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戦後80年・被爆80年

2025年8月15日。
 中学校生活最後の夏休みとなる今年は、日本がポツダム宣言を受託し、武装放棄をしてちょうど80年の節目の年だ。ぼくは、8月6日被爆地ヒロシマの『被爆80年 広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式』と、8月9日被爆地ナガサキの『被爆80年 長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典』に参列し取材をした。

『日本中学生新聞』創刊の原点は、広島、長崎にあり。

2022年7月。
 小学校6年生だったぼくは、修学旅行で広島を訪れた。
 原爆ドーム側にバスを停め、60分という限られた時間で広島平和記念資料館を見学した。資料館では、焼けただれ丸こげになった体を写し出した数々の写真から目を逸らさず原子爆弾の悲惨さを目に焼き付けた。見学の後に広島国際会議場で行われた被爆者のお話では、資料館で見たばかりの悲惨な光景が重ね合わされ、あまりにもの惨たらしさに怒りが湧いた。お話後の被爆者への質問コーナーでぼくは、真っ先に挙手をし「今の日本政府に一番訴えたいこととは何ですか?」と聞いた。すると、「核兵器禁止条約に署名、批准してほしい」と間髪入れずに答えられた。
 当時(2022年)は、地元が広島の衆議院議員である岸田文雄氏が総理を務めていた。ご親族に被爆者がおられ、ノーベル平和賞を受賞されているサーロー節子さんも岸田首相(当時)のご親族だ。2021年岸田氏が首相になってすぐの11月18日に、核兵器禁止条約が発効されたにも関わらず、日本の署名・批准はなかった。広島で被爆者の声を聞いたぼくは岸田首相に「核兵器禁止条約に署名、批准しないのですか?」と、直接質問をしたいと思っていた。

2023年3月。
 小学校を卒業した。ぼくが行きたいと言っていた長崎旅行をお祝いで卒業記念旅行として祖母がプレゼントしてくれた。長崎では、遠藤周作記念館に浦上天主堂、長崎原爆資料館に原爆落下中心地、長崎平和公園へと行った。平和の泉の石碑に刻まれた文字を読むと涙が込みあげてきた。

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のどが乾いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが
      一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました
    ーあの日のある少女の手記から


 長崎には、島原半島を走る島原鉄道があり、そこには日本一海に近い駅として知られている大三東駅(おおみさきえき)がある。無人駅のこの駅に設置されている黄色いハンカチに願いごとを書いて飾ると願いが叶うといういう。干満の差が激しく、行きには干潟だった有明海が帰りにはもう潮が満ちていて景色が変わる。ぼくは黄色いハンカチに「日本中学生新聞が世に広がりますように! 2023年3月23日」と記し飾った。それは、「核兵器禁止条約に署名、批准しないのですか?」と首相に質問するために、『日本中学生新聞』を創刊し、G7広島サミットへ記者として出席しようと心に決めていた自分への誓いでもあった。
 長崎の旅行から帰る日の長崎駅で、G7広島サミットの記者申請が始まっていることを知った。そして、駅の案内所で申請手続きを行なった。




2025年8月6日、ヒロシマ

2025年8月6日ヒロシマ

 『被爆80年広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式』への取材申請が通り、ぼくは3年ぶりに広島を訪れた。
 8月5日の午前中に到着し、その足で広島市役所へ行き報道PRESSとして最後の手続きを無事に終え、平和記念公園へと向かう。平和公園周辺は、各都道府県から応援に来た警察や機動隊で物々しく、平和公園内は翌日の式典用にテントが張られリハーサルが行われていた。ぼくは、原爆死没者慰霊碑に手を合わせ平和記念資料館を見学した。
 8月6日。外はまだ薄暗い朝4時30分に平和記念公園に到着。朝の祈りを捧げに遺族のかたが集まる。すでに多くのメディアも集り、祈る姿や、祈りを終えた遺族に取材をしている。ぼくも取材をしにきたひとりだ。だけれども、向き合いかたに戸惑ってしまった。静かに祈りたい遺族に、どう話しかけていいのかが分からなかったのだ。「被爆者の話が直に聞ける最後の世代である」と責任を感じていることさえも、自分のわがままに思えてしまった。
 原爆ドームの前は、中核派を始めとする活動家たちが交通規制が始まる前を狙った時間に占拠し、拡声器を使って演説。広島市は退去命令を出し、拡声器を使って退去を促し続け、機動隊を始めとする警察と激しく対立をしていた。その声は式典の間、参列席まで聞こえていた。

 式典が始まり、石破茂首相のあいさつで2度読み上げた詩
「太き骨は先生ならむ そのそばに ちいさきあたまの骨 集まれり」(正田篠枝)
この詩が書かれた銅像は、大人が子どもを抱きかかえる姿をしていて、そこには「原爆犠牲者国民学校教師と子どもの碑」と書かれていた。ぼくはその姿に心を打たれ、前日に写真に収めていた。ぼくが生まれてから知る歴代の首相の式典でのあいさつは、コピペに読み飛ばしまであり、毎年がっかりしていた。石破首相の言葉は、そんなあいさつしか知らないぼくの胸を打った。
 参政党の塩入清香参議院議員が「核武装は安上がり」と軽々しく発言をし、非核三原則の放棄と核抑止論を主張が大きくなってきている今、それを真正面から否定した松井一實広島市長の平和宣言と湯崎英彦広島県知事のあいさつは平和を願い集まる人々の心を一体にした。

2025年8月5日 原爆犠牲者国民学校教師と子どもの碑


 式典終了後、被爆者・遺族席に着席されていた盆子原国彦さん(85)にお話を伺った。盆子原さんは5歳の時に広島で被爆し、その後ブラジルに移住。式典に参列するためにサンパウロから妻と来日したという。ぼくが中学3年生であることを伝え、被爆者の話が直に聞ける最後の世代であること、ぼくたち世代を含め後世に伝えていきたいことを尋ねると、「私たち森田会長(在ブラジル原爆被爆者協会 森田隆さん)もそうでしたけれども、3人で2012年から舞台で演劇をしています。『3人の広島の被爆者』というもので、今年で何回目か数えきれないのですけど、サンパウロ州、リオデジャネイロ州、パラナ州と各州それから、サンパウロ州の奥地まで回って、その演劇をして、今まで観にきてくださった方々が3万人以上います。そういうことを、これから命がある限り続けて、原爆の実相を若い世代の方々に伝えて、どうか平和を願う世界を作り上げてくださいと思っています」

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250601/k10014822681000.html

ーー今も、ロシアウクライナ戦争やイスラエルとガザなど世界各国で紛争が起きており、核兵器の危機も迫っています。もし、戦争を起こしている指導者に直接話ができるなら何を伝えたいですか?
「私は、2010年にヨルダンに行って、パレスチナ難民キャンプで寝て、キャンプの人たちと話したことがあります。イスラエルとパレスチナ、これはあの時に思ったのですが、大変難しい問題だと思います。果たして、両国が両国の人民が和解することができるのだろうかという思いを今も持っています。そういうこと含めて、宗教とか、人種とか、そういうことを乗り越えて、どうか皆さん若い人たちが手を取り合って今後の世界を築き上げていただくよう願っています」
ぼくの目を真っ直ぐに見ながら、そうお話してくれた。

2025年8月6日 盆子原国彦さん(85) 広島市平和祈念式典にて

2025年8月9日、ナガサキ

2025年8月9日ナガサキ

 広島の式典を終えた8月6日の夜に急遽長崎へ行くことを決定し、宿と電車の切符を購入。7日の夕方、広島から新幹線に乗って長崎へ向かった。偶然にも特急リレーかもめで社民党の参議院議員のラサール石井さんと会い、挨拶を交わした。19時30分、3年ぶりの長崎に到着。長崎は少し涼しく感じた。8日はお昼から爆心地公園、浦上天主堂と長崎平和公園を訪ね式典の準備で装飾された公園で長い時間を過ごした。
 涼しい時間の夜に再び訪ねた長崎平和公園で、手を合わせている遺族と出会いお話を伺った。
 宮崎芳子さん(91)は、11歳の時に被爆。姉が爆心地近くで作業をしていて被爆、姉を探しに行った父親は破傷風のため痛みが強くなり歩けなくなり、防空壕で4日過ごしたという。平和公園に一緒に来ていた芳子さんの姪っ子は、「今までずっと喋ってくれなくて最近になってやっぱり話さないといけないと思い喋ってくれるようになった」という。「式典への参加は無理だし、毎年連れてきたくても遠いから来れない。だけど今年は連れてきたかった」と話してくれた。そして、携帯電話に保存された芳子さんの姉が7年前に初めてご自身の被爆体験をお孫さんに語った時の映像を見せてくれた。
「戦争がひどくなって16歳や18歳、小学校上がったばっかりの子どもがね、工場の手伝いで駆り出された。色々とさせる。兵隊さんのごとく第一線に立たせられた。ばあちゃんもそのひとりだった。ばあちゃんは18歳じゃったと思う。ちょうど原爆の時はね、家に帰とったから助かったとけど。16歳17歳、18歳の子どもたちまで戦争の手伝いをさせられた。戦争だけは絶対にしたらだめ。今時の子どもたちは全然知らんけんね。もう原爆ば語る人のおらんことなって、だんだんだんだんね、原爆の恐ろしさも分からんことなってね。地獄だった」
唐突にお孫さんに被爆体験を話してくれたその後に亡くなったという。

2025年8月8日 宮崎芳子さん(91)と
平和祈念像前にて

 9日の朝、まだ日が昇る前の朝の祈りへ平和公園へ向かった。
 次々に祈りに訪れる人々をメディアが取材をする。ぼくは広島と同じでここでは遺族に話しかけることができず、静かに見守った。印象的だったのは子どもたちの姿や若者同士で祈りに来ている人が多いということだった。

 突然決めた『長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典』の参列だったため、取材申請が締め切られていて出入口外からの参列となった。式典の写真を撮ることはできなかったが、鈴木史郎長崎市長の「平和宣言」では、故山口仙二氏の「ノーモア・ヒロシマ ノーモア・ナガサキ ノーモア・ウォー ノーモア・ヒバクシャ」という言葉を引用、「『地球市民』の視点こそ、分断された世界をつなぎ直す原動力となるのではないでしょうか」この言葉に続く言葉の主語は「地球市民」となり、ぼくの立っていた場所からは市長の姿は見えなかったけれど力強く訴える声は、まっすぐに心に響いた。そして、被爆者代表の西岡洋氏の「平和への誓い」は、ご自身の被爆体験と共に「この美しい地球を守りましょう」の言葉で締めくくられ、人間だけでは生きてはいけない、全ては繋がり共存していることを忘れてはいけないと教えてくれた。平和への誓いを終えた西岡氏への拍手は、しばらくの間、鳴り止まなかった。石破首相の演説は、80年前の原爆によって全壊した浦上天主堂のアンジェラスの鐘が時空を超え二口揃い、かつてと同じ音色を80年振りに8月9日11時2分に奏でたこと。そして、長崎医科大学で被爆した故 永井隆博士が残した言葉
ねがわくば、この浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえ。
を詠い平和を誓った。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250807/k10014886281000.html


 式典が終わり、会場が開放されると同時に中に入りメディアからの取材を受けていた被爆者の方にお話を聞かせてもらった。
 長崎で16歳の時に被爆した森田富美子さん(96)。ぼくが中学3年生であることを伝え、被爆者の話が直に聞ける最後の世代であること、ぼくたち世代を含め後世に伝えていきたいことを尋ねると、「若い世代はね、本当に世の中をよく見て、政治のことですから国会とかニュースとか見てしっかりと自分で考えて欲しいと思います。私は、若い世代の人にはそういうふうに思っていますね」
ーー今も、ロシアウクライナ戦争やイスラエルとガザなど世界各国で紛争が起きており、今も多くの人が殺されていて、核兵器の危機も迫っています。もし、戦争を起こしている指導者に直接話ができるなら何を伝えたいですか?
「指導者の方、どうしても納得いかないんですけどね。みんな平和を望むとおしゃってますけど、この紛争を見るとまったくいかがなものかと思います。私はどうか平和な世界をと思っています。ですから、私はXをずっと書いていこうと思います。そして、戦争反対を訴えたいと思います」と答えてくれた。
Xで書く?そう聞いて、ハッとした。お話してくださった森田富美子さんはXのアカウント『わたくし96歳』だと気が付き、相互フォローだということを伝え、改めて挨拶をし、一緒に写真を撮らせていただいた。

2025年8月9日 「わたくし96歳」
森田富美子さん(96)長崎平和祈念式典にて

 夜に予約している新幹線に乗る前に、3年前に「日本中学生新聞が世に広がりますように!」と願いをかけた島原鉄道の大三東駅へと向かった。到着した駅は3年前と同じ景色が広がっていた。駅のすぐ横に広がる海の潮は引き干潟が広がっていたのだ。ぼくは黄色いハンカチに新しい願いごとを書き掲げた。

 今年は、被爆80年・戦後80年の節目の年。中学生として最後の夏にヒロシマ、ナガサキへと出かけ、今日(8月15日)は、全国戦没者追悼式の記者申請が通ったので東京へ向かっている。
 被爆体験者、戦争体験者が少なくなるとのと比例して、世界終末時計が89秒と1947年以降で最も短くなった。
「地獄だった」
何十年も話すことのできなかったほどの苦しみは想像しても足りるはずがない。忘れることのできない苦しみを話し伝えてくれる先人たちの思いを受け継ぎ、ぼくたちは同じ過ちを二度と繰り返してはならない。
#戦争反対


ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ

峠三吉

最後に、取材に応じてくださった盆子原国彦さん、宮崎芳子さんと姪っ子さん、森田富美子さんありがとうございました。
「行っておいで」と背中を押してくれた、家族と祖母にもお礼を伝えたいです。ありがとうございます。

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