、偽物の悪魔を立てた。観客には、見分けがつかない。本物の中に、悪魔だけが紛れている。

これが、フリードキン氏の「信じ込ませる」だ。嘘の話を、これ以上ないほど本物の環境で撮る。観客の理屈は、その本物らしさの前で、武装解除される。


寒さも、音も、本物だった


執念は、悪魔祓いの寝室でも変わらない。

あの部屋の、凍えるような空気。役者たちの吐く、白い息。——フリードキン氏は、寝室のセットそのものを、巨大な冷蔵設備で氷点下まで冷やした。煙を焚いて息に見せる、という特殊効果では、散り方が速すぎて嘘になる。だから、本物の冷気で、本物の白い息を撮った。役者は、本当に凍えながら、演技をした。観客が画面から感じる「悪魔の臨在」の正体は、摂氏マイナスの、ただの冷気だ。

音もそうだ。普通のホラーは、怖い場面に怖い音楽を流して、観客に「ここで怖がれ」と教える。フリードキン氏はそれを拒んだ。作曲家が用意したスコアをほぼ丸ごと捨てた。代わりにマイク・オールドフィールド氏の「チューブラー・ベルズ」の冒頭の数音だけを使った。あの曲は本来まったく怖くない。後半はむしろ陽気なプログレッシブ・ロックだ。フリードキン氏は「ブラームスの子守唄のような、子供時代の感触の曲が欲しかった」と語っている。

考えてみてほしい。彼は恐怖の音ではなく無垢の音で恐怖を作ったのだ。そして冒頭のイラクでは、逆に音を「足した」。発掘の槌音、祈りの声、近くで起きる犬の喧嘩、電子的な軋み——それらを不穏に重ねて、まだ何も起きていない遺跡をすでに何かが満ちている場所に変えた。引くべきところで引き、足すべきところで足す。すべては観客の理屈を眠らせ、体を直接信じさせるためだ。


物語は、生まれた土地で起きた


もう一つ、面白い縁の話をしよう。この映画の主な舞台は、ワシントンD.C.のジョージタウンだ。なぜ、ここなのか。

思い出してほしい。原作者ブラッティ氏が、1949年の悪魔祓いの実話を知ったのは、ジョージタウン大学の学生だった頃だ。つまりジョージタウンは、この物語が生まれた土地そのものなのだ。彼は、自分が物語の種を拾った場所を、そのまま物語の舞台にした。

そしてあの有名な場面。カラス神父が転がり落ちる、急で長い石の階段。あれはジョージタウンに実在する。撮影のために作られたセットではない。今も観光名所として残り、ファンが訪れる「エクソシスト・ステップス」と呼ばれる本物の階段だ。フリードキン氏は、ここでも「本物」にこだわった。

考えてみれば奇妙な円環だ。ブラッティ氏は、ジョージタウンで実話を知り、物語を書いた。フリードキン氏は、そのジョージタウンの本物の階段で、物語のクライマックスを撮った。物語が生まれた土地で物語が起きる。——フィクションが自分の故郷に帰ってきて、そこで本物になった。この映画の「嘘を本物で包む」という性質は、舞台選びの時点でもう始まっていたのだ。

……ところで、冒頭のイラクの場面。あの一見いらない長い前置きが、実は本編全体を支える「ある一点」になっている。だが、その話は——月曜の「あれ何」で、トックとたっぷりやることにしよう。種明かしは、彼の問いに取っておく。


映画は裏切らない。 信じたかった原作者と、信じ込ませたかった監督。 その二人の執念が、本物の遺跡と、本物の冷気と、無垢な子守唄でできた、嘘の悪魔を、半世紀、生かし続けている。 ——本物そっくりに作られた嘘だけが、人の理屈を、武装解除する。そういう話だ。


金曜日、私はトックとヨイ君を相手に、この映画を語る。趣向については、まだ言わない。ただ、今夜こうしてフリードキンの執念を並べてみて、改めて思う。あの監督は、悪魔を「本物に見せる」ために、人生を賭けるほどの手間をかけた。——それは、悪魔を信じていない人間には、できないことだ。信じ込ませたい者は、半分信じている。金曜の私も、たぶんそうなるのだろう。何をやるにせよ、な。


🎬 シネマ先生:金曜日、トックとヨイ君と『エクソシスト』を語る。 ——少し、危ないことをやるかもしれん。楽しみにしていたまえ。

📢 金曜公開:映画漫談『エクソシスト』


【なかのひとの一言】

 フリードキン氏もキューブリック氏に負けず劣らずこだわりが強い。無数のテイクを繰り返し、納得のシーンを作り上げるキューブリック氏に対し、フリードキン氏は徹底的なリアリズムにこだわり、一回の中の一瞬を撮るために準備を重ねる。時には役者に怯えた顔を作らせるために平手打ちをし、驚きの表情を作らせるために発砲もいとわない。そのこだわりが作り上げた世界は「恐怖の報酬」で最も開花していたように思います。簡単に言うとキューブリック氏とは別ベクトルのやべー奴なのですが、後世に残る名作はそういう人たちの手から生まれるのかもしれません。本作で言うと後半の悪魔祓いに入ってからの画面のカチコチな硬さと寒さ、あそこは何度見ても悪魔との対決の場として最適だし、こんなところに神なんかいないだろって気になります。
 しかしフリードキン氏はリアリズムにこだわりつつも無神論者ではなかった。そこが面白いところで、氏は不可知論者を自認し「神の力と人間の魂は、人間には知り得ないものだ」と述べ、本作を「信じるものとして撮った」と述べています。確かにこれが神だ、という表現はエクソシストには一切出てきません。神を知ることはできない、しかしいる。というフリードキン氏独特のリアリズムが本作をより一段深くしていると思います。

(なかのひと/良いオカルト映画は神への問いを残す)


👉本編で「悪魔祓い」を語りつくす → 『エクソシスト』考察(#24)金曜更新!

👉 ヨイが初めて来た夜 → 『悪魔のいけにえ』考察(#16)——醜い映画なのに、なぜ目を逸らせないのか


【ファクトチェック】

✅ 確認済みの事実

⚠️ 二次情報・要再確認

  • 1949年の実話の詳細(少年の本名・ウィジャ盤・出来事の経緯)は諸説あり、後年の調査で脚色・誇張が指摘されている

  • ハトラ撮影の具体的な日数・スタッフ証言の細部(自伝・二次資料による)

🔍 諸説あり・独自フレーミング

  • 「ブラッティ(信じたい)とフリードキン(信じ込ませたい)の執念の裂け目に観客が落ちる」という読みは本裏漫談のフレーミング

  • 「物語が生まれた土地(ジョージタウン)で物語が起きる/フィクションが故郷に帰って本物になる」という円環の読みは本裏漫談のフレーミング

  • 「本物そっくりに作られた嘘だけが人の理屈を武装解除する」は本裏漫談の主張

  • 冒頭イラクの場面の意味の解釈は、本裏漫談ではあえて踏み込まず、あれ何#24に預けている



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