大奥(PTA) 第四十三話(完結)【最終章 語り部】
【最終章 語り部】
<語り部>
もうお気付きの方もいらっしゃるかも知れませぬが、私自身の事をお話ししておきましょう。
私はこの寺子屋の隅の、この井戸の脇に有る、名も無い祠の主に御座います。何百年も前よりこの祠に棲まい、あまたの親子のご成長を、ここで見守って参りました。
殊に、この地に越して来たばかりで知る人もあまり居らぬ中、一人手(ワンオペ)にて懸命に、幼いお子お二人と、お腹のお子を育てていらっしゃるのに、朝な夕なここを通りかかる時には、お忙しい中必ずやこの祠に手を合わせて下さる安子様におかれましては、私は殊更に気に掛け、この物語の語り部としてこの一年の間、安子様とそのお子達を見守って参りました。
これまで私は、ただ黙って安子様のご様子を見守るだけに御座いましたが、つい今しがた、安子様がこの世を儚んで、井戸の縁に御手をお掛けになられるご様子を目にしてしまっては、さすがに私も黙って見過ごす事が出来ず、安子様に厳しい言葉でお声がけをしない訳には参りませんでした。
もう既に御心を定め、あちらへの世へと思いを馳せ、井戸の縁に御手をお掛けになっていらっしゃる安子様は、寧ろ晴れ晴れとした御表情をなさっていらっしゃる様にすら、私には見えたので御座います。
<祠の主>
私は木枯らしを吹かせ雨脚を強めると、安子様に向かい、声を荒げてこう申し上げました。
「安子よ、私はこの寺子屋の、名も無い祠の主である。
私はこの一年、そなたの来し方を見守って来たが、そなたは今ここで何をして居る」
安子様は驚いて、井戸の脇に有る名も無い祠の方をご覧になられると、震える声でこのようにお答えになられました。
「祠の主様、どうかお許し下さい。私など、生きて居たとて詮無い身。私を黙って彼岸へ行かせていただく訳には参りませんでしょうか?」
安子様は私が思っていたよりもずっと、意志の固い眼差しでこの様にお訴えになられましたので、私は更に風を強め声を荒げ、こう申し上げました。
「ではそなたは、この赤子をどうするおつもりか」
安子様は一瞬、はっと怯まれたようなご様子でしたが、何かの物の怪にでも取り憑かれていらっしゃるのか、この時はもう、人とも思われぬほど強い邪悪な眼差しで、こちらの祠の方を睨みつけるだけに御座いました。
私は、これではいけない、このままでは安子様がこの怪しい物の怪に攫われておしまいになると思い、遂にこれ以上無い強い口調で、安子様に言葉の礫を投げ付けたので御座います。
「愚か者!
そなたがそのように御自分のお命を粗末にするのであれば、私が、その赤子を攫って行きますよ。それでよろしいのか」
<物の怪>
私は、安子様に取り憑くこの強い物の怪に対抗する為、渾身の力を集めて雷鳴を呼び、激しい稲妻と共に、近くの欅の巨樹の上に落としたので御座います。
青白い稲妻の光が、巨樹の高い枝の一つを勢い良く切り裂くと、先程まで井戸の縁に止まり翅を休めて居た、黒地に瑠璃色の青条揚羽蝶がそれに驚いて、ひらりと何処かへ飛び去りました。
少し有って大きな雷鳴が轟き渡ると、腰掛の上にいらっしゃった赤子の宗次郎様が、その天を揺るがす雷鳴にも負けぬほど、耳をつん裂く様な大声で、力強くお泣きになられました。
その時に御座います。
正体の分からぬ強い物の怪に取り憑かれていらっしゃった安子様は、はっと我に帰られ、全身のお力が抜けられたのか、井戸の縁を強く掴んでいらっしゃった御手がだらりと外れ、膝からその場に崩れ落ちたので御座います。
「嗚呼、私は今、一体何をしようとして居たのだ……?
……はっ、宗次郎、宗次郎は?」
安子様は我が子の名を叫びながら、這う様にして近くの腰掛に辿り着くと、大きなお声で泣いていらっしゃる、まだ四月の小さな宗次郎様を、その腕に強く掻き抱いたので御座います。
<提灯>
日がとっぷりと暮れ、風雨も幾分か落ち着いて参りました。安子様は人気の無い寺子屋の腰掛にお掛けになり、宗次郎様に乳を与えていらっしゃいました。
つい先程まで、命の灯火がこと切れそうになって居られた安子様でいらっしゃいましたが、御自分の乳首から伝わって来る、赤子の逞しい生命の力をその肩にお感じになられると、乳を飲み込む度に軽く揺れる宗次郎様の小さな頭を、心の底から愛おしいと感じられたので御座います。
安子様は衣の胸元をお整えになり、宗次郎様をあらためて御膝の上にお乗せになられると、すっかり冷たくなってしまった御自分の掌に、赤子の小さな生命の温かさと、確かさをお感じになられたのでした。
その時、安子様がふと目線をお上げになられると、遠くから三つの提灯の明かりが、ゆっくりとこちらに近づいて来るのにお気付きになられたので御座います。
「あ、おかあたま! おかあたまだ!」
花子様が提灯をかざして、井戸の脇の腰掛の所にいらっしゃる安子様を見かけて思わず駆け出そうとされました。
「あ、花子様、転んではいけませんよ」
本日、安子様の御吟味方(選出委員)の御訪問のお勤めの前に、花子様を預かって下さった初島様が、砂利道で躓きそうになった花子様の肩をお支えになられました。
「お母様、お帰りが遅くていらっしゃるから、もしやと思ってここへ来て見たんだ。良かったあ、見つかって」
太郎君は心配そうな御表情で、提灯を安子様の方へ向け、お顔をお確かめになりました。
「あれ、お母様? 泣いていらっしゃったのですか?」
太郎君が安子様の頬に残った涙の跡にお気付きになられ、こうお尋ねになりました。
「太郎、何でも有りません。さあ、帰りましょうか」
安子様は御自分の膝に付いた土埃を払うと、宗次郎様をおぶ紐でお背中に括られたので御座います。
太郎君と花子様、初島様、そして宗次郎様をおぶわれた安子様の影が、暖かい三つの提灯の灯りと共に山門に消えて行きました。
それをそっと見送ると、私もほっとして、棲家の祠に戻ることに致しました。
さて、これまで何百年もの間ずっとそうして来た様に、私はこれからも、この寺子屋の隅の無花果の木の下の名も無い祠にて、安子様のように身を尽くしても報われず、それでも懸命に生きるお母御達を、見守っては語ってゆくことに致しましょう。
まず、お母御達が救われなければ、お子達もまた、救われる事は無いので御座いますから。
<完>
※この物語はフィクションです。

