『哀れなるものたち』——赤ん坊の脳を持つ女が、世界を「白黒」から「色」で見はじめるまで

大人のカルチャー学び直し大学|映画科 第131講


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この映画の主人公は、脳年齢が生後数ヶ月の「赤ん坊」だ。しかし体は、成人女性のものである。

一つ、突飛な質問から始めたい。もしあなたの脳が今日ゼロにリセットされ、言葉も常識も倫理観も持たないまま、大人の体だけを引きずって明日から生きろと言われたら、何を最初に学ぶだろうか。

この映画の主人公ベラ・バクスターは、その状況を現実に生きている。川に身を投げた女性が引き上げられる。腹には、彼女自身が身ごもっていた胎児がいた。マッドサイエンティストは、死んだ女の頭に、その胎児の脳を移植する。目を覚ました女性は、大人の体を持ちながら、言葉も歩き方もゼロから覚え直す存在として、再び生を歩みはじめる。

これだけ聞くと、悪趣味なホラーの筋書きに思える。だが実際に画面に映るのは、フェリーニ的などぎつい色彩と、フィッシュアイレンズが生む歪んだ世界の中で、ベラが一つずつ「知る」ことを獲得していく成長譚だ。歩き方、言葉、性、暴力、貧困、哲学——彼女は誰の許可も得ずに、それらすべてを自分の体で確かめていく。

物語の大部分は白黒で撮られている。色がつくのは、ベラが初めて「家」の外に出た瞬間からだ。この映画の本質は、実はワンセンテンスで言い表せる。「人はいつ、世界を色つきで見はじめるのか」——それは今日、私たちがAIに"何を"学ばせるかという問いにも、静かに重なってくる。


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「支配された人間」を撮り続けてきた監督が、初めて「自由になる人間」を撮った

ここで一つ補助線を引きたい。監督ヨルゴス・ランティモスのフィルモグラフィーには、一貫したテーマがある。人間が、社会や家族や国家というシステムに、いかに不自然に閉じ込められているか、だ。国際的な出世作となった『籠の中の乙女』(2009)では、親が子どもを外の世界から完全に隔離する。『ロブスター』(2015)では、独身者は45日以内に恋人を見つけなければ動物に変えられてしまう。『女王陛下のお気に入り』(2018)では、宮廷という檻の中で三人の女が権力を奪い合う。

ランティモス作品の主人公は、いつも「囚われて」いた。ところがベラは違う。彼女は生まれ落ちた瞬間から、既存のルールを知らない。だから彼女には、そもそも「檻」という概念がない。ランティモスは本作で初めて、支配される側ではなく、支配という発想自体を持たない人間を描いた。

これは偶然ではない。脚本のトニー・マクナマラは『女王陛下のお気に入り』でもランティモス、そして主演のエマ・ストーンと組んだ盟友であり、三人の再結成として本作は企画された。そしてランティモスは本作の翌年、『憐れみの3章』(2024)でふたたびストーンと組み、今度は「自由」の反対側——支配と服従が生む倒錯を三話のオムニバスで描く。つまり『哀れなるものたち』は、彼のキャリアの中で「檻の作家」から「自由の作家」への、一度きりの跳躍だったのだ。

その跳躍がどこに着地したのか。それを理解するには、この映画が生まれた瞬間の空気を知る必要がある。


2023年、世界は「誰の同意なのか」を問い直していた

少し想像してほしい。2023年という年は、ChatGPTが生成AIブームを巻き起こしてからわずか1年後であり、同時にアメリカでは前年に連邦最高裁が人工妊娠中絶の権利を認めた判例を覆し、「女性の体は誰が決めるのか」という論争が再燃していた年でもある。

『哀れなるものたち』が9月のヴェネチア国際映画祭でワールドプレミアを迎えたのは、まさにこの空気の只中だった。ベラの体は、彼女自身の意思とは無関係に、科学者ゴドウィンによって「作り変えられた」。しかし彼女の脳と欲望は、誰にも書き換えられていない。この映画は、「体は誰のものか」「同意とは何か」という、その年もっとも先鋭化していた社会の問いに、フィクションの形で真正面から応えていた。

もう一つ、覚えておくと誰かに話したくなる事実がある。ゴドウィンという名前だ。これはメアリー・シェリーの父、思想家ウィリアム・ゴドウィンへのオマージュである。『フランケンシュタイン』の作者シェリーの血脈を、本作は意図的に呼び込んでいる。「人造人間が人間より人間らしくなる」という19世紀のテーマを、21世紀のジェンダー論の言葉で語り直したのが、この映画の正体だ。

あの時代が突きつけた問いに、映画はこう応えた——自由とは、与えられるものではなく、失敗しながら自分の手で獲得するものだ、と。では、その自由をスクリーンに定着させるために、制作陣はどれほどの執念を注いだのか。


フェリーニ、ブニュエル、そして『ヤング・フランケンシュタイン』——3本の映画を"設計図"にした美術チーム

ランティモスは美術監督のショーナ・ヒースとジェームズ・プライスに、参考にすべき映画として3本を渡した。フェデリコ・フェリーニ『そして船は行く』(1983)、ルイス・ブニュエル『昼顔』(1967)、そしてメル・ブルックス『ヤング・フランケンシュタイン』(1974)。シュールな寓話性、抑圧された女性の性、そしてフランケンシュタインのパロディ——この3本の掛け合わせこそが、あの悪夢的で滑稽な世界観の設計図だった。

撮影監督ロビン・ライアンは、めったに使われない4mmの魚眼レンズを多用した。歪んだ画角は、ベラの未発達な認知そのものを観客に体感させる仕掛けだ。予算は3500万ドル。アート映画としては破格の規模だが、スタジオはこの「奇妙さ」にこそ賭けた。

さらに際立つのが音楽だ。作曲家ジャースキン・フェンドリックスにとって、これが映画音楽初挑戦だった。木管楽器、パイプオルガン、バグパイプを使い、あえて場面の感情に逆行するような不協和音を鳴らす。「美しいはずの場面で、あえて不安にさせる音を選ぶ」——このこだわりは、ベラという存在そのものの不安定さと分かちがたく結びついている。

こうして作り込まれた世界は、公開されるやいなや、賛否両論を巻き起こしながらも、映画祭の頂点に駆け上がることになる。


10分間のスタンディングオベーションと、イギリスだけ「編集」された1シーン

2023年9月1日、ヴェネチア国際映画祭でのワールドプレミア。上映後、会場は10分間鳴りやまないスタンディングオベーションに包まれ、映画祭最高賞の金獅子賞を受賞した。翌年のアカデミー賞では11部門にノミネートされ、エマ・ストーンの主演女優賞、美術賞、衣装デザイン賞、メイクアップ&ヘアスタイリング賞の4冠を獲得している。

一方で、この映画はイギリスでだけ、公開版が一部編集されている。子どもたちの前で性的な行為が行われる場面が、英国の児童保護法に抵触する可能性があるとして、映倫にあたる審査機関から修正を求められたのだ。「他のすべての国では無編集で公開されている」というこの事実は、批評家の間でも意外と知られていない。

批評の割れ方も興味深い。ある批評家は「これは女性の性的解放を描いたフェミニズム映画だ」と絶賛し、別の批評家は「乳児並みの判断力しかない女性の性を、男性中心の制作陣が消費している」と批判した。称賛と告発が、まったく同じシーンを見て同時多発的に起きたのだ。

これは映画だけの話ではない。「異形のアイデア」に3500万ドル規模の予算をつけるという、スタジオ側の一見無謀な意思決定が、結果的に4つのオスカー像を持ち帰った。予算会議で「前例がない」と一蹴されそうな企画に、どこまで賭けられるか——この逆説は、新規事業の意思決定にそのまま応用できる教訓でもある。

そして、この映画をめぐる議論は、思いがけない場所にまで飛び火することになる。


「AIに何を学ばせるべきか」——学術誌がベラの成長過程をAI倫理の教科書として引用した理由

ここからが本日の核心ネタだ。学術誌『AI & SOCIETY』に、ある異色の論文が掲載されている。タイトルは「Let AI learn from all(すべてからAIに学ばせよ)」。この論文は、ベラの成長プロセスをAIの学習モデルになぞらえ、こう論じている——ベラは、大人があらかじめ「見せるべきもの」を選別しない状態で世界に触れ、貧困も暴力も哲学も自分の目で確かめてから、自分なりの判断を下す。それに対し現在のAIは、学習データを人間が事前に取捨選択することで、無自覚な偏見をそのまま継承してしまっている、と。

つまりベラ・バクスターは、「フィルターのかかっていない経験から学ぶ知性」の寓話として、映画評論の外側、AI研究者のコミュニティでまで読まれているのだ。生成AIが爆発的に普及した年に公開されたこの映画が、数年越しにAI倫理の議論に召喚される——これほど「人に話したくなる」偶然があるだろうか。

これは研究者だけの話でもない。「何を部下に経験させるか」「何を新人に見せて、何を見せないか」という、あらゆる組織の人材育成にも同じ問いが潜んでいる。失敗させずに正解だけを教え込むのか、それとも痛みごと経験させるのか——ベラの成長曲線は、そのまま育成方針の設計図として読み替えることができる。

もう一つ、覚えておきたい仕掛けがある。この映画は序盤、ベラの視界を模すように白黒で撮られ、彼女が初めて「檻の外」に出た瞬間から色がつく。新生児は生後しばらく白黒に近い視界しか持たないという生理学的事実に基づいた演出だ。色は、彼女が世界を「自分の意思」で見はじめた証なのである。

では、この「学び続ける知性」の物語は、最終的にどこへ着地するのか。答えは、あえて用意されていない。

あなたはベラの結末を、「自由の完成」と読むか、それとも「別の檻への移行」と読むか

物語の終盤、ベラはかつて彼女を支配しようとした将軍アルフィーの脳を、山羊のものと入れ替えてしまう。これを痛快な復讐劇と見るか、それとも彼女自身が「ゴドウィンと同じ支配者」になってしまった皮肉と見るか、解釈は分かれる。

解釈A:ベラは誰の許可もなく、自分の欲望と判断だけで生きる自由を、ついに完全に手にした。山羊の脳への置き換えは、彼女を支配しようとした者への正当な報いだ。

解釈B:一方で、他者の脳を勝手に入れ替えるという行為そのものが、彼女を「作った」ゴドウィンの所業と同じ構造を反復している。自由を得たはずのベラが、無自覚に支配者の手法を継承してしまった——という読み方も成り立つ。

正解はない。しかし、この映画が用意した問いは一つだけはっきりしている。学びに「フィルター」をかけないことは、本当に無条件の善なのか。それとも、フィルターなき学びは、いつか別のかたちの暴力に転じるのか。

映画を観終えたら、誰かにこう話しかけてみてほしい。「もしAIに、悪意も善意もフィルターせず全部学ばせたら、それは自由になるのか、それとも危険になるのか」。この問いに、ベラ・バクスターはまだ答えていない。だが一つだけ確かなことがある——彼女は最後まで、世界を白黒に戻さなかった。フィルターのかかった安全な白黒の世界と、痛みごと引き受ける色つきの世界。あなたが今日、部下に、我が子に、あるいは自分自身に見せているのは、そのどちらだろうか。


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次回の映画科では、別の「時代を映した名作」を深掘りする。

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