【ショパンの系譜第17】ショパン 幻想曲 作品49 ヘ短調(2):序奏主題の造形
前回の記事で、中期のショパンの大曲である「幻想曲」作品49の全体構造について調べた結果をアップした。この曲は、名著であるジム・サムスン「ショパン 孤高の創造者」(大久保賢訳:春秋社)によれば、“一つの曲の中に葬送行進曲、オペラ風の大行進曲、プレリュード、レシタティーヴォ、コラール、そして初期の大曲で洗練された「動機労作」のすべて要素が用いられている”野心作“である。その構想と雄渾さ、構成の緻密さは驚嘆に値するが、さらに、細部にいたるまで、ショパンならではの作曲技法が凝らされている。これから何回かに分けて、「幻想曲」作品49の中から、私が気づいたショパンの天才的な作曲技法を取り上げてみたい。1回目は序奏に関してである。

再掲した譜例1は、有名な幻想曲冒頭の序奏主題①である。前回は、この主題が全曲の示導動機であることに焦点を当てて考察した。今回は。この主題を演奏するのがいかに大変か(そのことはこの曲を妻が練習しているときに気づいたのだが)ということを掘り下げてみたい。
まず、1―2小節目のメロディの骨格は、両手のユニゾンによる主音から属音への順次進行の下降なのだが、細かく見ると1から2拍目のヘ音からハ音への4度下降のあと、2拍目は、8分音符のスタッカートのあとに16分休符があり、その後4度上昇してへ音に移るという構造だ。これは1小節目の4拍目、2小節目の2拍目も同じ骨格である。この繊細なリズム構造が、冒頭部分にマーチ(葬送行進曲)の趣を与えるのだが、この休符が実に演奏が難しそうなのだ。休符をはさむことで一瞬音楽の流れが止まるが、一方で、音型Aとしては2小節で一つのユニットだ。その相反する要素を綜合して演奏しなくてならない。私のようなピアノ初心者でもとりあえずは弾けるが、これをショパンの意図通り弾くのは、蓋し難事なのではないだろうか。
3-4小節もきわめて繊細なつくりだ。前半の両手のユニゾンから一転して、両手の和音による行進となるが、今度は2拍目、4拍目の付点8分音符のあとに休符はなく、フレーズ全体がレガートとなる。そして注目すべきは、3小節目の2拍目の16分音符のみに変ロ音がないことだ。3小節目の1拍目は、ヘ短調の属7和音だが、右手は変ロ音―ハ音のぶつかりを含む。しかし2拍目の最後の16分音符では変ロ音がなくなるのだ。ショパンはどのような意図で、このような音の配列にしたのだろうか。いずれにせよ、この流れでは、3小節目の1拍目の音のバランスが大変難しいと思われる。ハー(変二)―へー変イートー(ハ)―へという旋律線は重要だが、3小節目の1拍目のハ音とぶつかる変ロの強さ、響きはどのようにすればよいのか。変ロ音は4小節目の1拍目、2拍目でまた現れる。ここも音のバランスに細心の注意が必要のように思われる。そして4小節目の4泊目に、満を持して変二音(ヘ短調の第6音)が鳴らされ、半音下のハ音とぶつけられているのだが、その効果も絶大だ。この後半の3-4小節部では、大局的には音型Bという、ハ―へー変イートーへという示導動機を示しながら、部分的にはこれらのように、きわめて繊細な仕掛けが施されている。
5-10小節目は、前半部分は1-2小節目と同じであり、後半部分は平行調の変イ長調に転調するのだが、変ホ音―変二音のぶつかりをどのようなバランスで演奏するかは3-4小節と同じ悩みがあり、9-10小節目は左手にメロディが移るが、属7和音⇔主和音の和音圏内で、9小節3拍目、4拍目の右手の前打音、10小節の1拍目の変二―変ホの内声、4拍目の(ショパンが偏愛した)変ロ―ホの増4度を含むSUS4を含む和声進行などの、繊細な和音の動きがあり、曲の進行に彩りを加えている。
11-20小節目は、1-10小節目で提示された主題が確保されるのだが、後半部は16小節目の3泊目の変ハ音をロ音にエンハーモニック転換して、3度下のホ長調に転調して、シャープ系の高貴な響きを一瞬聞かせて、今度は半音上のヘ長調に転調して後半部に入ってゆく。

21小節からの序奏の後半部は、調性は平行長調のヘ長調を基軸とする部分となる。まずヘ長調からハ長調に転調しながら、譜例2の序奏主題②が提示される(譜例2)。この序奏主題②は、序的主題①の前半部Aの反行形をつないだ順次進行音列に完全4度の跳躍が付随した骨格であるが、和声的には、21小節の2拍目、4拍目、22小節の2拍目の内声に、それぞれローへ、変ローホ、ローへと、属7和音の第2音―第4音を構成する増4度の和音が点描されているのが注目される。これは、23-24小節、25小節でも繰りかえされる。かなり以前になるが、バラード第1番を詳しく調べたとき、ショパンが属7和音、特にその中の第2音―第4音を構成する増4度を偏愛していることを述べた。この幻想曲においてもその傾向は変わらない。そしてこれらの和音が、序奏の後半部にショパンらしい彩りを加えている。この主題はヘ長調→ハ長調、変ホ長調→変ロ長調と5度上の転調を志向しながら、最後は変ニ長調をめぐって展開され、29ー36小節で主題②の確保が行われたあと、最後、41-42小節で序的主題①が回想されて、長大なグラーヴェの序奏部が終わる。最後の2小節は、和声がヘ長調の主和音⇔ヘ短調の下属和音の繰り返しとなっており、何と幻想曲のコーダの最後の和音構造と同じになっていることに注目されたい。
以上、幻想曲の序奏部について少し詳しく調べてみた。これからまだまだいろいろな発見があると思うので、何か新たな発見があれば、この記事も改訂してゆきたい。最後に、かなり大胆な仮説であるが、私は幻想曲の序奏部は、作曲過程の一番最後に書かれたのではないか、と思っている。バラード第1番の序奏も。全曲のすべての重要なモティーフを網羅した序奏であり、この序奏も全曲の最後に作曲した(追加された)ものではないかと考えている(ショパンがベートーヴェンのようなスケッチ帳を残していてくれていたら、その作曲過程が詳しく調べられたのだが)。ショパンでこのような序奏を持っているのは、バラードの4番、幻想ポロネーズ、練習曲作品25-7(嬰ハ短調)など数少ない曲たちだ。スケルツォ第1番や第3番、ピアノソナタ第2番の第1楽章も序奏を持っているが、幻想曲のそれのような重みはもっていないように思われる。その意味でも、幻想曲は、まさにフルスペックのショパン最大の作品であると言えると思う。
次回は、幻想曲の主要部の主題群の伴奏にこめられたショパンの意図について考察した内容をアップしたいと思う。
