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📖ものがわかるということ 養老孟司

週1回の1冊の読書。
これが私の「目標読書ペース」である。
上手くいけば、2冊に届くこともある、
すると、年間100冊ぐらいになるであろうか。
ときに、良書と呼ばれるものに出会う。
この場は良書の共有、内容の整理の場とさせていただく。

①「著者」
②「印象の残った内容」
③「まとめ」
を添えて。

作者紹介。養老孟子とは?

1937年(昭和12年)、小児科医養老静江(1899〜1995年)と養老文雄(三菱商事勤務)の次男として神奈川県鎌倉市で生まれる。4歳の時に父親を結核で亡くし、その後は鎌倉で小児科「大塚医院」を営む母・静江の腕一つで育てられる。

印象に残った内容

「分かっている」と「知っている」の違いは何か?

知るとは具体的なことを一つ記憶しているだけ。
世の中の事はほぼそういう風に誰かが勝手に決めている。
約束事を決めるときに、自分は参加しなかった。
それなのにもう決まってしまっているらしい。
世の中には他にもたくさんの約束事があって、それを知らないと困ったことになる。
それがわかると。
なぜ勉強しなきゃならないのかもいずれわかる。

「知る」とは誰かが決めたものを記憶すること。
「分かる」とは誰かがなぜそう決めたことを理解すること。

心の理論交換をする

同時期に生まれた子供とチンパンジーの発育を比較したところ、生後3年まではチンパンジー能力の方が上だった。

ところが4歳から5歳になると人の発育が急に進む。チンパンジーは身体は発育するが、知能はそれ以上に発達しない。
おそらく3歳から5歳の間に人とチンパンジーわける何かが起こる。

それを確かめた実験がる。
参加するのが3歳と5歳の子供がいる舞台に箱を運びを用意する。
そこにお姉さんが登場して箱Aに人形をいれ、箱に蓋をして舞台から去る。次にお母さんが現れ、箱Aに入っている人形取り出し運びに移す。
そこで舞台を見ていた3歳時と5歳児に研究者が質問する。
お姉さんが空けるのはどちらの箱?
3歳児は箱Aと答える。
自分はお母さんが人間を移したことを知っているため、お姉さんもその箱を開けると考えている。
一方5歳時は箱Aと答える。
なぜならお姉さんはお母さんが人形を移したのを見ていないから。
3歳と5歳児はなぜ違ったことをするのか。
5歳児は自分がお姉さんの立場だったらと考える。
お姉さんと自分を交換して考える。
3歳時にはお姉さんの立場に達することができない。
その箱に入っているとことを自分が知ってるようにお姉さんを知ってると思ってしまう。
この他者の心を理解すると言う働きを心の理論と呼ぶ。
発達心理学は心を読むと表現するが、私は交換すると考える。
必ずしも心を読む必要はなく、相手の立場だったらと自分が考えればいい。自分と相手を交換すると言う働きも人間だけのもの。

知るとは自分が変わること

余命半年のがんの宣告後、世界がそれまでとは違って見える。
でも世界が変わったのではなく、見ている自分が変わったんです。

自分が変わるとはどういうことかそれ以前の自分が部分的に死んで生まれ変わっている事。

好きなことをやりたかったら、やらなくちゃいけないことを好きになるしかない。

仕事を変えるか自分を変えるか、どっちが楽かという選択をするとしたら、自分の方を変えて、その仕事を好きなことだと思い込んだほうがいい。
嫌なことを好きだと思ってやる、やらざるを得ないからやる。

その中に面白いことはたくさんあるのです。
中途半端にやったらその面白さは分かりません。
いつも逃げたいと思ってやつわていると、上手く行きません。
ある程度、腹を決めることが必要です。
そうしていくうちに、最後には好きな仕事をしようが嫌いな仕事をしようが、結局は同じじゃないかという気がしてきます。

内田樹 仕事をするということ

サッカーのゲームはもうすでに始まっている。
そこへ.君たちは選手として放り込まれる。
ところが、ルールも体の動かし方も何にも知らない。
だけど、ほうりこまれた、周りを見ながら必死で覚えて動くしかない。
それが実は、仕事するってことなんだ。

人のことを判りたいというのは、裏を返せば自分のことがわからないということ。

わかるわけがありません。
自分は変わるからです。
いや、自分だけじゃなくて相手も変わる。
自分のことさえわからないのだから、他人のことがわからないのは当たり前。
だったら、他人だってあなたのことがわかるはずがありません。
それなのに、あの人は私をわかっていない、私を誤解しているなどと人は言います。
分かっていない誤解しているというのは.誤解ではない正解があるという前提に立っているから。
人は変わるのだから、正解なんてあると思わないほうがいい。
大事なのはその誤解をどう受け入れるか。
誤解は誤解のままで気づくまで放っておくしかない。

感覚が抜けて人たちは思考の全てが言葉から始まってしまう

はじめに言葉ありき、になる。
私の寒いと他人が寒いの感覚として同じはずがない。
体が違うのだから、感覚を共有することはできない。

しかし、寒いと言う概念を共有できなければ話が進まない。
だから寒いと言う言葉が必要になる。
こういう風に感覚の世界は、人はそれぞれ全部違うということがわかっていれば、言葉をありがたいものだと感じる感覚だけでをわかりあえなかった事柄を共有できるようになる。
ところが概念的思考だけで肥大してしまい、言葉の世界から始まってしまうと、そのありがたさがわからなくなる。
話が、逆になる通じることが当然であると思い込んでしまう。
そうすると通じないことの方が大量にあることになかなか思い出せなくなる。

だから、ちょっと通じないだけで不安になる。
ありがわかってくれないと文句を言う。
結果として、現在の人は人間関係まで明文化して細かく決めなくてはいけないと思っている。
人間関係も情報化すればいい。
そうすればうまくいくと思っている結果としてますます感覚をしていく。
その成れの果てがSNS

寛容になるためには

寛容になるためには、思い通りにいかないことを受け入れた上で、少しずつ状況を変えていくしかない。
それには自分だって変わらなきゃいけはい。
そうやって人間は努力・辛抱・根性の方法を学んでいく。

顕微鏡で見るとは

複雑な世界を単純化したい現代
顕微鏡で虫を見ると、虫が十倍に大きく見えます。すると何が起こるか。

その虫は十倍の拡大率で見ればよく見えるけれど、他の虫はその分ぼける。

だからその虫以外の世界は、十倍ぼけてしまうのです。

じゃあ、他の世界も十倍で観察しよう。
そうやって何かを精密に調べると、調べた分だけ、世界が莫大になっていきます。
倍率を上げていけば、世界はますます大きくなっていく。
百倍にすると、一センチの虫は一メートルになってしまう。

星の観察も同じです。
ある星を望遠鏡で百倍に拡大すると、宇宙は百倍になる。
他の星もその精度で見なきゃいけなくなりますから。
すべての星をそうやって観察できるでしょうか。

精密に調べればそれだけ問題は増えていきます。

コンピュータにできることを人間がする必要はない

百メートル走をオートバイと競う人がいないのと同じです。

まとめ

ものも人も分からない。
分かろうとすると、もっと分からないものが出てくる。
分からないということを分かった上で、分かろうとする、そんなことが大事なんでしょうね。

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