東寺には空海の”本気”があった~①カリスマ性で護られた寺
またまた世界遺産の「東寺」に行ってきました。「五重塔」は木造建築として日本一の威厳を誇り、京都の象徴として人々の記憶に刻まれていることでしょう。
私自身も過去に何度か訪れたことがありますが、子供の頃は仕方がないとしても、20代になってからも来ていたのに全く記憶に残っていなかった自分に驚かされます💦。
境内に足を踏み入れた瞬間、金堂と講堂の大きさに圧倒され、やはりしっかりと理解した上で訪れないと、本当の意味で何も見ていないのだと痛感しました。


車で訪れたため北東の駐車場から「北大門」を通ったこともあり、東寺の象徴である「南大門」の写真を撮り忘れてしまいました。
それだけ他のことに気を取られ、余裕がなかったことを物語っています。

境内を北から順に「食堂」→「講堂」→「金堂」が南へと順に並び、その東面に庭園が広がっています。
高野山という空海の真言密教の聖地にも足を運んだことがあるのに、これほどまでに新鮮な感動を覚えるのは一体なぜでしょう?
どうやら寺院というものは、訪れる側の意識の違いによって、その感動の深さに大きな差が生まれるものらしい。
要するに、今回の東寺訪問では、弘法大師・空海の「本気」に圧倒されてしまったのです。
京都のランドマーク
東に広がる庭園のさらに南には現存する木造建築として日本一の高さを誇る「五重塔」がそびえ立っています。
やはりデカい!
圧倒的な存在感を放つ「五重塔」は、見上げていると首が疲れるほどの迫力があります。
特に最近は「法隆寺」の五重塔をよく見ていたため、なおさらその大きさが際立って感じられました。

高さ55mの堂々たる姿は写真の人物と比較しても、大きさは伝わると思いますが、ちなみに法隆寺のものは32mなので、その差は23mもあり1.7倍になるのです。

現代でも、この五重塔をみると京都だと認識するほどの目印となっていますが、実は今から1200年前の平安京においても恰好のランドマークとして、威風堂々の姿を人々に示していました。
この日は五重塔の開扉日ではなかったため、中を拝観することはできませんでしたが、心柱を囲むように安置された黄金に輝く四仏坐像があるとのことで、次の機会にはぜひ鑑賞したいと思います。
桜の名所
東寺の桜は関西では毎年ニュースになるほど有名ですが、名物の枝垂れ桜「不二桜」と「ソメイヨシノ」はまだまだですが、早咲きの「河津桜」だけが彩りを添えてくれていました。
他はあと1週間というところでしょうか💦

西寺はなぜ滅んだか?

延暦15年(796年)に平安時代初期に創建された「東寺」は、現在も伽藍配置が変わらず残る「平安京」唯一の遺構です。
正式名称は「教王護国寺」で、「王を善へと導き、良い影響を与えて国を守る」という意味から、東寺が鎮護国家の象徴として重要な役割を果たしていたことがわかります。
「東寺」という名前からも分かるように、かつては「西寺」と呼ばれる寺も存在していました。

空海と守敏の雨乞い対決
桓武天皇による平安遷都の2年後の796年、京の入口「羅城門」の東西それぞれに同じ規模の官寺を創建。
その2代後の52代・嵯峨天皇は、東寺の管理を空海、西寺の管理を守敏というどちらも真言宗の僧に委ねました。
東寺は当初、真言密教の中心的な修行道場とされ、一方で西寺は全国の寺院を統括し、法務を執行する役割を担う「僧綱所」と位置づけられていたようです。
そのため、見た目の規模は同じでも、西寺の方が格上とされていたようです。
その後の度重なる天災や戦災を経験しながら、西寺は廃絶した一方で、東寺が現在も存続しているのはなぜなのでしょうか?
824年の出来事がその転機となりました。
同じ真言宗の僧侶でありながらライバル関係にあった空海と守敏に、ついに決着の時が訪れます。
干ばつが続いていたため、朝廷は両者に雨乞いを依頼しましたが、守敏は西寺の金堂で三日三晩の祈祷を行いましたが、一滴の雨も降りませんでした。
一方、空海が現二条城の南に位置する 神泉苑 の竜神池の祠で祈祷を行うと、突如として激しい雨が降り始めたのです。
この出来事により二人の評価は大きく分かれ、守敏の信頼は大きく失墜することとなりました。
このエピソードで私が想像するのは、空海は科学的に証明することはできなかったとしても、気象を読み取る特別な能力を持っていたのではないかということです。
広島の弥山や徳島の大滝岳などで修業し、和歌山の高野山に自らの真言密教の聖地を築いた彼には、国内の自然現象だけにとどまらず、宇宙規模の森羅万象の理をすでに体得してたのだと考えられるのです。
早い話が、祈祷によって天候が変わったのでなく、空海は天候の変わり目がいつかを読んで、そのタイミングを判断できたのではないでしょうか。
決して祈ったからではなく、知識や体験があるかないかの違いであり、ただ、やみくもに祈るだけの守敏とは違ったのだと思います。
空海のカリスマ性が東寺を救った
とはいえ西寺が廃退した大きな理由は雨乞いではなく、一言でいうと以下の通り、「空海の持つカリスマ性」にあるようです。
・真言密教の開祖
当時はまだ、比叡山延暦寺を創建した最澄の天台宗が幅を利かせていたが、空海が唐から持ち帰った真言密教が瞬く間に日本を席巻した。
・日本三筆のひとり
平安時代初期の能筆家として嵯峨天皇、橘逸勢とともに三大名人に挙げられている。
・全国の土木事業に尽力
日本各地に空海出現のエピソードがあり、銅像も至る所にあるほどだが、修行熱心な空海がそんなに飛び回れる時間はなかったはずで、実際は弟子たちが空海の実績として動いていたのでは?
それ自体、空海が弟子たちを魅了し心酔させるほどの卓越したカリスマ性によるものだと考えられる。
それにしても空海は、最澄といい、守敏といい、敵が多いです。
それは空海のプライドが高すぎたのでしょうか?
ただの我儘では誰もついては来ないでしょうし、やはり彼には誰もが納得するほど自己にも厳しく、それが強いオーラとなって表れていたのかもしれません。
自分を貫くのであれば、少なくとも自分に甘くてはいけないのでしょう。
特に宗教を極めるのであれば。
以上のことから、朝廷だけではなく世の人々からも絶大な信頼を得た事が、その後の存続において重要な役割を果たしました。
やがて816年に「高野山」を自らの聖地として創建し入定すると、東寺は次第に衰退していきましたが、天災による落雷などの被害を受けるたびに、天皇や公家の庇護を受けて再建されてきたのです。
その後の災難の際にも、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった日本史上の権力者たちが空海信仰を積極的に支持し、庇護に努めたことで現在に至ります。
そういえば、高野山の「奥の院」には名だたる武将たちのお墓が数多く並んでいましたが、彼らは皆、死後に空海のもとで安らかに眠ることを願ったからだと伝わります。
東寺が創建当時のまま現在もその地に存在しているのは、空海個人の力だけでなく、弟子たちを含む彼の業績全体によるものであり、何よりも空海が築き上げた圧倒的なカリスマ性の賜物と言えるのではないでしょうか。

参道は約2キロにもおよぶ。
(2019年11月撮影)
参考記事
東寺を語るにはまずは弘法大師空海だと思って書き始めましたが、勢いが止まらず思った以上に文字数を費やしました💦
今回はここまでにして、以降は次回に密教美術の素晴らしさまとめます。
【参考・引用】
・古寺行こう 東寺
・東寺観光パンプレット
・東寺HP
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