noteプチオフ会!葛井寺ご本尊開扉でマニアックな会話に花が咲く
サムネイル画像は葛井寺境内西の「四脚門」
1601年に豊臣秀頼により建立。
noteでのお友達、偏光さんと会う機会を得、半日ではあったが有意義な時間を過ごした。
お互い同じ大阪でも南河内という比較的近いところに住んでいるため、簡単に会う事ができた上、他の友人ならドン引きされてしまうような宗教や歴史の話を心ゆくまで出来た事は、少なくとも私には大きな収穫だ。
良い意味で二人とも変人なので、なかなか話の合う人間を見つけるのは至難の技。
それだけにこの出会いはかなり低い確率で実現したと思うと、なんとも感慨深い。
しかも、偏光さんも同じく「信仰心」はなく、単に興味があって掘り下げているのだ。
~歴史を語るのに宗教は避けては通れない~
何よりこのセリフが彼女の口から出た時には、思わす小躍りしてしまった。
そう!そうなんだよなぁ。
私も歴史好きが高じて宗教の事を深掘りし、挙句の果てに寺院では「仏像」神社では「狛犬」という、それぞれの「像」の鑑賞にまで至っている。
今回発見した二人の共通点は、
・宗教
・仏像
・無信仰
もうこれだけでも親友になれそうだ。
本気の十一面千手千眼観世音菩薩

一昨年の4月にチコさんと行った「葛井寺」のご本尊・十一面千手千眼観世音菩薩を鑑賞するのに、ありがたい事に時間を合わせて同行していただいたのである。
(ご本尊開扉は毎月18日)
念のためもう一度。
ご本尊の名は「十一面千手千眼観世音菩薩」で、
十一面+千手+千眼の観音菩薩様である。
「十一面」と「千手」まではよくあるが、その千の掌のそれぞれには目があるのだ。
しかも、普通「千手観音」と言えば42手が一般的なところ、ここではガチで千の手が付いている。
正確には40の大手と1001の小手の合わせて1041手が美しい円を描いて、まるで光背のようにビッシリと付いているのだ。
その腕が密集した様は、気持ちが悪いほどの緻密さなので、見ようによっては妖怪めいている。
しかも像高1.5メートルで普段はその大きさに見合った大きな厨子に収められていて、立ち位置からは奥まったところにあるため、しっかり確認することもできない。
印象として、実物はもっと頭が小さく立像であれば美しい八頭身だと思われ、表情はもっと柔和で優しかった。
このご本尊、725年に聖武天皇隣席のもとに開眼された最古の千手観音であり、今年は1300年という大きな節目を迎える。
春日仏師親子2代の作
通称「春日仏師」と呼ばれる稽文会と稽主勲ら伝説の仏師父子2代によって制作されたもので、脱活乾漆造りということにまた驚いた。
その工程は非常に手間のかかるものだ。
①粘土で原型を作る
②麻布を貼って漆で固める
③漆に木屑を混ぜたもので細部を造形
④内側の①の粘土を抜き取る
この方法だと細かい細工が可能な上、持ち運びしやすい軽い像が出来上がる反面、金銅性のものに比べると気候変化に弱く、当然ながら火災にはひとたまりもない。
それを思うと1300年もの間、遺されていること自体が奇跡だと言える。
千本の小手は桐材を芯にした木心乾造で、日本における「千手観音像」の元となった像でもあるのだ。
唐招提寺の鑑真和上坐像、千手観音菩薩立像、 薬師如来立像や東大寺の不空羂索観音立像、金剛力士立像などと並ぶ、奈良時代の最盛期である天平文化を代表する日本彫刻史上の最高傑作とされている。
たなびく紫の雲
さて、このお寺の山号は「紫雲山」である。
この名の由来は、昨年の大河「光る君へ」でも登場した花山天皇(本郷奏多)にある。
上皇となられた花山が参拝され、このご本尊の前で、
「参るより頼みをかくる葛井寺…」
という上の句を詠うと、ご本尊の眉間からゆらゆらと紫の雲がたなびき出て、それが本堂から45mほど南にある聖武天皇寄贈とされる石灯ろうまで届くのを見て、
「…花のうてなに紫の雲」と下の句を詠んだ。
この歌を奉納され、この寺の御詠歌となったという。
~参るより頼みをかくる葛井寺
花のうてなに紫の雲~
(観世音菩薩に紫の雲に乗って極楽へ迎えてもらう事を願う)
ちょうど藤の花が満開の日で、紫の雲が細くたなびく光景とのコラボは想像しただけで神秘的だ。
その逸話からこの山号となったのも、もっともらしい美しい伝説である。
寺紋は「下り藤」なのだが?
本堂の拝所に吊るされた提灯や幔幕の紋は「下り藤」なのだが、中央に三つ葉があり、そこから蔓が垂れている。

調べてみるとよく似たものに「佛光寺藤」というのを見つけた。
京都市下京区にある真宗佛光寺のものだが、微妙に三つ葉の中央と蔓の撥ね方に違いがあって同一とはいえない。
もしかしたら葛井寺オリジナルで「葛井寺藤」という紋なのだろうか?
例えば昨年7月に行った石切神社も下り藤なのだが、中央に太字で「石切」と書かれていて、いかにもオリジナルだった。

ここから憶測して、とりあえずこれも勝手に「葛井寺下がり藤」と命名することにした。

十一面千手千眼観世音菩薩のこと。
観音の中でも功徳が大きく、観音の中の王という意味。

今回は外観だけはすっかり整っていた。
かねてから修復工事中だった「阿弥陀堂」の阿弥陀二十五菩薩堂落慶がこの春である。
今年のGWに開扉も予定されているので、今から楽しみだ。
ついでの辛國神社も由緒あり

せっかく秘仏公開に合わせてやってきたのだから、ついでに「辛國神社」へも立ち寄ってみた。
葛井寺の西門にあたる四脚門からは拍子抜けするほど近い。

葛井寺にも井真成という遣唐使の墓碑があったが、この神社の「辛國」の「辛」は元々は「唐」や「韓」の事かもしれず、ここ藤井寺市や隣の羽曳野市などの一帯は、古代には後に葛井氏となった渡来系の氏族が勢力を持った地域だった事が想像できる。
暴れん坊・雄略天皇(456~476年)
参道は約50mだろうか?思った以上に長く見えるのは、幅が狭い上に木々が覆い茂っているせいかもしれないが、本殿まではかなり遠く見えた。
私:「もっとショボいと思ってたけど、意外と立派やん。」
偏光:「ここは私が好きな雄略天皇なのよね。」
雄略天皇!
名前ぐらいしか知らないのだが、「暴れん坊天皇」として有名で、かなりやんちゃだったと聞く。
偏光さんによると、地元豪族の物部氏をいじめて、わがまま放題だったらしい。
物部氏は一生懸命、貢物をしても、その誠意の意味を深く考えずにそれをそのまま他に回していたという。
歩きながら聞く偏光さんの話は、今まで私が注視していなかった人物に触れてくれるので、とても新鮮に聞けてしまう。
偏光さんのコメントより、
物部氏ではなく地方役人の志貴県主の間違いです。それまでは有力豪族たちと協力体制だった大和政権だったのを物部氏や大伴氏に絞って自らの軍事力とし、専制的な体制へと変えていった。
確かに、偏光さんのエピソードからも自分第一のガキ大将的な一面が垣間見れる。
きっと有力豪族を服従させるほどのオーラをまとった天皇だったのだろう。
物部氏にしても120年ほどのち、「丁未の乱」で、聖徳太子&蘇我氏に敗れて一気に衰退してゆくのを思うと、この時の奉仕も哀れに思えてくる。
境内の様子

「両部鳥居」や「権現鳥居」ともいい、
神仏習合の影響が残る。
元は物部氏の祖を祀った古い歴史を持つ村社だったが、平安時代編纂の延喜式にも記載された「式内社」である。
室町時代には奈良の春日大社の神を合祀し、明治時代になって長野神社を合祀した。
「辛國神社」の名で式内社として記載されているものの、地元ではずっと「春日社」や「春日大明神」と呼ばれていたが、正式名で認識されるようになったのは、明治になってからだという。

2対の狛犬たち
二の鳥居前と、本殿前と2対の狛犬が鎮座していた。

両方とも台座の文字はまったく見る事ができなかったが、本殿前の狛犬の根元に、ご丁寧な看板が差されていて、それによると179年前のものだと判った。
弘化三年(1846年)
大坂下寺町(現 天王寺)
石工 新助 作

これら2対の狛犬はどちらも頭のてっぺんが真っ平で、何ならこの上に物が置けるぐらい水平になっている。
これは新助さん作の特徴なのか?それとも何か意味があるのだろうか?

狛犬の事を宮司さんに聞こうと思っていたのだが、雄略天皇の話に盛り上がり、すっかり忘れてしまった事に後になって気付いた。
ガツンとくるスパイスカレー

10時集合して2か所をゆっくり巡ってもまだ11時だったので、ランチ予定とした偏光さんおススメのスパイスカレー屋さんの開店まであと30分もある。
どこかへ移動するにも中途半端なので近くのコーヒーショップで暇を潰した。
いろいろ話すことができたので、”暇を潰した”という言い方は違う。
有意義な時間を持てたと言った方がいい。
今後の予定もなんとなく決まったような感じに話は進み、おそらくこれからも会える機会はありそうだと思うと、とても嬉しい。

カレーはもちろん、美味しかった!
偏光さんのセンスに脱帽だ。
この後、どこに行くという予定もなかったので、主婦らしくそれぞれの地域の万代(スーパー)へ寄って買い物して家路についたのである。

【参考・引用】
・藤井寺市「葛井寺と国宝千手観音」
・サライ 本当に千の手がある千手観音の座す寺
・葛井寺ホームページ
・観光リーフレット「葛井寺」
・辛國神社
・風土記 藤井寺
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