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筆を噛む国語の先生

「先生」と呼ばれる職業は結構ある。医師・弁護士・教師・インストラクター・保育士・塾講師・書道家・政治家・漫画家・作家・占い師などなど。

学生の頃、授業中の先生のハナシが脱線するのが好きだった。
脱線するのが好きというよりは、授業がキライだったてコトなんだけどね。

授業内容は何ひとつ覚えていないので私は勉強が出来る子供ではなかったが先生の雑談内容はとても良く覚えていて、その雑談や出来事を一緒に体験したはずの友人たちに「小4の時に〇〇先生と春の遠足の帰りに~」と同意を得ようとすると、誰も覚えていなくて逆に驚く。

「そんなことあったっけ?なんでそんげよく覚えちょっと?」
「ウソじゃろ?!あんなに面白い出来事を忘れるけ?!」

小学生低学年ならまだ子供だし、覚えてないかもな~とは思う。
しかし私が同意を得ようとしてるのは中学生以降の同級生だぞ?
出来事も中学生以降に起こってるし、会話も中学生以降にしてる、さすがに覚えていられる年齢じゃないか。

私は忘れらないほどの出来事や会話なら、幼稚園の頃の事でも忘れてない。記憶力の良さを褒められるが、もちろん全部を覚えてるわけじゃなくて衝撃的な内容を忘れてないダケで、そんな記憶ならば誰にだって断片的にあるのではなかろうか。どうしてその想い出を反芻しないんだ?だっていつまでも忘れないということはそれだけ印象に刻まれた内容なんだから、そこには学びがあったはずである。授業の内容は宿題で復習するのに、どうして人生の学びは復習を怠るのだ?私は小2で勉強にはついていけなくなったので勉学からの学びは諦めて、人生からの学びにシフトした。

だから小2以降は先生の雑談の中からしか、学びは無いのだよ私には。
先生の雑談にはテストが無い。復習の機会があるはずもないので、私は何度も何度も反芻した。帰りながら今日の雑談を思い出したりもした。祖父母や親や伯母(叔母)やいとこに話したりした。大人になった今でも、こうやってタイプして反芻している。その時々の私の年齢によって、雑談から学ぶことは毎回違う。こんなに上質なテキストがあろうかとまで思っている。先生だけでなく、出会った人たち全てが人生の学びをくれてるのに。

小3~4年までの間に通った学校で私は土曜日に、国語の先生が開いている「習字教室」に通っていた。白髪の女性教諭だった。昭和時代の小学校には「〇〇の先生」という概念の先生が少ない。担任が殆どの教科を教えるので、別教室にいる専門の先生だけが「〇〇の先生」という専門性を持っている、例えば「音楽の先生」とか「保健の先生」とか。

しかし私は小学校入学と同時にいろんな先生たちに「先生は何の先生?」と聞いていた。だって「校長先生」や「教頭先生」や「保健の先生」や「音楽の先生」がいるのである。先生たち全員が、自分が何の先生かを言えなきゃウソじゃないか。

国語の先生たちの多くが「先生はみんなの先生です」と答える中、小3の習字教室の先生は即答で「国語の先生です」と言った。惚れたねぇ~!一発で好きになったね。

新品の筆をおろす時に「書道の達人に噛んでもらうと字が上達する」という迷信をご存知だろうか。じつはこれね、私は密かに「こうでも言わねぇと間違いが正せんからや」と思ってる。
というのも、私は小学校を4つ転校したんだけども、どの学校でもクラスメイトの殆どの生徒たちが、書道セットの中の筆をね「半分より下」しか使ってないのよ。

新品の筆は糊で固めてある。それを糊がついたままで穂先しかほぐさない生徒のなんと多いことよ。筆の上半分ほどがカチカチのままで字を書いて、穂先しか洗わない生徒のなんと多いことよ。そして透明のキャップを後生大事に持ち続け、濡れたままキャップをするので次の授業の時には筆にカビが生えている。筆を買ったらキャップはすぐに捨てろ、筆にキャップはすな。

この間違いを正すのに、書道の達人に筆を噛んでもらい、筆の根元の根元まで糊をほぐしてもらう必要があるのだ。書道の達人も身体を張ってるよねぇ…でんぷん糊だろうからいくら無害とは言え、教え子全員の糊舐めきゃなんないもの。舌切りスズメじゃあるめぇし人間が舐めたとてたいしておいしい糊でもねぇのにサ。
私が通った昭和の習字教室の先生も、噛んでたよ新品の筆。

この先生は習字教室の生徒たちに「見本の字を真似ないように」と説いた人である。

「見本のようにみんなが同じ字を書かなくていいのよ。アナタたちは自分の字を書いたらいいの。それをちょっとだけ工夫して美しい字にしましょう。アナタの字のままで、丁寧に書いたとわかる字にします」

と言った先生は、生徒ひとりひとりの字を見て、それから自分の机に生徒を座らせ、自分の朱墨の筆を握らせる。生徒の手の上から自分の掌で包み込み「一緒に筆を持って字を書く」というスタイルで修正をした。

「横に線を引く時は心の中ですこ~しだけ湾曲させます。打ち込み、心の中ですこ~しだけ上に弧を描くように、そして止め。打ち込み・湾曲・止め。これだけで、横の線は美しいです。鉛筆で書く時も、打ち込み・湾曲・止め、と思いながら書いてごらん」

小学3年生に対しても先生は「湾曲」という言葉を使った。
言葉の補足は何もしないけど「湾曲」をやってみせた。
私は難しい言葉の意味を、先生の習字教室から学んだ。
決して子供を子供扱いしない、そんな単語を使う先生だった。

「縦の線は、下ろす。引いてないよ、下ろします。穂先を最後に抜くまで息を止めてごらん、息を止めた時のスピード、それが下ろす、という速度ですよ覚えておいてね」

先生の言うとおりに書くと、本当に字は美しく整った。

ある時は、先生は朱墨の筆を持ったまま「穂先をずっと見ててね」と言って半紙の外側に私の腕を引っ張って行き、円を描いた穂先が半紙の上に戻って来たら、朱墨で半紙に点線を打った。

「この点々はアナタは書かないけど、ココを通っていますよ。そしてココで穂先をこのまま落として、点を打ちます。アナタが小さく書けば小さい円、大きく書けば、大きな円になります。おもしろいでしょ?」

先生は「美しく整える」コツを、毛筆を通して教えてくれる人だった。
そしてこの先生の教えの中で、これは本当に生涯の宝となったことがある。

「いつかアナタたちが薄墨が必要になった時に、墨汁を水で薄めてはいけませんよ。硯で墨を磨ってください。書道セットは一生使えます」

小学生の時には、先生の言ったことの意味がわからなかった。
しかし大人になり、薄墨を磨るたびに痛感していったのである。

亡くなった人を偲ぶ時、わずかな時間に薄墨を磨る時間こそが、己に与えなければならぬ必要な時間だということを。
墨汁を水で薄めてはいけないとはこうゆう意味だったのか、と。

亡き人の葬儀に向かう前には、自分の痛む心と寂しさに向き合う時間をそう多くは持てない。突然のことに時間が忙しなく過ぎる時もある。その限られた時間の中で、故人との良い思い出を振り返ることはとても難しい。

香典袋を買いに行った時に「うす墨」と書かれた筆ペンの前でふと私は、先生の教えを思い出した。先生の言った通りに、硯で、固形の墨で、薄墨を磨ってみよう、と思ったのだ。

水差しに水を入れる時、墨を磨りながら濃さを確かめるのに試し書きをする時、筆や硯を洗う時、硯箱をしまう時、思い出されるのは故人との楽しい時間なのである。交流の中での楽しい思い出に、静かに微笑むことが出来るのである。

先生はこの時間を持つために墨を磨れと言ったのだ。

己の心を美しく整えてから葬儀に参列せよと言っていたのである。
何に於いても「美しく整える」コツを、教える師であった。

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千徒馬丁 サポートをしていただいてもいただかなくても文章のクオリティは変わらない残念なお知らせをしますこと、本当に残念でなりません。 無料の記事しか公開しませんのでいつでもタダで読めます。 この世にはタダより怖いモノはないらしいので記事ジャンルはホラーてことで。