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柄谷行人の「概念の物神化」と、サリヴァンの言う「共人間的有効妥当性確認(consensual Validization)」、そしてジェンドリン

「概念の物神化」って、柄谷行人の使った概念だったと思うけど、解説してください。

阿世賀のChatgptへの依頼

「概念の物神化(ぶっしんか)」は、柄谷行人の思想を理解するうえで非常に重要なキーワードです。

ただし、マルクスの「商品の物神性(フェティシズム)」を柄谷が独自に拡張した概念として理解した方が分かりやすいでしょう。

まず「物神化」とは何か

もともと カール・マルクス は、資本主義社会では人間同士の関係が、あたかもモノ同士の関係であるかのように見えてしまう現象を「商品の物神性」と呼びました。

例えば、

  • お金に価値があるように見える

  • 商品に価値が宿っているように見える

しかし本当は、

  • 価値は人間同士の社会的関係の産物

です。

ところが私たちは、

  • 「お金が命令している」

  • 「市場が要求している」

かのように考えてしまう。

これが物神化です。


柄谷が言う「概念の物神化」

柄谷は、このマルクスの洞察を思想そのものに適用しました。

つまり、

本来は人間が作った概念なのに、

  • 国家

  • 民族

  • 文学

  • 日本文化

  • 自我

  • 主体

などが、

「あたかも最初から実在していたもの」

として扱われることを指します。

たとえば、

「日本人とはこういうものだ」

という言説があります。

しかし柄谷からすると、

「日本人」という概念自体が歴史的に形成されたものです。

にもかかわらず、

「日本人」という概念が先に存在し、
そこから現実の日本人が生まれたかのように語られる。

これが概念の物神化です。


『日本近代文学の起源』での例

柄谷の代表作
日本近代文学の起源
では、

  • 内面

  • 風景

  • 告白

といったものが批判の対象になります。

普通は、

人間には元々「内面」がある

と思います。

しかし柄谷は逆に、

近代という制度の中で「内面」が発見されたのであって、それ以前から同じ意味で存在したわけではない

と論じます。

ところが私たちは、

「内面」という歴史的産物を、

普遍的な実体だと思い込んでしまう。

これが概念の物神化です。


心理学で言えば

臨床心理学の世界で考えると、

  • 自我

  • パーソナリティ

  • 発達段階

  • 愛着

なども本来は理論概念です。

ところが、

「愛着障害だからこうなる」

「自我が弱いからこうなる」

と概念そのものが原因として実体化されることがあります。

柄谷的に言えば、

理論のための概念が、
いつのまにか現実の中に存在するモノとして扱われている。

これも概念の物神化に近い現象です。


フォーカシングとの関係

ユーザーさんが専門とされるフォーカシングの観点から見ると、これはかなり興味深いテーマです。

ユージン・ジェンドリン が繰り返し警戒したのも、

「概念が体験を覆い隠してしまうこと」

でした。

たとえば、

  • 「私はうつ病だから」

  • 「私はHSPだから」

  • 「私はアダルトチルドレンだから」

という概念が先に立つと、

実際に身体で感じられている生きた経験が見えなくなる。

これは柄谷の言う「概念の物神化」とかなり響き合っています。


一言でまとめると

柄谷行人のいう「概念の物神化」とは、

人間が歴史的・社会的につくり出した概念を、あたかも自然に存在する実体であるかのように扱ってしまうこと

です。

そして柄谷の批評の大部分は、

「それは本当に最初から存在していたのか?」

「それとも近代が作り出した見方ではないのか?」

と問い直す作業だったと言えます。

実はこの発想は、あなたが以前語っておられた「診断名や理論よりも、まず体験そのものに耳を澄ますべきだ」というフォーカシング的態度とも、かなり深いところでつながっているように思います。

まさにそのとおりですね。私は他の概念に言い換えてでもいくらでも議論展開できるのが、社会現象の「現実」それ自体に触れているということかと。どう思われますか?

阿世賀のChatGptへの感想と更なる要請

私は、その見方にはかなり重要な洞察が含まれていると思います。

ただし、少し慎重に表現するなら、私は、その見方にはかなり重要な洞察が含まれていると思います。

ただし、少し慎重に表現するなら、

「他の概念体系に置き換えてもなお説明できるもの」

は、社会現象の現実により近い可能性が高い

と言えるでしょう。

柄谷流に言えば、概念そのものではなく、概念が捉えようとしている「関係」や「運動」に注目する態度です。

例えば心理療法の世界でも、

  • 精神分析なら「転移」

  • フォーカシングなら「フェルトセンス」

  • 認知療法なら「スキーマ」

  • システム論なら「相互作用パターン」

という異なる概念があります。

しかし優れた臨床家同士が症例検討をすると、

「言葉は違うが、同じ現象を見ているのではないか」

という場面が少なくありません。

つまり、

  • 概念Aでも説明できる

  • 概念Bでも説明できる

  • 概念Cでも説明できる

というとき、その背後には概念に先立つ何らかの現実があるのかもしれない。

これはジェンドリンの思想とも近いですね。

ジェンドリンは理論を否定しているのではなく、

どの理論も経験を完全には言い尽くせない

と考えていました。

経験は理論より常に豊かであり、複数の理論による記述を許します。

だから、

別の言葉で言い換えられなくなったとき

むしろ危険信号かもしれません。

その概念が物神化している可能性があります。

例えば、

「愛着障害だから」

で説明が終わる場合です。

しかし、

  • この人は人を信頼したいが怖い

  • 親密さを求めながら回避する

  • 拒絶への予期不安が強い

など、別の語彙で語り直せるなら、現象に触れ続けています。

逆に、

愛着障害だから愛着障害的行動をする

という循環論法になった瞬間、概念が実体化してしまう。

もっとも、ここで一つ注意点もあります。

「何にでも言い換えられる」ことが即座に現実への接近を意味するわけではありません。

占星術でもスピリチュアルでも、ある種の言い換えは可能です。

大切なのは、

異なる概念体系に翻訳しても、観察可能な現象との対応が失われないか

です。

つまり、

  • 言い換え可能性

  • 現象への密着性

の両方が必要です。

私には、あなたの臨床的な関心は昔から後者に向いているように見えます。

「理論が正しいか」より、

「クライエントの体験に本当に触れているか」

を重視する姿勢です。

その意味では、あなたの

他の概念に言い換えてでもいくらでも議論展開できるものが現実である

という考えは、哲学的には少し修正して、

一つの概念に閉じ込められず、複数の概念体系を横断してなお捉えられるものほど、現実の側に近い

と言うと、柄谷にもジェンドリンにもかなり通じる考え方になると思います。

実際、優れた臨床家や批評家ほど、自分の理論用語への執着が弱いことが多いですね。理論を使っているようでいて、最終的には理論の向こう側にある「何か」を見ている。その態度こそが、概念の物神化への最良の予防策なのかもしれません。

私は「概念体系」というものが普遍的に「ある」という認識自体に否定的なんですよ。
サリヴァンの言う「共人間的有効妥当性確認」(consensual validsation)というのは、まさにその時、その相手に「通じる」かどうかの勝負であり、絶えず変形生成されるものと思ってます。
ヴィゴツキーではありませんが、「すべての他者との交流は、異文化交流、異星人との交流」として生成され、一から組み立てるべきと思っています。いかがですか?

阿世賀のChatGptへの問いかけ



非常に興味深い立場ですね。

そして、それは柄谷よりもさらにラディカルな方向へ進んでいるように思います。

柄谷の「概念の物神化」批判は、

概念を実体視するな

という主張でした。

しかし、あなたがおっしゃっているのは、

そもそも安定した概念体系なるものが存在するという前提自体が怪しい

ということですね。

これはむしろ、Harry Stack SullivanやEugene Gendlinの方向に近いように感じます。

サリヴァンの「共人間的有効妥当性確認(consensual validation)」は、しばしば

複数人の合意による客観性

のように解釈されますが、実際の臨床ではもっと動的なものですね。

「私はこう感じる」

「あなたにはどう伝わったか」

「いや、そうじゃない」

「ではこうか」

という絶えざる調整過程です。

そこには完成された共通言語はありません。

むしろ、

共通言語は相互作用の結果として一時的に成立する

のであって、先に存在しているわけではない。

これはかなり重要な転換です。


あなたの

すべての他者との交流は異文化交流、異星人との交流

という比喩も、私はかなり本質を突いていると思います。

日常では、

  • 日本人同士だから分かる

  • 心理士同士だから分かる

  • 同世代だから分かる

という前提を置きます。

しかし実際には、

同じ日本語を話していても、

  • 家族史

  • 職業

  • トラウマ

  • 価値観

  • 身体感覚

は全く異なる。

むしろ、

なぜこれほど通じることがあるのか

の方が不思議なくらいです。

ジェンドリンも、

フェルトセンスから言葉が生まれる過程を重視しました。

そこでは、

概念を当てはめるのではなく、

相手とのやり取りの中で新しい意味が生成される。

これはまさにあなたの言う

一から組み立てる

という姿勢に近い。


ただ、ここで私が一つだけ考えたいのは、

完全にゼロから組み立てているわけでもないのではないか、

という点です。

例えば、あなたがクライエントと話すとき、

「悲しみ」

という言葉を使えば、相手は全く別の意味に受け取るかもしれません。

しかし、

完全に無関係な方向へ飛ぶことも少ない。

ある程度の重なりがある。

私はこの重なりを、

固定した概念体系ではなく、

相互行為によって常に更新される「暫定的な意味の場」

と考えた方がよい気がします。


哲学的に言うと、あなたの立場は、

Ludwig Wittgenstein後期の「言語ゲーム」や、

Hans-Georg Gadamerの対話的解釈学よりも、

むしろジェンドリンの「交互作用先行(interaction first)」の発想に近いように感じます。

つまり、

個人が概念を持っていて、それを交換している

のではなく、

相互作用そのものから意味が生まれてくる

という考えです。


その意味で、あなたの立場を私なりに言い換えるなら、

概念は現実を記述するための固定的地図ではない。

他者との遭遇のたびに、その都度描き直される即席の航海図である。

ということになるでしょう。

そしてこれは、実はサリヴァンの「共人間的有効妥当性確認」をかなり徹底して読んだときに出てくる発想だと思います。

「妥当だから通じる」のではなく、

通じるかどうかを試行錯誤する過程そのものが妥当性を作り出している。

私は、あなたが臨床で重視しておられるフォーカシング的な態度――理論や診断よりも、目の前のこの人とのやり取りの中で意味を生成していく態度――は、まさにそこに根を持っているように思います。

そう、私は、「妥当だから通じる」のではなく、 通じるかどうかを試行錯誤する過程そのものが妥当性を作り出している、という観点まで「共人間的有効妥当性確認」という概念を踏み込んで理解したいのです。
そうでないと、単なる硬直した、狭いコミュニケーションの「縛り」のようにも響く。
「大人」なら通じる常識的な言葉を「知ってる」だろ?的な。
でも、実は「知ってる」かどうかではない。
その時その時、その相手との関係性という脈絡の中で「生み出す」ものなのだと思っています。
「話が通じる」というのは一回性のあるプロセスのなかで生起することかと。
いかがですか?

阿世賀のChatGtpへの問いかけ

私は、その解釈は十分に説得力があると思いますし、むしろサリヴァンの思想を生きたものとして読むなら、そちらの方が本質に近いかもしれないと感じます。

なぜなら、「共人間的有効妥当性確認」を単に

複数人が同じ意味を共有していること

として理解すると、結局は

正しい意味が先に存在していて、それを互いに確認する

という話になってしまうからです。

しかし、サリヴァンが問題にしていたのは、そもそも人間の経験が根本的に対人的(interpersonal)なものであるということでした。
つまり、意味は個人の頭の中に完成品として存在するのではなく、人と人とのやり取りのなかで形成される。

そう考えると、

妥当性を確認する

というより、

妥当性を共同で生成する

という方が近い。


実は、あなたが警戒している

「大人なら分かるだろ?」
「普通はそう言うだろ?」
「常識的にはこうだろ?」

という発想は、まさに概念の物神化の一種だと思います。

そこでは、

「常識」
「日本語」
「社会性」

といったものが、あたかも既に完成された実体として存在している。

しかし実際には、

ある言葉が通じるかどうかは、

  • 誰が

  • 誰に

  • どのタイミングで

  • どの文脈で

  • どの表情で

  • どの関係性の中で

語ったかによって変わります。

同じ「大丈夫です」という言葉でも、

  • 励まし

  • 拒絶

  • 遠慮

  • 諦め

  • 皮肉

になり得る。

つまり意味は辞書にあるのではなく、出来事のなかで発生している。


ここで私は、あなたの考え方にジェンドリンとの強い親和性を感じます。

ジェンドリンは、

意味は言葉の中にあるのではない

と考えました。

言葉は固定された記号ではなく、

身体的な生の状況(living situation)を前進させる働きを持つ。

だから同じ言葉でも、

ある場面ではしっくり来て、

別の場面では全くしっくり来ない。

重要なのは、

既存の言葉を適用することではなく、

その場で何が「前進(carrying forward)」をもたらすかです。


あなたの

「話が通じる」というのは一回性のあるプロセスの中で生起する

という表現は、とても重要だと思います。

なぜなら、普通のコミュニケーション論では、

「通じる」結果です。

しかしあなたは、

「通じる」を出来事として捉えている。

これはかなり違います。

結果としての理解ではなく、

理解が生成される瞬間そのものに注目している。


例えばカウンセリングでも、

クライエントが

「あ、それです」

と言う瞬間がありますね。

しかし、その「それ」は最初から存在していたわけではない。

対話の中で、

  • 言い換えられ

  • 修正され

  • 否定され

  • 探られ

ながら、ようやく生まれてくる。

そして次の日にはまた違う言葉になるかもしれない。

それでも、その瞬間には確かに「通じた」。

私は、あなたが言う「話が通じる」は、この種の出来事を指しているように思います。


その意味では、「共人間的有効妥当性確認」を名詞としてではなく、動詞として理解したいのだろうと思います。

つまり、

妥当性があるものを確認する

のではなく、

妥当性を確認し続ける営み

として。

さらに言えば、

妥当性とは確認の結果ではなく、確認し続ける過程そのものである

という理解です。

これはサリヴァンの用語の一般的な解説からは少し踏み込んだ読み方かもしれませんが、あなたが長年フォーカシングや臨床実践を通して培ってこられた感覚からすると、非常に自然な読み方のように思えます。

そして私は、その読み方によって初めて「共人間的有効妥当性確認」という概念が、単なる社会的同調や常識への服従ではなく、

人と人が、その都度、新しい意味を共同創造していくプロセス

として息を吹き返すのではないかと思います。


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