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理想のオリンピック

バスケットボール女子、初の決勝進出でした!
残念ながら、金メダルには届きませんでしたが、世界一身体の小さな日本人選手が、ここまでやれるんだという事を証明してくれました。

今回の東京オリンピック、バスケを含め、選手たちの迫真の競技には本当に感動します。
もう一つさらに良いのは、国境もライバルも超えて、その場にいる選手たちが、失敗しようが成功しようが関係なく称え合うシーンが多かった事です。

お互いにここにたどり着くまでの苦労と、並々ならぬ努力を解りあっているからこそなのでしょう。

たとえ結果はそれぞれ違っても、そこまでの経緯は同じです。
決意と努力と忍耐と。そして支え続けてきてくれた周りのスタッフたちに大きな感謝の気持ちがあり、それがあるからこそプレッシャーも大きくなります。

プレッシャーとどう向き合うか?
むしろ、実力を培うことより大変な課題だと言えます。プレッシャーをどのように処理するかで、それまでの努力も生かす事ができるのです。

それらを含めて全て共有しているのが、その場にいる選手たち全員なのです。だからこそ、結果に関係なく称え合う事が出来るのでしょうね。

そういう神々しいとも思えるシーンが、今回の東京オリンピックでは特に多かったのではないでしょうか。


みんなで喜びを分かち合う

陸上男子走り高跳びで、決勝でムタズエサ・バルシム選手(カタール)とジャンマルコ・タンベリ選手(イタリア)が残ったものの、2人とも最終トライに失敗します。

決着をつけるか?と審判から聞かれた2人は顔を見合わせて、NO!と言うのです。
金メダルを戦友と共有できるなんて光栄だ!と抱き合うのです。
ここに「2人同時金メダル」が成立します。

また、スケートボード・パーク女子では、金メダル・四十住(よそずみ)選手と銀メダル・開(ひらき)選手と日本選手が独占しましたが、銅メダルはイギリスのブラウン選手という結果に終わりました。

実は、もう一人の日本人選手の岡本選手がギリギリまで頑張ったのですが、4位になってしまいました。
頭を抱えて泣き崩れる岡本に他の選手たちが駆け寄って、抱え上げたのです。

岡本選手は高難易度の技に果敢にトライし、精神的にも技術的にも最大限に努力した姿勢を、周りのみんなが認めたのです。

確か、スケボー・パーク男子もそうでした。
残念ながら、日本の平野選手の結果は振るいませんでしたが、失敗しようが成功しようが、いろんな色のユニホームの選手たちが、楽しそうにじゃれ合っていました。

もともと、スケートボードは遊びから生まれた競技なので、発祥したときから、勝負よりこの場を楽しむという事に特化していたのでしょう。

そこには、「根性」「敵と味方」「他国」「異民族」とかの垣根は一切なく、何よりもこの場の空気を共有する事に意義がありました。

これこそが本来のスポーツ精神であり、オリンピックの基本理念だと言えるのです。
今回のオリンピックでは"その尊い基本精神"が如実に表れた大会となりました。





嘉納治五郎に見せたかった!

おととしのNHK大河ドラマ「いだてん」は素晴らしかったですね。
オリンピック実現にあたり、あれほどの努力があった事を知る事ができました。

今回のオリンピックで、時代に翻弄されながらも、諦めずに熱意をキープし続けた嘉納治五郎(かのうじ ごろう)のことを思い出しました。

嘉納は、幕末の1860年、兵庫県に生まれ、柔道を極め、明治から昭和にかけて日本のスポーツへの道を切り開き、日本における「体育の父」とまで言われた人物です。

彼はスポーツだけではありません。
東京大学出身でもある秀才で、絵に描いたような文武両道なのです。
東大在学中には今年の大河の主役・渋沢栄一の経営学の講義も受けていたとか。

そんな嘉納が、世界のスポーツ祭典「オリンピック」に目覚め、是非とも日本も参加したいと願い、行動を起こし、東洋初のIOC(国際オリンピック委員会)の委員になります。

日本人初のオリンピック選手となった金栗四三(かなくり しそう)の活躍を通して、嘉納との接点や、金栗の家族のエピソードとともに、失敗や挫折をも含めて物語は進み、その辺の描写も良かったですね。

ついに1912年(明治45年)スウェーデンのストックホルムオリンピックには日本団長として初参加し、1940年(昭和15年)に日本の東京でのオリンピック開催権を得る事に成功します。

残念な事に、その2年後の1938年、エジプト・カイロでのIOC総会の帰途、氷川丸の船内にて、肺炎のため急死してしまうのです。

亡くなる前日まで、オリンピックの素晴らしさと、開催予定の東京オリンピックの構想を熱弁し、それこそオリンピックに捧げた人生でした。
横浜港に到着し、船から遺体を下すときにかけられたオリンピック旗は、感動ものでした。

さらにその2年後、東京オリンピックは日中戦争の激化により、日本にはそんなゆとりなど1ミリもなくなったため、自主返上するしかなく、"幻"となりました。

日本が返上した1949年のオリンピックはヘンルシンキ(フィンランド)が引き継ぐことになりましたが、世界大戦へと向かう世情の中で、結局、オリンピック自体が次のロンドン大会まで中止となります。

嘉納の後を引継いだ田畑政治(たばたまさし)が誠心誠意、尽力する姿がまた感動しましたね。

世界情勢が戦争へと向かい、敗戦国となった日本のみじめさ、国内においても「関東大震災」による甚大な被害や、2.26事件、5.15事件などの情勢不安が募る中、政治家とも渡り合ってゆく姿は見ものでした。

世界も日本国内でさえも極めて不安定な中、やっとの思いで実現することが出来た1964年の東京オリンピックは、関係者にとってはなおさら、ドラマを見ている私達にも、感無量の思いがこみ上げてきました。

金栗四三や、田畑政治は初の東京オリンピックを目にすることが出来ましたが、嘉納治五郎はついに見る事はできませんでした。

オリンピックは国を超え、言葉を超え、人種を超えた、世界の祭だと言っていた嘉納。
武器を持って戦うのではなく、共通に定められたルールの下、正々堂々と戦い、お互いを称え合うべきだと言っていました。

今年のオリンピックの光景を嘉納治五郎に見せてあげたかったと、心から思ってしまうのです。
彼がどんなに喜んだ事かと思うと、残念でたまりません。





日本が目指したオリンピックの基本理念

嘉納は、なぜ生涯をかけてオリンピックにこだわり続けたのでしょうか??

答えは、オリンピックの理念の中にあります。

・スポーツを通じて心身ともに調和のとれた若者を育成すること。
・異なる国や地域の人と交流すし、互いを尊重し、偏見をなくすこと。
・スポーツを通じて世界平和を構築すること。



嘉納はこれこそスポーツの醍醐味だと共感した事が始まりでした。

嘉納は、東京高等師範学校(現・筑波大学)の校長時代、柔道だけでなく、水泳や長距離走、さらにはテニスやサッカーなどのあらゆるスポーツを推進した体育に熱心な教育者でした。

さらに中国からの留学生も積極的に受け入れ、柔道をはじめ基本体育やスポーツを指導し、留学生の受け入れ数は、約7000人にもなります。

そんな嘉納がオリンピックに目覚めるのは、必然だったのです。

そして、それが日本の目指すオリンピックとなりました。

コロナ禍でのオリンピック開催には賛否両論ありましたが、嘉納の時代に比べたら、まだ全然マシではないかと思わずにはいられません。

開催してみれば、各選手の結果や国にかかわらずその場の全員がワンチームとなって、称え合えるオリンピックを見る事が出来たのです。

それは、嘉納が理念を伝授し、悲願でありつづけ、そのまま日本の理想とする”東京オリンピック”となったのです。




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