チームの中で「個」の自分を持つという事
チームプレーで成果を挙げるには、自分だけの事を考えていてはいけません。
しかし,
かといって自分を捨ててはいけないとも思います。
それぞれの個性を磨きつつ、ここ一番のいざという時に一つになれる事こそが理想のチームだと言えます。
自分の「個」を失くしてしまっては、自分という値打ちそのものが消滅してしまい、チームとしての力も発揮できないのでは?
それぞれが得意とする事があって、それを他のメンバーが認め合ったうえで一つにまとまることができるのが、本当の意味でのチームプレーであり、もしそれが一人の個性一色に染まってしまうと、他の者にとって伸び伸びとしたプレーは出来なくなり、居心地の悪いチームとなって、最悪は勝てる試合にも勝てなくなるのが目に見えています。
誰しも日々の生活の中で、「家族」「職場」「親同士」「地域」「趣味関係」などの何かしらのグループに属していて、その中で自分自身の立ち位置を理解し、周りを見ながら足並みを揃えつつ生きている事と思います。
そんな様々なカテゴリーのグループの中で協調性を保ちながらも「自分」を発揮することは至難の技ですが、それを試行錯誤して失敗しながらもトライするのが人生なのだと思います。
断っておきますが、実はスポーツの話ではありません。
様々なグループ内での人間関係や「自分の役割」についての話です。
家族の中の自分とは

「自分が一番大事なんやな。」
そう友人から言われた一言が自分の中にいつまでも残っています。
これは「子供に構う時期は過ぎたので、自分の好きな事をしたい」という事を言った時の反応でした。
そう返した彼女は、とっくに成人した子供たちのためだけに生きて、常に彼らの役に立つことが生きがいだといいます。
本人も「してあげたい」のだと。
それはそれで自分が望んでいる事であればいいとは思いますが、
何でも「してあげたい」のは子らが幼少の時こそ必要でしょうが、成人後はどうでしょうか?
例えば自分の成人後の独身時代を振り返ってみると、思い出の中には親の登場はほとんどなく、出てくるのは自分で築いた人間関係の人々ばかりです。
それは自分自身が親離れし、親は子離れしていたからで、何でも自分で対処して決めて生きてきたからだと思います。
たとえ形だけでもいっぱしに独り立ちしていても、家族の絆が薄れるわけではなく、親にとって子は一番大事な存在であることに変わりはありません。
当時の私は親心を理解できていませんでしたが、親となり息子2人を成人させた今、その真意もわかったように思います。
はっきりしているのは、例え子供が成人したとしても一番大事なのは息子たち。
決して自分ではありません。
半年ほど前にこんな記事を書きましたが、ひとそれぞれに考え方や知る世界に差はあり、そういう風な小さな視野を持つ彼女にわかってもらえないのは明らかです。
「してあげる」も依存
そういう私も、毎日家事をこなしているのは、何ものでもない家族のためです。
しかしそれは「してあげる」のではなく、単に家族が気持ちよく日々を過ごしてほしいからであり、料理に至っては美味しそうに食べて、喜ぶ様子を見たいという以外に理由はありません。
それも、成人してからは家族そろっての夕食は、めっきり減っているし、たまに私が泊まりの旅行や、日帰りでも帰りが遅くなる場合は各自で何とかしてくれるので、私としては思う存分に遊ぶことはできています。
「してあげる」という言葉は、ある種の優越感からのもので、自己満足に過ぎず、結局はそれも子供に依存している事になるのではないでしょうか。
自分自身は夢中になれる事を何も持たず、年がら年中、四六時中、子や夫などの家族に「してあげる」だけの毎日も、結局はただの”依存”だと私は考えます。
特に子供の人生は、完全に親から独立したものであり、いつまでも自分の中心に置くものではありません。
ベースには一番大事なランクに位置付けているものの、自分の中の全てが子供になると、いつか子供にとっても重荷となる日が来るでしょう。
どうあがいても、いつか年老いた時には、子には何かしらの負担をかける日はくるのですから、せめて気持ちだけでも自立はしたいものです。
友人グループ内での自分とは

幼馴染スタートのうしなきん
私がnoteで登場させた友人グループと言えば、「レキジョークル」と「うしなきん」です。
後者の「うしなきん」はそれこそ小学校の時からの友人も含まれているので、付き合い年数は50年を超える「幼馴染」のような関係だと言えます。
普段は距離を置きながらも、不思議なことに会えば一気に距離は縮まり、今さら気遣いも不要のメンバーたちです。
たまに京都の嵐山か鴨川沿いでサイクリングしたことはあっても、毎年冬に犬鳴温泉へ行く事が定番というほぼ行き先が決まっているのは、このグループでの目的は観光ではなく、年に1度集合することで飲んで騒いでリラックスする事が第一の目的だからです。

2016年6月26日撮影
ママ友スタートのレキジョークル
さて「レキジョークル」の方はというと、始まりはママ友でしたが、今は人間同士のお付き合いのつもりです。
しかしそのつもりも最近は疑問に思うようになってきました。
誤解のないよう先に言っておきますが、決して仲が悪くなったのではありません。
そこはみんな協調性は抜群なので、もめることなくそれぞれの企画を楽しんで参加しています。
とはいえ、行き先提案や詳細の企画は私や他1名の2名が担う事が多く、どうしても歴史関連や神社仏閣へ行くことが多くなるのは、限られた人間が提案するからで、当然ながら行き先もワンパターンになりがちなのは仕方のない事なのかもしれません。
というのも、「提案してね」と催促しても提案が出ないのです。
行きたいところが思い浮かばないという人さえいるぐらいです。
私は欲深いのか、行きたいところなど山ほどあり、提案できないことが逆に信じられないのですが。。。
そもそもこのグループはサークルのつもりであり、同じ趣味を持ち探求する者の集まりだと私は捉えていました。
正直、歴史関連でなくてもそれぞれの興味分野を提案することで、それについて深掘りできたら、さらにみんなの興味も増えると期待していたのです。
私一人の提案などたかが知れていますが、6人の案があればさらに世界は広がり、知的好奇心も増えてゆくはずだと思うのです。
参加すればしたらで、それなりに楽しんでいる様子ではあるのですが、私は漠然と心の中がモヤモヤするのを感じはじめています。
結局、私がみんなを振り回しているのではないか?
みんながみんな歴史や神社仏閣に興味があるわけではないことは明らかなのに、提案がないからと言って無理に何かを企画する必要はないのかもしれない。
私は自分の興味をレキジョークルメンバーと共有したいからこそ、提案してきたのですが、そもそもみんなが自分と同じ思いでいるとは限らないのではないか。
レキジョークルで、
行きたい、体験したい、
自分の趣味を知ってもらいたい、
そう思っているのは私だけではないかと。

2023年11月7日撮影
今年からは、私が行きたい所をレキジョークルで提案することはせず、少し離れてみようかと考えています。
行きたい所は個人的に行けばよいと思うと、かえって心が軽くなったのです。
私が一歩引くことで、メンバーの誰かからステキな提案が生まれるかもしれない。
私がこのサークルの立案者だからと言って何も気負う必要など、どこにもなかったのです。
優越感と依存は紙一重

自分にはまとめる責任があるとか、
家族や友人のためとか、
「してあげる」という思いは傲慢以外の何ものでもありません。
そんなことで、もし優越感を持っていたとしたら大間違いです。
それこそ依存している事にほかならない。
自分が優位に立っているつもりが、逆に心のどこかでみんなをアテにしていて、それこそが依存であり、誰かのためにと言うのは、自分の方が優位に立った傲慢な見方だと思うのです。
そんな自己満足な依存など捨てて、自分は自分なりにやりたいことをどんどん実行して、自分の世界を熟成させていけばよいだけの事。
そしてさらに満足度を高めて、家族やサークル、友人グループたちと新たに共有できるものを培っていけばよい。
幸いにも行きたいところはたくさんあって、探求したいことも増える一方なので、出来るうちに少しでも多くの体験をしておこうと思います。
チームスポーツと同じように、誰にも依存できない自分だけのポジションはありますが、必ずしも自分がしなければならないということはなく、仲間を信じて頼る事も大切なのです。
さらには、自分磨きを常に意識さえしていれば、どのチーム内においてもきっと役立てるはずで、自分をチーム内の一員と見た場合、「誰かのため」ということよりもまず、自分を磨く事を常に心がけるのが先決だと改めて気付いたのです。
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