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街全体が「大きな家族」になる未来へ

現代の「処方箋」は、薬ではなく“居場所”かもしれない


~病院に「集う」高齢者と、教室で「心を閉ざす」若者たち~

昨日は長浜駅前のえきまちテラスのイベントに出店している、日赤で働く友人が、ふと漏らした言葉が忘れられなくて、思ったことをつらつらと書こうと思います。

友人「糖尿病の治療に来ている患者さんが、『今日はあっちのクリニックにも顔を出さなきゃいけないから、時間がなくて』と、大事な診察を急かしたり、キャンセルしたりすることがあるの…。


具合が悪いから行くのではなく、『あそこの待合室に行けばいつもの顔ぶれがいる』『先生に会いに行くのが日課』というように、まるでスタンプラリーのように、もしくは近所の集まりに行くような感覚で、病院をハシゴしている。
その人にとって病院は、病気を治す場所である以上に、“自分を受け入れてくれる唯一の居場所” になってしまっているのかもしれない」

本来、高度な医療を提供するはずの場所が、寂しさを埋めるための「サロン」化している現実。
「ここに行けば、誰かが話を聞いてくれる」「行く場所があるだけで安心する」
そんな切実な思いが、いくつもの病院に通い続ける「病院依存」という形になって表れています。

■ 世代を超えて広がる「見えない孤独」

「寂しい」と感じているのは、高齢者だけではありません。 ある高校生に「学校の授業は楽しい? 今は何が流行っているの?」と聞いた時のことです。返ってきたのは、こんな答えでした。

「スマホのゲームが一番楽しいかな。学校? 『カモ先生』の授業がいいよ。だって、授業中にスマホいじってても怒らないし、何にも言わないから」
この言葉に、私は胸が締め付けられる思いがしました。 彼らにとって「良い授業」とは、知的好奇心を満たしてくれるものでも、先生と対話できるものでもなく、「自分に干渉せず、デジタルの世界に逃げ込ませてくれる時間」になってしまっているのです。

中学生の子たちからも、こんな声を聞きます。 「今はみんな『好き』が細分化されすぎてて、同級生でも話が合う人が少ないんだ」
高齢者は、社会との接点を求めて病院の待合室へ向かい、 若者は、リアルな他者との関わりを避けるように、スマホの中の狭い世界へ潜り込む。
「誰かに見てほしい」高齢者と、「誰にも干渉されたくない」若者。 表れ方は違いますが、どちらも「今、目の前の現実に、心から安らげる繋がりがない」という点では同じ叫びを上げているように思えてなりません。


■ 「何者でなくてもいい」場所の必要性

今、私たちの街に必要なのは、最新のショッピングモールでも、効率的な道路でもないのかもしれません。
それは、「何者でなくても、ただそこにいていい場所」です。
「〇〇会社の部長」という肩書きを脱いだ自分。
「良き母」「良き妻」という役割を負わない自分。
趣味が合っても、合わなくても。健康でも、病気でも。
ただ「人」としてそこに座り、なんとなく隣の人と笑い合える。
そんな安心できる第3の居場所が、気軽にいける距離(心理的にも、物理的にも)にあること。


それこそが、病院への過度な依存を減らし、子供たちの孤立感を溶かす、現代における「最高の処方箋」になるのではないでしょうか。

■ 街全体が「大きな家族」になる未来へ

病院をハシゴする患者さんの背中も、教室でスマホに没頭する生徒の横顔も、「本当は、心から安心できる場所で繋がりたい」という無言のメッセージを発しています。

一人ひとりの孤独を癒やすのは、医師の薬や受診できる病院の数、ゲームの中の快楽”だけ”ではなく

「おかえり」や「こんにちは」
「おつかれさま」
「今日どんな感じ?」

そんな何気ない会話が、リアルな体温を持って、気軽に、フラットに、安心感の中で交わされる”街の空気そのもの”なのではないしょうか。

医療や学校の枠を超えて、誰もが「ここにただ存在していていいんだ」と思える”そのまんまで安心できる居場所”を作ること。

それが、私たちが目指すべき(いや、私が求めている?)真に豊かな「街づくり」の第一歩なのだと、私は改めて思った次第です。

2025/12/22
北川雅子


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