読んでもらうnoteにするために私が考える事
note歴4年を過ぎてくると、私の考え方も少しずつ変化してきたという自覚があります。
最初こそ、どう書けばいいのか手探り状態だったのが、慣れてくると自分のパターンができて、全体の構成もそれなりに「型」が定まってきたように思います。
誰にも反応してもらえなかったのが、いつの間にか一人二人と増え、気付けばたくさんの方々と交流させていただいている事を思うと、ただただ感謝でいっぱいです。
最初こそスキ数やフォロワー数を多少なりとも気にしてはいましたが、今となってはそれらは完全にどうでもよいものになっています。
そんな事より、書きたいことを書きたい時に書いて、note以外の外部SNS経由の方も含めて、出来るだけ多くの方に読んでいただきたいという思いが強いです。
そうなるには、いかに自分のnoteに読者の目を留めさせるかという事が肝心になってきます。
たまたま同じジャンルの同じ趣味の内容ならまだしも、それ以外の興味がない人を自分のnoteにどう繋ぎ止めるか。
これは非常に難しい。
さらには、noteで交流ができてお互いのジャンルを理解し合えたかと思うと、辞められたりすると、培ってきた交流関係は「振り出し」に戻ってしまう。
今現在も、気付けば姿を見なくなった方々が何名かおられます。
それぞれ諸事情はあるので仕方のない事ですが、非常に寂しく思わずにはいられません。
リアル生活だけでなく、noteでの交流関係も決して永遠ではありません。
せっかくの自分のnoteです。
既存のフォロワーさんたちだけを対象にするのではなく、もっと広い範囲の方々に向けて書くべきだと、最近は特に思うようになりました。
そこで、まずは旧知のフォロワーさんも一見さんもジャンルも全て関係なく、一文字でも多く読んでいただくための、私なりに配慮している事を今回はまとめたいと思います。
あくまでも個人的な見解であり、全ての方に当てはまるとは限りません。
少なくとも、これからnoteを持続するために何かしらのヒントになれば幸いです。
noteにも「つかみ」は必須!

特にお笑いなどでは「つかみ」がないと話にならないと言われていますが、note記事も同じであり、エッセイにしろ、小説にしろ、あるいはスピーチにしろ、私は冒頭部分はとても重要だと思っています。
だからと言って難しく考える必要はなく、「何の話」を書こう(言おう)としているのかぐらいは書いた方がいい。
なぜなら、全容の着地点の方向がわからず、どこに向かっているのか見えないと、読者を繋ぎ止めることは難しいからです。
「導入文」は「まとめ」より大事
記事でいうところの「つかみ」にあたる「導入文」は記事の「核」だと思います。
読者がそこから読み進めるか、そこで読まなくなるかが決まります。
何についての内容かをほのめかして、かつ期待させるものにするのがベストでしょう。
とはいえ、万人の方に興味を持たせるのは不可能ですので、せめて自分の記事に辿り着いた方だけでも、最後まで読んでいただけるような配慮はすべきだと思います。
”見出し”は最大限に利用する
noteには「大見出し」だけでなく「小見出し」の機能までありますので、これを利用しないテはないです。
これらがあるだけで、記事全体が整理されて引き締まるものです。
そして何より冒頭文の「何の話」かがより整理されて、一目でわかりやすい。
それらは記事においての「抑揚」となり、リズムが生まれます。
見出しのない記事は、ただ文字が羅列しているだけの盛り上がらない単調なものになり、記事内容の重点が分かりにくくなりがちです。
さらに言えば、見出しをザッと読んだだけで、大体の内容が掴めるという利点もあるのです。
私なんて、大小の見出しだけでは足りず、太字文字として「小小見出し」までつける時があります。
これは学生時代の授業ノートからの習慣で、基本的に「箇条書き」にした上で、説明を添えるという形が今も続いているようです。
この時の「箇条書き」が「見出し」に変わっただけで基本は何も変わっていません。
そうするだけで、誰より私自身がパッと見て解りやすくなるのです。
「オチ」に向けて全体を構成する
お笑いで言うなら「冒頭文」が「つかみ」なら「結論」は「オチ」にあたります。
この「オチ」に向けて書き進めるだけで、記事内容は迷子になりません。
「オチ」とはズバリ”自分が一番言いたかったこと”で、そこに辿り着くまでの文章はそのゴールに向けての「検証」や「例」に過ぎず、全てはキレイに落とすためのネタフリなのです。
時には意外な「オチ」になる記事もあり、思った通りのオチに決着することもあったり、それはそれぞれの個性によるもので、書き手が様々なら読み手側の受け取り方も様々なので、それはそれでいいと私は思っています。
むしろ個性も何もなく延々と単調な文章で埋められては、誰しも読む気が失せるのではないでしょうか。
数字を気にすると
自分を見失う

数字というものは厄介なもので、自分や他人を計る基準になりがちです。
特に始めて間もない頃は勝手がわからず、数字の上がり下がりに一喜一憂して翻弄させられてしまいますね。
それはただ苦しいだけで、本来の自分のnote自体を見失うことになりますのでキッパリやめましょう。
「スキ」や「フォロワー」の数字だけを追わない
ただ自分をフォローしてほしい。
記事にスキを付けてもらいたい。
これらはひたすら自分の記事の「見栄え」を良くしたいだけではないですか?
結論から言うと、スキやフォロワーの数字は続けてさえいれば増えるか、一定数を維持できるものだと思います。
だからこそ、その数字を気にして使う精神的な労力は、むしろ自身の記事内容に使うべきものです。
数字を増やすことを目的にしていると見紛う人も時々見かけますが、私にはその意図が理解できません。
数字なんて後からついてくるものだと思います。
ただ、本来の自分のnoteをコツコツと書き続ける事が肝心であり、まず執着すべきは、決して数字を増やす事ではないはずです。
批判や誹謗をする人の共通傾向
記事内容が批判、あるいは特定の人を誹謗する。
他所のコメント欄にわざわざ誹謗中傷を投稿する。
これらは未だに無くならない困った所業です。
された側はどんなに傷つくか、私も何度か経験していますので痛いほどわかります。
だからこそ負けないで欲しい。
もしかしたらこれらの人達は数字を稼ぎたいか、数字にコンプレックスを持つ、数字に囚われた者の末路なのかもしれません。
これらに関しては過去記事として何度か書かせていただき、マガジンにもまとめています。
そこから考察すると、そういう人の共通点も見えてきました。
・記事主への妬み嫉みがある
・ただ困らせて反応が見たいだけ
・マウントを取る事で注目を集めたい
・そういう人に限って自分の記事内容は薄い
・数字を稼ぎたいのか記事を量産する
人を批判する前に自分の記事を充実させるべき!対処方法に関してはあくまでも私のやり方として過去記事に挙げてきましたが、こればかりはそれぞれの性格や考え方もあるので、正解はありません。
ただ、自身が悪くないのであれば堂々としていて欲しい。
言ってみれば、多くは軽率な行為に過ぎない場合が多く、真に受ける必要はないと思います。
いかに平常心でいるかが大事であり、相手の挑発に乗らないように注意しましょう。
また、記事内容が何かの「批判」だった場合、読み手の一人として私は、同意も共感も出来ず反応に困る時があります。
そんな時はスルーするしかありませんね…
堂々と自己満足を語ろう!

さて、そもそもnoteで何を書くかは自由です。
しかし、その自由をはき違えてはいけません。
曲がりなりにもnoteという場でネット公開している以上、読み手がどう思うかも念頭に入れる必要はあり、そのために最低限、冒していけないことはあると思います。
その上で、自分の自己満足を思い存分語れば良い。
逆にそれが個性となるはずです。
私の記事は、歴史・宗教・美術鑑賞の記事も多く、それらは大抵マニアックで読者を選んでしまいます。
それでもネット公開しているわけですから、読んでいただくためには更なる配慮が必須なのは当然だと思います。
元々そのジャンルに興味がある人だけでなく、興味がない人も新たな世界が広がる事になれば、これほど嬉しい事はなく本望なのです。
以上、私なりの「配慮」をまとめると以下の通りです。
・「つかみ」の導入文で惹きつける工夫をする
・「見出し」をフル活用する
・「オチ」の結論に向かって構成する
・「数字」に囚われない
・「自己満足」は個性になる
せっかく書いた記事なので、あまりにも無反応が続くと心は折れてしまいます。
もし、noteが苦痛に感じる事があれば、まずは自分側で出来る配慮や努力を実行してみましょう。
noteは自分自身の表現の場。その中で「らしさ」を大切にしながら、少しずつ工夫を積み重ねていくべきだと思うのです。
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