大奥(PTA) 第二十二話 【第四章 青梅】
【第四章 青梅】
<子守>
安子様のご夫君は、赤鬼先生の迫力に気押されて、ただ黙り込んでしまわれました。
「子守ぐらいならってな、舐めて貰っちゃ困るんだ。さっき奥さんにも話したが、昔から子供ってもんは『七つ前は神のうち』って言って、本当に手も掛かるし、目も離せねえもんなんだ。子供を見るってのは、ただぼおっと視界に入れとく事じゃねえ。怪我しねえ様にしっかり見張る事なんだ。それを母親たちは、四六時中休まず全力でやってる。何か家事をしながらでも、頭のどっかで子供の動きを必ず意識してる。常に真剣勝負、それが子守ってえもんなんだ、分かるか?
子守ぐらい、ってお前さんどの口でそんな事が言えるんだい?」
赤鬼節の炸裂に、安子様のご夫君は流石に項垂れるより他なく、一同の間にしばしの沈黙が流れたのでした。
そんな時に御座います。
「おかあたま? おとうたま? おうち。おうち、かえりたい」
まだよちよち歩きの上、病み上がりで少しふらつきながら、数え三つ(2歳)の花子様が、衝立の脇から診察室の方に、ちょこんと小さなお顔をお出しになりました。
その花子様の愛らしい姿をご覧になり、流石の赤鬼先生も相好を崩して目を細められ、こう仰いました。
「おうおう、姫様が自分で起き上がれる様になったな。まあそろそろ、ちったあ動かしても大丈夫そうだ。爺のお説教もこの辺にしとくから、おぶって家にお帰んなさい」
「先生、常磐井様。本日は誠に、誠に有難う御座いました」
安子様がお二人に深々と頭をお下げになると、赤鬼先生はこう付け足されました。
「お母さん、まだまだ様子見の状態だよ。明日は一日、安静にする様に。しっかり着いててやんなさい」
「はい。分かりました」
安子様はこう仰って、ご夫君と共に再び深く一礼なさると、夫婦で目で合図をし合いながら、醫院に来た時、初島様が着けて居た紐で、優しい手つきでご夫君の背中に花子様を括り付けると、太郎君の御名をお呼びになりました。
「太郎、帰りますよ」
「はい!」
と太郎君が元気にお返事なさると、長い本日一日、ようやっとほっとしたと言う表情で、安子様の左手に御自分の右手を重ね合わせたので御座います。
<鷹匠頭(リレーの選手)>
ようやっと御家族四人が揃い、常磐井医院から安子様の屋敷へ帰るまでの道中、話題は明日の御鷹狩(運動会)の事に成りました。
「太郎、常磐井先生が仰る様に、私は家で花子を見なければ成りませんので、残念ですが、明日の御鷹狩(運動会)を見に行く事が出来ません。本当に御免なさいね」
安子様が申し訳無さそうにこう仰ると、太郎君は、
「花子がこの様な事になってしまったのだから、仕方が有りません。お母様がご無理であれば、お父様は?」
太郎君が振り返って御父君を見上げました。
「すまんな、太郎、儂も明日は表(会社)の仕事が合って、見に行く事は叶わない」
御父君の答えを何となく予想して居た太郎君は、
「分かりました。私は一人でも大丈夫です!」
と、から元気でお答えになると、御自身の残念なお気持ちを隠すかの様に、元気よく明日の御鷹狩(運動会)の白組応援歌を歌い始めました。
その歌を聴きながら安子様は、ああ、せっかく本日寺子屋で骨折って、この御鷹狩(運動会)の御準備を致しましたのに、肝心の明日の当日、太郎の晴れ姿を見る事が叶わないなんて、何と残念な事でしょう、とお思いになられました。
「ところで太郎、本日、常磐井様の所のお兄様が、三年の鷹匠頭(リレーの選手)に選ばれなすったと仰って居ましたが、一年の鷹匠頭(リレーの選手)はどなたが?」
と、安子様が太郎君にお尋ねになると、太郎君は、
「ああそれね。実は私も鷹匠頭(リレーの選手)に選ばれて居ます。でもいいんだ。大丈夫、ちゃんと励みまする故」
安子様は太郎君が、本当は御自分の走る姿を私に見て貰いたいのに、痩せ我慢をしてこのように申して居るに違いないと思うと、健気さに胸が締め付けられる様な思いで歩みを進めておいででした。
「して、安子」
屋敷へと歩みを進めながら、ご夫君はこう話を切り出されました。
「醫院での事だが」
「はい」
と、安子様はお答えします。
「院長の娘さんと仲が良いのは良いが、何でもべらべら話して、儂に恥をかかせないでくれよ」
ご夫君はこう仰いました。
「……」
恥……? 旦那様の事を幼い頃よりご存知で、しかも幼子の命の儚さを、長年痛切に噛み締めて来られた稚児医者の赤鬼先生が、あの時はそれこそ心を鬼にして、「子供は七つまでは神のうち、幼子の子守は真剣勝負でやりなさい」と真剣にお諌めになって下すった、その有難いお言葉を、このお方は人前で恥を掻かされた、そのようにしか捉えられないのか。
御自分でお腹を痛めた訳ではない男親には、幼子を守る仕事の重みが、こうも響かないものなのか。
安子様は、流石にこれには返す言葉が何も浮かばず、ただゞ俯いて黙々と家路を辿るのみで御座いました。
<金鍔>
さて、時は半刻(1時間)と少し程遡ることに致しましょう。
以前、牧野の奥方様に銭を盗んだと言う疑いをかけられ、その誤解を解く為に、朝方奥方様宅をお尋ねになった初島様は、偶然青梅を齧って苦しむ花子様を見かけてお助けし、常磐井醫院にお運びになり、花子様のお母様の安子様が醫院に駆けつけましたので、今度は牧野の奥方様のご様子を見なければ、と来た道をお戻りになっておりました。
花子様のご様子に気が動転してお倒れになってしまった牧野の奥方様は、その時分にはもう御自分でお起きになることが出来、どうにか体調も持ち直しておりました。
「奥方様、初島に御座います。お加減は如何でしょうか?」
諸事わきまえの有る女中の初島様は、丁寧に畏まりつつ門前から奥方様の寝ていらした縁側近くの和室に向かってお声がけをされました。
「ああ、初島かい? 初島が戻ったのかえ?」
玄関の方から、奥方様が返事をするお声が聞こえました。
「初島、ああ、初島。
本日は誠に、花子を助けて下すって。お礼の言葉も御座いません。あの時あなたがいらして下さら無かったら、今ごろ……」
奥方様はお体を前のめりにして、弱い御足元故、転びそうになりながら初島様の両手を取って謝辞を仰いました。
「奥方様。滅相もない事にございます。御直りになって」
初島様はこう仰って奥方様を御支えになりました。
初島様を客間に通されますと、奥方様はこう仰いました。
「そうそう、初島、美味しい和菓子が有るのですよ。持って来ましょうね」
奥方様がゆったりとした所作で立ち上がろうとなさると、
「いいえ、そんな事なら私が」
と、初島様が膝を上げようとなさいます。
「良いんですよ、本日は大いに助けられましたもの。まあまあ、そこに座ってらっしゃいな」
奥方様が強く仰るので、初島様は奥方様が厨にお立ちになる御背中を見守っていらっしゃいました。
初島様の脳裏には、「銭を入れた朱色の燧袋は、確かに水屋箪笥の片開き戸に有った筈ですよ!」と、物凄い剣幕で盗みを疑い、暇を出されたあの日の奥方様のご様子が焼き付いておりましたので、本日の奥方様は、その時とは全くの別人の如く、まるで以前の様な穏やかでお優しかった奥方様だわ、とお思いになりました。
奥方様は厨に着くと、御茶菓子をお探しになりました。
「ええと、頂きものの取っておきの金鍔は、こちらだったかしらねえ。あ、そうこれ、これにございます」
奥方様は和菓子の金鍔をお見つけになると、次は菓子切り(和菓子用フォーク)を探して水屋箪笥の方に行かれました。
「菓子切り(和菓子用フォーク)は、この水屋箪笥の右の抽斗に仕舞って有るのでしたね」
奥方様は、独り言を言いながら、水屋箪笥の右の抽斗をお引きになられました。
「あ、これは!」
水屋箪笥の右の抽斗には、初島様が盗んだと奥方様が思い込んでいらした、一分銀が五枚(約12万円)、満額入ったままの朱色の燧袋が入っていたのでした。
ああ、何という事でしょう! この燧袋は水屋箪笥の上方の片開き戸に仕舞ったものとばかり思い込んでおりましたのに、右の抽斗の方から出て来るだなんて。私の勘違いで、勝手に癇癪を起こし、初島にあんなに酷い事を言って暇を出してしまったなどとは。
いくら侘びても許されるものでは無いかも知れませぬ。ただ、これからも以前の様に初島にこの家に仕えて貰いたい。ここは、心を尽くして謝罪するより他はない。
奥方様はそうお思いになると、客間にいらっしゃる初島様に向かってお声がけをなされました。
「初島、初島こちらへ。厨の方へ来て頂戴!」
次章に続く

