稀代の悪女・藤原薬子の実像に迫る|彼女は不純だったのか、純粋すぎたのか?
2024年の大河「光る君へ」は、珍しく戦乱ではなく宮中の様子を描き、日本の文学や文化に比重を置いた、異色の作品でした。
作中の紫式部と藤原道長とのスキャンダルは「疑惑」のままですが、これよりおよそ200年もさかのぼった平安時代初期に、史実に遺る大スキャンダルがありました。
それは藤原薬子と51代・平城天皇です。
彼女は娘の夫である平城天皇と不倫関係となり、大いに世間を騒がせ、その後の歴史も変えてしまうことになります。
大河ドラマとなった紫式部&藤原道長と藤原薬子&平城天皇。
双方の不倫スキャンダルから悪女だと名高い薬子の真実を私なりに検証してみました。
藤原一族の主導権を変えた「薬子の変」

まずはその背景と経緯をざっくり説明します。
藤原一族はかつて「大化の改新」に深く関与した中臣鎌足の息子、藤原不比等の息子たちが興した4つの家系に分かれていました。
それぞれ南家・北家・式家・京家と呼ばれ、藤原四家と総称されます。
そのうち薬子は式家の出身で道長は北家です。
式家の祖の藤原宇合が「式部卿」に長く就いたことから「式家」と呼ばれます。
奈良時代~平安初期に49代・光仁天皇の擁立や桓武天皇時代には長岡京の造営などに大きく貢献したことで繁栄を遂げ、皇位継承や政治的事件にも関与していたのです。
東宮妃となった娘とともに宮中へ
薬子は夫である藤原縄主との間に3男2女をもうけ、そのうちの長女が桓武天皇の皇太子・安殿親王(平城天皇)の妃となり、同時に母の薬子も宮中へ上がることになりました。
残念ながらこの時点での娘の名も年齢も不明ですが、当時の皇族や貴族の女性が妃として入内するのは一般的に10代前半だったことや、日本後紀などの史料にわざわざ「まだ幼く、世間知らず」と明記されていることから、私は、ひょっとすると10歳前後、あるいはそれより幼かったのではないかと想像しています。
だとすれば、男女の色恋よりお人形遊びに興味がある年代のはず。
きっと母の薬子は美貌の持ち主で、女として成熟しきっていたとすれば、後の平城天皇となる安殿親王が、娘よりも薬子の方に惹かれるのも当然かもしれません。
天皇は薬子一筋
親王と薬子はあっという間に深い男女の仲となるのですが、それを知った父の桓武天皇は激怒し、薬子は追放されて二人の仲は引き裂かれます。
しかし、やがて桓武が崩御し、皇太子が平城天皇として即位すると、二人の仲は再燃。
むしろ以前にもまして激しくなり、薬子は天皇の寵愛を一身に受けることになりました。
女官の最高位である尚侍にまで昇格すると、彼女は政治にまで介入するようになってしまうのです。
しかし、平城天皇は病に倒れ、弟へ譲位することを選択しました。
これにより弟が嵯峨天皇として即位し、平城天皇の在位はわずか3年で幕を閉じることとなりました。
皇位をめぐる兄弟の戦い
譲位後に健康を回復した平城上皇は、再び政治への関与を強め、権力の座に返り咲こうと試みます。
しかし、嵯峨天皇側の迅速な対応が上回り、その目論見はあえなく阻止され、結果として薬子は官位を剥奪された末に服毒自殺し、平城天皇は出家を余儀なくされたのです。
一連の成り行きを整理すると、
1,平城天皇は后ではなく、その母・薬子と深い仲になる
2,父の桓武天皇にバレて引き裂かれ、薬子は追放
3,平城天皇の即位で薬子も復権し絶大な権力を持つ
4,平城が病気のため弟の嵯峨天皇へ譲位
5,平城は皇位を取り戻そうとしたが失敗して出家、薬子は自殺
この一連の政変は「薬子の変」と呼ばれています。
この事件を境に、藤原式家は勢力を失い、後に藤原道長らを輩出する「北家」へと主導権が移ることになりました。
悪女というには不審点が多い

ここからは全て私の妄想です。
疑惑1:平城天皇の作戦「将を射んと欲すればまず馬を射よ」
薬子の娘を所望したのは皇太子だった平城天皇であり、決して藤原式家が無理押じいしたものではありません。
私の憶測通り、娘がまだ小学生程度の子供だったとすると、平城天皇が幼い女児を所望するとは考えにくい。
だとすると、平城天皇は過去にどこかで薬子の姿を見て、見染めてしまったのではないか?
仮に娘が10歳だとすると、5人の子のうち何番目なのか不明ですが、当時の薬子はせいぜい30歳ぐらいで、男性の目を惹くほどの美貌の持ち主だったのではないかと想像しています。
言い換えれば、平城天皇の真の目的は最初から薬子にあり、娘は彼女を手に入れるための手段として利用されたのではないか、という疑念さえ湧いてくるのです。
疑問2:薬子は「唯唯諾諾」と依存しただけ
この史実の経緯から私には薬子の意志が感じられず、これらの主導者は平城天皇であり、薬子は素直に応じただけではないかと感じています。
薬子を一方的に見染めたのも、弟へ譲位したのも、さらに権力を取り戻そうとしたのも、全てが平城天皇の思い付きに近い言動に見えるのです。
薬子たち親子はそれに振り回されたに過ぎないのではないか。
薬子は、平城天皇の寵愛を受けた側近として政治に関与したことは確かですが、彼女自身がどこまで主体的に政治計画を立てていたのかは、史料からは判然としません。
少なくとも私には、薬子自身が壮大な野望を抱いていたというより、平城天皇の意志に寄り添い、その命に従って動いていたように見えるのです。
一方、平城天皇は病気だったとはいえ、全ての行動に至る思慮は浅く、一国の天皇であるという自覚がなさすぎます。
そう思ってさらに調べてみると、最近の研究では「薬子の変」と言われる一連のクーデターの首謀者はいったん譲位し上皇となっていたため「平城太上天皇の変」となると見直されているそうです。
(出典:「薬子の変とその背景」国立歴史民族学博物館)
歴史は勝者のものだから

明らかに平城天皇には一方的な野望があったように、私には受け取れます。
さらに妄想すると、
その後、政治の主導権を握った嵯峨天皇側にとって、騒動の責任が天皇にあると史実的に都合は悪く、平城上皇自身を「政変の首謀者」とするより、寵愛を受けた薬子に責任を負わせる方が都合がよいと判断した可能性はないでしょうか。
その結果、藤原薬子は悪女、妖女とわれ、極悪人のように描かれて記録されたのではないか。
はたして薬子は、本当に「悪女」だったのでしょうか。
私には、権力を欲した女性というより、愛した天皇の意志にあまりにも忠実だった女性に見えてくるのです。
それを「純粋」と呼ぶのか、「愚か」と呼ぶのか――そこは、見る側によって変わるのかもしれません。
大河ドラマの主人公にもなれそう
藤原薬子は大河ドラマの主人公になれそうな気がします。
不明な部分が多い紫式部が大河ドラマの主人公になったのですから、薬子だって十分いけるでしょう?
むしろ不明部分があればこそ、思い切った創作が可能になるため、
思った以上の出来上がりになるはずです。
また、一般的にはあまり知られていない人物を取りあげることで、日本史の奥深さや新たな発見を視聴者に提供することができるはずです。
同じ時代や同じ人物を追うばかりではなく、趣向を変えて悪女というレッテルを張られた薬子の真実を映像化してみるという、新しい取り組みも面白いと思います。
悪女、万歳!!
過去、日本史の悪女について何度か書かせていただいてきました。
日野富子、北条政子、淀殿など、後世に「悪女」と語られてきた女性たちは、必ずしも歴史の勝者側にいたとは限らず、都合よく悪女とされた可能性は高い。
それらの「悪」も彼女たち側から見れば正当であり、確固たる理由があったはずです。
しかし、勝者たちが自分たちの行いを正当化するためには、これらの女性たちに悪女のレッテルを貼り、責任転嫁する方が簡単に面白いストーリーに仕上がります。
昨今の政治に見られるように、裏には失策の責任を他人に押し付け、自らの非を認めない体質があったのかもしれません。
一般的に遺る史書を元に作られた日本史も、自分なりの経験値で得た価値観で想像力を働かせてみると、また違う人物像が見えてくるのです。
そんな人間臭さを放つ歴史上の有名人物にこそ、身近さを感じずにはいられません。
娘として、妻として、母として、実際の自分の人生と照らし合わせながら、彼女たちの心の奥が見える思いがするのです。
それに、「悪女」という存在は歴史には必要だとも思っています。
それが後世によって誇張されたものだと思うからこそ、壮大な歴史物語の中にもかかわらず、彼女たちはよほどの魅力ある大きな存在だったということ。
中国をはじめ世界に存在した悪女たちに比べれば、日本の悪女たちの「悪」はまだかわいいものだと思います(笑)
少なくとも私は、これら悪女の歴史の裏にこそ真実が隠れていると思えるのです。
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