私の仏像鑑賞に必要なもの。須弥壇は舞台、仏像は演者という設定。
私は日本史好きという流れから、神社仏閣にも興味を持ち、そこから「宗教」の本質を考えるようになり、「仏像」を鑑賞するに至りました。
ひと言に「仏像好き」と言っても、人それぞれのタイプがあり、ざっと以下の項目に分けられるようです。
①ただ信心が篤いから
②自己精神を高めたい
③美術品として鑑賞したいから
④単に名所に祀られたものだから
⑤作られた時の時代背景に物語があるから
私の場合、⑤が入り口となり、仏像の世界にドハマりしたのですが、それだけではないと感じています。
特にメインの仏様を補佐する脇侍や眷属、明王や邪鬼などを含めた数名が、須弥壇というステージで繰り広げる劇場型ストーリーを妄想してしまうのです。
たかが人の手で作られたものだと侮るなかれ。
そこにはしっかりとした物語があり、すべてが「されど」の世界なのです。
それに気付いてから、仏像鑑賞が一気に楽しくなりました。
皆さん、ドラマはお好きだと思います。
では、人はなぜドラマに惹かれるのか考えたことはありますか?
その理由は、「共感」「喜怒哀楽の解放」「非日常の体験」にあると私は考えます。
歴史や寺院の須弥壇上にはそれらと同じような「ドラマ」があり、しかも古代から脈々と語り継がれた「教訓」まで詰まっているのです。
歴史や仏たちのドラマこそ、現代のドラマにつながる「物語」の原型のひとつなのではないでしょうか。
様々なストーリーが交錯する人間模様も、歴史や宗教の世界で語り継がれてきた物語を元に、アレンジされたものが少なくないように思います。
今回は主人公にあたる如来や菩薩ではなく、その脇役たちにスポットを当てて、私流の「仏像の見方」をまとめてみます。
虐げられている者に愛着がある

寺院を訪ねてお堂内に入ると、大抵はご本尊を中心にした仏様オールスターズが一段高くなった須弥壇に並べられています。
その表情、立ち姿、視線、配置、従者との距離感などをよく見てみると、彼らの関係性まで想像できてしまいます。
さらに言えば、須弥壇上で表現されたシーンは、まさしく物語のクライマックス、いわば一番見せたいところなのです。
このシーンに至るまでの経緯とその後の成り行きなどを知ることで、個々の人格までもが私の中ではっきり表れてくるのです。
なぜ邪鬼は踏み付けられるのか?

唐招提寺 境内
「邪鬼」とは、人に災いをもたらす鬼や怨霊のことです。
仏教では、四天王や金剛力士₍仁王₎などに踏みつけられ、「邪鬼」は「悪」の象徴であり、邪悪な心を仏法によって懲らしめられている様を表現しているのです。
私はこの邪鬼たちに心を奪われています。
たいていは撮影禁止なので写真を用意できないのが残念ですが、目を剝いていたり、口を歪ませたり、への字に曲げたりして、懸命に耐えている様子が愛らしくてたまりません。
特に興福寺・国宝館の天燈鬼と龍燈鬼のおどけたような表情と立ち姿はウットリするほど愛らしく、彼らが元々「邪鬼」として、悪の象徴とされていたなど信じられません。
ある時は足蹴にされたり、ある時は重たい屋根を力いっぱい支えていたりと、実は奴隷のように目立たないところで虐げられているかのようです。
見た目には弱いものいじめにしか見えず、いったいどちらに正義があるのかわからなくなります。
なぜ降三世明王は2人も踏み付けているか?
たとえば五大明王のひとつ降三世明王は、大自在天とその妃・鳥摩の2人を踏みつけています。

奈良博仏像館 撮影フリーエリア
「降三世」とは「過去・現在・未来の3つの時間」あるいは「欲界・色界・無色界の3つの世界」を降伏するという意味があり、現世だけに留まらず、過去や未来に至るまで人々の「欲」を制するのです。
踏まれている 大自在天₍ヒンドゥー教のシヴァ神₎と妃・烏摩は、
「三毒」といわれる欲望・怒り・愚かさという煩悩そのものを表し、大日如来の化身である降三世明王が、力づくで仏の教えへと導いている様子を表しています。
この力づくで無理にでもという行為は、どう見ても暴力だと思うのですが、これが「慈悲」なのだそう。
だとすれば「熱血指導員」というところでしょうか。
率直な感想として、大自在天夫妻は、人間なら誰しもが持ち得る欲を象徴しているにすぎないようにも思えます。
それを暴力的に制するのがはたして「慈悲」と言えるのか?
踏み付けて足蹴にしてまでも仏の世界へと導く必要はあるのか?
それぞれの宗教ストーリーは面白いのですが、信心の薄い私にはどうしてもこれらの仕打ちに疑問を感じずにはいられません。
しかし、これもまた仏の一面であり、優しさだけが慈悲とは言えず、厳しさもまた慈悲だということなのでしょう。
鉄壁の守備を誇る大将軍たち

四天王は東西南北を護る
「四天王」の名は、よく日本史の戦国時代の武将たちに例えられています。
一番有名なのは「徳川四天王」ですね。
酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政。
その他、「武田四天王」では 内藤昌秀・馬場信春・山県昌景・高坂昌信。
「織田四天王」は柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀。
いずれも、全盛期を支えた四天王として知られています。
これらの「四天王」という呼び名も、仏教界の武神に由来するものなのです。

仏教界の四天王は、その中心にある須弥山の四方を護りますが、特定の人間や仏ではなく、世の秩序を守り、人々の暮らしや国を守る役割を担っています。
持国天・増長天・広目天・多聞天₍毘沙門天₎の4人で構成され、それぞれが部下として鬼神や眷属を率いて邪神や悪霊から世界を保護する、いわば仏法の最高警備長官といったところでしょうか。
それぞれが以下のような眷属を従えています。
・東:持国天ー乾闥婆・毘舎遮
・南:増長天ー鳩槃荼・薜茘多
・西:広目天ー龍・富単那
・北:多聞天/毘沙門天ー夜叉・羅刹
ちなみに一般的な並び位置はそれぞれの頭文字から、東から順に「じ・ぞう・こう・た」という覚えるための便利な語呂合わせがあります。
十二神将は十二支全方位を護る

薬師如来とそれを信仰する人々を守護する12体の武神です。
病を治す薬師如来の教えを、武力と神通力で実直に守り抜くのが大きな役割です。
昼夜を問わず、四季を通じて、あらゆる方角から護り、しかもそれぞれが部下として数千人の夜叉を率いる。
病気はもちろん、あらゆる災難を除去し、現世利益をもたらす役割まで果たす、まさに完璧な大将軍なのです。
また名前がカッコイイ!!
子:宮毘羅 リーダー格
丑:伐折羅
寅:迷企羅
卯:安底羅
辰:頞儞羅
巳:珊底羅
午:因達羅
未:波夷羅
申:摩虎羅
酉:真達羅
戌:招杜羅
亥:毘羯羅
映画やアニメなどの登場人物も、これらからヒントを得て名付けられたのかもしれませんね。
お堂は劇場、須弥壇は舞台

舞台やドラマには「悪役」がいてこそ成り立つもの。
それらはストーリー展開には必要な役柄であり、だからこそヒーローは存在感を放ちます。
さらに「脇役」たちがいてこそ、幅の広い展開を可能にし、面白い筋書きになるものです。
むしろ私はこの悪役や脇役にこそ魅力を感じ、特に「邪鬼」は現在マイブームであり、その造形描写には感心するほどのユーモアがあります。
眺めていると、彼らのセリフまでが浮かんでくるほど(笑)
主役のご本尊も素晴らしいのですが、こういう脇を固める者たちにまで思いを馳せると、物語が立体的に迫ってくるようで、須弥壇上が臨場感あふれる舞台となるのです。
所詮はただの偶像だと思ってしまえばそこまでですが、その背景にある意味やストーリーを知ると、一人一人の性格や役割が人格として浮かび、私の想像力をかきたててやみません。
ここに挙げた仏たちは、主役の如来や菩薩たちの裏で、ただひたすら健気に耐え、あるいは戦い、世界とそこに住む人々のために働き続けているのです。
私は仏像を眺める時、むしろ彼らの健闘を誇らしく思わずにはいられません。
信心の無い私だからこそ、そのよく出来たストーリーを素直に受け入れ、自由に想像力を働かせることができる。
これが私の仏像鑑賞に必要な土台なのです。
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