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自分の無知さを自覚するからこそ世界は広がる

古代ギリシャの哲学者ソクラテスが説いた「無知の知」とは、自分が何も知らないという事実を認識することが最も大切であるという考え方です。

言い換えれば、「無知」であること自体は恥ではありませんが、自分の無知に気付いていないことこそが「恥」であるということです。

知識が欠けているために「無知蒙昧むちもうまい」のままでいると、物事の道理をいつまでも理解することができません。
さらに、自分の無知を恥とも思わなければ、それ以上の成長は望めません。まずは知らないことを恥じる姿勢を持つことが、進歩への第一歩となるのです。

冒頭にソクラテスを引用したからといって、難しい話をするつもりはありません。

彼のこの提唱は”人生に最も必要なこと”かもしれません。
子育てを終え、老年期を迎えようとする今だからこそ、これからの「自分の人生」を見つめ直し、これまでの経験を踏まえながら、残りの人生をいかに豊かにするかについて私なりの考えをまとめてみました。


スイッチが入った時が絶好のチャンス!

還暦を過ぎたというのに、私はいまだに「知らないこと」に直面することが多々あります。
これまで世の中の何を見てきたのだろうか。
どうしてもっと早く気づかなかったのだろうか。
そう思う瞬間のなんと多いことか。

それまで気にも留めなかったことが、突然視界の中心に躍り出て私を惹きつけるたびに、それまでの自分を悔やまずにはいられないのです。

日本史に入った興味スイッチ

過去の記事でも何度か触れましたが、私は小学生の頃に観た大河ドラマ「国盗り物語」によって、日本史への興味が一気に高まりました。
1973年に放送されたこの作品が、もう半世紀以上も前のものだという事実にはあらためて驚きますが。

子供心にも「本能寺の変」はあまりに衝撃的で、忘れることができません。その衝撃は心の中でくすぶり続け、中学か高校の頃だったと思いますが、読書好きだったことも手伝い、司馬遼太郎さんの原作を夢中になって読み切りました。

これをきっかけに、歴史というジャンルにすっかり魅了された私は、司馬さんの他の作品はもちろん、他の作家による歴史小説も次々と読み漁るようになりました。
そして、執筆者によって描かれる歴史上の人物への視点や思いが異なることに気づき、それがまた歴史小説を読む面白さをさらに深める要因となったのです。

歴史名所探訪から宗教や仏像へ

若い頃は主に戦国時代や幕末など、派手な変革期にしか興味がなく、他の時代にはなかなか関心が持てませんでした。

しかし、様々な歴史名所を訪ねたり、読書をしたり、ドラマを観たりするうちに、歴史は一部分だけを切り取っても意味がないことに気付きました。

それから他の時代にも急速に興味を持つようになり、その興味は止まることはなく、歴史はずっと繋がっているからこそ面白いのだと改めて感心したのです。

しかも、歴史的名所を訪れる中で、さまざまな神社仏閣を巡るうちに、それぞれの宗教が持つことわりの面白さに気付き始め、今では「狛犬」や「仏像」などの宗教的な造形物にまで興味が広がる始末です。

何度も書いていますが、私は仏教系高校の出身であり、在学中には貴重な体験をさせていただいたにもかかわらず、当時はまったく無関心で、むしろ鬱陶しいとさえ思っていました。
今振り返ると、それは無知であったがゆえの恥ずべきことだったと思います。

しかし当時は、その「恥」に気付くことすらできなかったのです。

バカや無知に気付く時期はそれぞれ

その仏教高校卒業から40年以上が経った今になって、ようやく宗教の奥深さに気付いた自分を大バカ者だと思うものの、残念ながら時間を取り戻すことはできません。

しかし、紆余曲折の回り道を経たおかげで、その間に得た一見無駄に思える知識が意外にも役立ち、様々なことが繋がってくるのは不思議なものです。

推測ですが、仮に若い頃に気付いていたとしても、自分の人生経験が不足していれば十分に理解するのは難しかったのではないでしょうか。
これは歴史や宗教に限ったことではなく、物事を多方面から深く理解するためには、やはり自身の「経験」が欠かせないと思うのです。

自分の無知さに気付く時期は早いに越したことはありません。
しかし、遅くなっても人生経験●●●●が補ってくれるはずです。

気付いた時がチャンス。
それがいつであろうと関係ない。

自分が気づいて開眼したその瞬間こそ、 それまで「難しいこと」だったものが一転して「楽しいこと」に変わるのです。


探究する喜びは最強アイテム

好きなことを探求する喜びを知ってしまうと、もう止めることはできません。
それは欠かせないライフワークとなり、そこからさらに視野が広がり、当初は想像もできなかった世界を手に入れ、間違いなく今後の最強のアイテムとなるはずです。

好奇心が芽生えるかどうか

「自分が無知である」と気付いたとしても、そこで立ち止まっていては何も変わりません。
気付いた後の「意識」が重要で、そこで「知りたい」という「好奇心」が芽生えるかどうかで、その後の成長に大きな差が生じます。

自分の無知を認識することが出発点ですから、恥や外聞を気にせず初心者としての姿勢を素直に持ち、賢い人々から知識を借りて着実に知識を蓄える事ができるのです。

それに反して、中途半端に利口な人は知っているつもりになり、疑問も自分だけの狭い世界で解決しようとする傾向があり、努力の割には本物の専門家には到底かなわず、結局は限界に突き当たるのではないか。

「できない」と「やらない」は違う

私にはできない…と言う人がいます。
それは間違いで、「やらない」もしくは「やる気がない」と言った方が正しいはずです。
さらには「興味がない」ことが根本的な理由で、物事に対する「好奇心」が湧かないということです。

ですから物事を極めるのは決して「能力」の差ではなく「意識」の問題だと言えるのです。

どんなことも、最初の入口は小さな興味から始まり、そこから好奇心が生まれ、探究したいという思いが芽生えるものです。
それが、今後の自分の人生に「彩り」を添えてくれるものになるかもしれません。

「私には趣味がない」という方に時折出会うことがありますが、それは不思議なことです。
人間である限り、心が動く何かが必ずあるはずで、それを見逃しているだけなのではないでしょうか。
物事の見方を少し変えるだけで、「好きなこと」に出会い、「好奇心」が芽生えるのは自然なことだと思います。

特に定年退職された後、専業主婦に収まる方もいれば、会社勤めを続ける方もおられるでしょう。
いずれにしても基本的に毎日同じルーティンで過ごす中で、いかに刺激を見つけるかは重要です。

冒頭で書いた”人生に最も必要なこと”とは、どんなジャンルであれ、自分の「恥」に気付く事。
さらに「知りたい」という気持ちに正直になって「好きな事を探求」することであり、それがあるだけで、人生は晩年まで豊かになると確信しています。

ただし慢心は命取り?

さて、ソクラテスの最期はあっけないものでした。
不敬罪と若者を堕落させた罪で死刑となったのは、彼が誰彼構わず一方的に難題をふっかけていたことで訴えられたためです。

彼を崇拝する弟子のプラトンなどの理解者たちの間だけで語り合えば良かったのに、哲学に何の興味もない人々にまで同じように接するのは、確かに迷惑極まりない行動だったと言えるでしょう。

誰にでも知識をひけらかす傾向があったのでしょうか。
それとも相手の顔色を読み取る能力に欠けていたのでしょうか。

私は歴史や宗教、仏像の話をする際、まず相手の様子を伺うようにしています。
軽率にそれらのジャンルの話題を持ち出すと、相手がドン引きしてしまうからです。
専門分野の話は自分は良くても、興味のない人にとっては「拷問」に匹敵するものだという認識は最低限持つべきだと思います。

ソクラテスの最期は、賢者であるがゆえに道を踏み外してしまったという教訓を伝えているように感じます。
自分の趣味や興味を他者に押し付けることは、くれぐれも慎むべきですね。


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