相棒
日本からハワイに越してすぐ、自転車を買った。当時の私は、車はもちろん運転免許さえ持っていなかった。10年前の話だ。
重量制限ギリギリのスーツケースを抱えてホノルル空港に降り立つ前日まで、最寄り駅の下北沢駅界隈をママチャリでかっ飛ばす忙しい毎日を送っていた私にとって、自転車は最も身近な乗り物だった。
移住したばかりで右も左も分からなかった私は、とりあえず大抵の物は揃う大型スーパー”ウォルマート”の常連客となりつつあった。
その日は自転車売り場に直行した。
売り場は予想していたのとは様子がだいぶ異なりとまどった。見渡す限り、前かがみのスポーツバイクがズラリと並んでいる。
困った。スポーツバイクには荷物カゴが付いていない。それに、前のめりの姿勢は絶対に無理!
一日も早く自転車を手に入れないと、新生活のための買い物さえままならない。焦りながらうろつく私の眼に、他とは明らかに異なる風貌の自転車が飛び込んできた。
売り場の片隅に佇む、水色の自転車。
荷物カゴは付いていないものの、前かがみスタイルでないのはこれひとつ。しかも、なかなか洒落ている。
私は喜び勇んでその水色の自転車を購入した。
**
ところが、だ。どうもおかしい。ウォルマートからの帰り道、自転車を漕ぐ私は既にそう感じていた。
全然前に進まない。いや、進んではいる。けれど、とっても遅い。頑張ってペダルを踏む脚の感覚の割にスピードが上がらない。下北沢の街で爽快に風を切りながら走っていた、あのママチャリのスピード感には到底及ばないのだ。
後に分かったことだがこの自転車、「ビーチ・クルーザー」と呼ばれるものであった。
ビーチ・クルーザーはもともと、サーファー達がサーフボードを抱えたままでも走りやすいように開発された自転車。
砂まみれの道でも安定した走行を実現する太いタイヤは一般道ではスピードが上がらず、サーフボードを抱えたままでも後ろ向きにペダルを回転させることでブレーキがかかるコースターブレーキは慣れないと使いにくいことこの上ない。
そんなサーファー達のための自転車を、何も知らずにママチャリ気分で買ってしまった、というわけ。
結局、スーパーへの行きはのんびり走行、帰りは買い物袋をハンドル部分にぶら下げて手で押しながら歩く手押し車として、1年ほどこの自転車にはお世話になった。
私にとっては唯一の、大事な移動手段であることに変わりはなかった。
その間、本体はもちろん部品の一つ一つまで盗難に遭うらしい、という地元の噂を信じ、出掛けるたびにエレベーターのないウォークアップアパートの2階まで重たい自転車を運び上げ、きれいに拭いて部屋に入れ、それこそ寝食を共にし、大切に扱った。
**
水色の自転車との「さよなら」と時を同じくして私は、日本からハワイに共に渡った当時の夫とも「さよなら」をした。
いざという時には運転のできた元夫との別れにより、いよいよ私に運転免許が必要な時が来た。
車の運転ができないと、この国では生きていけない。少なくとも、行きたい時に行きたい場所へ行けない。自分が生きたいように生きられない。
路上試験には4度落ちた。
それでもやっとのことで合格し、免許証を手に入れるとすぐに中古車を買い、翌日から車出勤を始めた。そうしないと途端にまた「運転しない人」に舞い戻ってしまいそうで。
慣れない手つきでガソリンを入れ、毎週末には洗車もした。
絶対に運転できる人にならないといけない。必死だった。
**
現在暮らすハワイ島ヒロの自宅は、遠くに海を見下ろす小高い丘の上に建つ。道を渡ると草原で牛たちが優雅に草を食んでいるような場所だ。
車がないと、どこにも行けない。
オアフ島ホノルルで買った中古車は、ハワイ島への引越しを機に未舗装道でも走りやすい四輪駆動の新車に買い替えたが、洗車好きなのはあの頃から変わらない。カーウォッシュに出す人も多いが、洗車の楽しみは誰にも譲れない。
年間通してショートパンツにビーチサンダルという変わらない軽装でバシャバシャと水と戯れながら洗車ができる、という贅沢。
時折自分にもかかる水しぶきは、ハワイのあたたかい日差しがすぐに帳消しにしてくれる。
洗剤をたっぷり含ませたスポンジで車体をやさしく撫でると、そこにだけ完璧な白さが現れる。
「ヴォグ」と呼ばれる火山性の霧を浴びて薄茶色のベールを覆っていた愛車は、スポンジを持つ私の腕の動きに比例して、本来の色を蘇らせる。
**
下北沢のママチャリから現在の愛車に至るまで、私の隣にはいつもこうやって相棒がいた。
10年の時を経て、私を取り巻く環境はおよそすべてと言っていいほどに変化した。住む場所も、家も、そして相棒も。
何一つ変わっていないのは、私の中にある「大切なものを大切に扱う喜び」であり、「身近なものを愛おしむ気持ち」。
変化したからこそ、変化の中でも変わらなかったものが初めて見えた。そのことを自覚できる自分にも、なれた。
勢いよくホースの水を車体に放つと、太陽の光が水粒に反射してできた小さな虹が、サイドミラーの脇でキラキラと輝いた。
その虹が消えてしまうまでの間、私はウォルマートで買った水色の自転車のことを、まるで昨日のことのように思い出していた。

