菅原道真の思いが今も遺る道明寺
大阪府藤井寺市の道明寺と道明寺天満宮を訪ねました。
今から1120年以上も前、平安時代中期の901年、菅原道真が都を追われて太宰府へと旅立つ途中に立ち寄ったのが、叔母・覚寿尼の住む道明寺でした。
彼女が父母の姉か妹か?叔母か伯母なのか?不明なので、
ここでは叔母とします。~鳴けばこそ 別れを急げ鶏の音の
聞こへぬ里の暁もがな~
鶏が鳴いて、別れを急かされるようで悲しく思う。
ここが朝に鶏が鳴かない里であればどんなによいであろうか。
道真が叔母との束の間の時間を惜しんで詠んだ、あまりにも有名な歌はここで生まれたとされています。
学問の神様として知られる菅原道真は神格化されて、庶民には「天神さん」と親しまれ、全国に約1万2千社もあると言われています。
大阪人の私がまず思い当たるのが大阪天満宮、そして地元の屯倉神社です。
きっとどなたのご近所にも「天神さん」はあり、身近な信仰対象になっているのではないでしょうか?

お寺と天満宮は隣接しています。
かつては天満宮の南にあった道明寺ですが、明治以降に分離され、今の位置に移動しました。
神仏習合から神仏分離と、勝手な理由でくっつけられたり離されたり、神様仏様も大変です。
細部に凝った道明寺

推古二年(594)、聖徳太子の発願により、土師八嶋が自身の広大な邸宅を寄進して創建した「土師寺」が始まりと伝わります。

境内は一目で見渡せるほどに狭い。
ここに国宝があるなんて思えないほど。
道明寺と改称されたのは天暦元年(947)で、これは、冒頭で道真が別れを惜しんだ叔母である覚寿尼が住んでいたことに由来し、道真の幼名である「道明」からこのあたりの地名とともに改称されたようです。
このエピソードが本当なら、覚寿尼の道真に対する深い愛情が伺え、旅立つ前に立ち寄った意味にも頷けますね。
母のように慕う叔母に一目会っておきたい甥と、
我が子のように愛おしい甥と惜別をかみしめる叔母。
二人は二度と会う事はないという覚悟の上で最期の時間を過ごしたのだと思うと、道明寺はとても深い意味を持つ場所です。
道真が彫った?
国宝・十一面観音
この日は、道明寺の秘仏公開に合わせて訪れました。
一応、秘仏なので撮影禁止の上、観光リーフレットにも写真は載っていないため画像はありません。(こちらで確認できます)
像高1m、檜の一本造で、表面は、彩色や漆箔もなく、木肌のまま仕上げた香木を素材とした檀像彫刻と言われるものです。
ふくよかで柔和なお顔立ちながら、胸を張って両足を揃えて直立する姿は、凛として美しく、素晴らしく均整の取れた頭上に11の顔を持つ十一面観音像です。
身体にまとった天衣は緩やかな曲線を描き、それが身体柔らかな丸みを際立たせ、厳しさと和みが同居する雰囲気を醸し出しています。
年月を経た独特の黒光りがあり、バランスの取れた気品あふれる観音さまでした。
これを菅原道真が彫ったと伝わるのですが、どうでしょうか??
頭がキレていた上、手先まで器用で、しかもここまでのセンスを備えているなんて、あまりにもデキ過ぎ君で、私には到底信じられません。
足元の鏡の意味は?
私が気になったのは、そのご本尊の足元に直系20㎝ほどの丸い鏡が置いてあったこと。
後日、詳しい方に尋ねると、それは「依り代」ではないかとのことでした。
依り代って神道ですよね。
神霊や魂が一時的に宿るための「媒体」としての役割のもので、寺院の仏様の足元にあるのは初めて見ました。
神様が観音様を護っているという事なのか!これは「神仏習合」の名残りであり、かつては道明寺天満宮の敷地内のお堂のひとつみたいな存在だったことを物語っているのかもしれません。
本堂前の常香炉の彫刻
本堂前の屋根付き常香炉は、よく見るととても凝った彫刻が施されていました。

風化して彫りが浅くなってはいますが、軒下の牡丹とみられる花はもちろん、4本の柱にはそれぞれ獅子がしっかりしがみついていました。
そのうち2体は逆さ獅子で、こんなところにも躍動的な動きが表現されていることに驚きました。
凝った棟鬼飾り
狭いだけに、比較的すぐに要所は観れてしまいますが、屋根の飾りなど随所に凝った造形が見られました。

菊も牡丹も吉祥文様なので縁起は良いらしい。
寺院やお城などにみられる棟鬼飾りは、一般的には鬼瓦をはじめ、邪鬼、唐獅子、鯱などのモチーフがみられます。
いずれも「魔除け」や「厄災除け」の意味で置かれているものですが、躍動感あふれるものが多く、着目してみると日本人の感性の素晴らしさに気付かされます。
狛犬が豊富な道明寺天満宮

どちらにも駐車場があるので、徒歩5分ほどの移動も車を使ってしまい、山門をスルーして途中の石鳥居から入場しただけでなく、名物である「桜餅」も買い忘れるという失態を冒しています💦
ちょっとぐらい歩けよ💦
扁額は111代後西天皇の第11皇女、
理豊女王の筆による。
「第一位太政大威徳天神」
良さげな狛犬たちがこちらを見ていますが、まずは目を合わさずに鳥居を見上げ、その由緒を調べるとなかなかのものでした。
後日知ったのですが、ここで小林一茶が句を詠んだそうで、その句碑もあるはずなのですが、完全にスルーしています。
青梅や 餓鬼大将が 肌脱いで
梅が熟す前の青々とした若い実は、まだ少年のガキ大将が元気な様子を連想させる。
暁や 鳥なき里の ほととぎす
鳥の鳴き声がしない「鳥なき里」の静けさの中で、ホトトギスの声がどこからか聞こえてくる夜明け前の情景。
それだけではありません。
今調べてみると、数ある石灯篭も結構古くて値打ちのあるものばかりだと知りました。
しかし、今回はキリがないので、狛犬に的を絞ってまとめています。
後になって見どころの多さに気付くのはいつもの事。
またいつか訪れた時には、違う発見もあるはずです。

現在のものは文化12年(1815)建立。
拝殿と繋がる八棟造(権現造)、
華やかな桃山時代の様式を取り入れている。
御祭神は菅原道真・天穂日命・覚寿尼の三柱。
バラエティに富んだ狛犬たち
🌿石造の玉取り狛犬

向かって右の阿形が口に玉を加えており、これらはひと目で「玉取り狛犬」だと判ります。
その玉が動くことで”運気が良く転がるように”という願いが込められているのです。
左の吽形の頭にはツノがあり、こちらが狛犬で、右側は獅子という事でしょう。
足首に複数のひもがくくられているのは、足止め祈願というもので、家出人の靴と狛犬の足首に同じひもをくくる事で、帰宅を願うそうです。
その他、大切な人や物を引き留めたい、子供の神隠しを防ぐなどの願いが込められています。
天保13年は西暦の1842年なので、今年で183年も経っているせいか、劣化が激しいものの、目が飛び出て口が大きい浪速狛犬の特徴がよく出ていると思います。
河州国分邑
河内の小さな集落に住む東の伊左衛門の次男・槻秀幸が、
天保13年3月に献之(献奉)した
さらに写真はないのですが、HPによると、石工は大阪長堀の「淡藤」。
「執取は三之室」とあるので、世話人は朝廷内の三職のうちの役人か?
🌿青銅製の狛犬

取次は二之室。
元文3年1月に大坂北浜1丁目の西嶋氏による奉納。
造ったのは大坂の大谷氏。
元文3年は西暦1738年!今年で287年?
狛犬だけをみればキレイなので、とてもそうは見えず、おそらく台座だけの作成年月日でしょうか?
青銅製のものは世界大戦時に武器生産のため強制的に供給させられたはずなので、こちらも建立当時のままではないと思います。
とにかく、しっぽやたてがみ、髭の流動的な動きはアーティスティックでモダン。
こちらも向かって右がツノなしの獅子。左がツノありの狛犬。
🌿備前焼の狛犬

お供した守役の渡会春彦の神格名が白太夫命
備前焼。
大阪の藤田組が献納。
昭和4年4月、石友が建之(建立)
こちらはどちらにもツノがないので、両方とも獅子でしょうか?
怖い顔をしていますが、耳が垂れていて愛嬌を感じ、道真の最期を看取ったとされる守役の人柄も偲ばれるようで、そのお社には相応しいように思えました。
大阪最古の能楽殿

文化12年(1815)に建立なので、今年でなんと210年!
平成14年に改修され、その時には3年ほど連続で「薪能」が開催されたそうです。
今は催されていないのが残念ですが、「梅まつり」の時に能奉納されるとか。
行事日程をチェックして観てみたいものです。

緑と樹木の認定協会による認定名。
幹周5.8m、樹高23m、樹齢300~500年
枝ぶりがあちこち奔放に伸びている。

約80種800本の梅が植えられ、
梅まつりも開催されるので、
来年は来てみようか。

最後に…
この道明寺天満宮の場所は、まさしく「大阪夏の陣」での激戦地で、豊臣方の後藤又兵衛や薄田隼人など多くの武将が命を落としました。
現在も戦死した武将たちの御霊を鎮めるという意味もこの地に感じながら、お参りさせていただきました。
道真が立ち寄ったこともあり、ずっと時代は下った明治には、聖地巡礼地として「菅公聖蹟二十五拝」のひとつに挙げられたのを見ると、道真は時代を超えて現在も続くスーパー偉人なのだと、あらためて思います。
それなのになぜ罪を着せられて大宰府へ流されたのか?
当時の藤原時平の陰謀が残念でたまりません。
(昌泰の変)
藤原氏は大きな実績と貴重な文化や遺構を後世に遺しましたが、その裏の犠牲が大きすぎることに複雑な心境になります。
【参考】
・Web風土記藤井寺
・大阪狛犬物語 塩見 一仁 (著)
・藤井寺市 道明寺と国宝十一面観音
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