大奥(PTA) 第四十二話 【第九章 訪問】
【第九章 訪問】
<蜜柑>
染子様は乾いた手拭いで、その齢九つぐらいの少年のお体を優しくお拭きになられると、寒くないよう綿入れ半纏に包んで御自分のお背中におぶわれ、縁側の次の間に敷いてあったお布団に、静かにその子をお寝かせになりました。
染子様は再びお庭の盥と筵の所に戻られると、
「さあ、お次はお義父様の番ね」
そう仰ると、縁側に腰掛けていらっしゃる、齢七十位の、歯ももう殆どないご老人の方に向かってお声を掛けられました。
ご老人は、小柄な染子様の倍くらいの目方がお有りになるようですが、足が御不自由なのか、ご自分でお立ちになる事が出来ず、染子様が肩に担いでよいしょ、と筵の上にお下ろしになられました。
それをご覧になった安子様は思わず、
「あの……、お手伝いしましょうか?」
と声をお掛けになりましたが、
「あら大丈夫、大丈夫。いつもやって居る事ですから慣れて居るのよ。それにあなた、お背中に赤子様がおいでになるじゃないの」
染子様は明るくこう仰ると、慣れた手付きでてきぱきと、湯の入った盥の中で布巾を絞られ、ご主人のお父上で有られると言うその大柄なご老人のお身体をお拭きになられました。
「いつも、こうしてお一人でお二人を見ていらっしゃるのですか?」
安子様がこうお尋ねになると、染子様はご老人をお拭きになる御手は止めずに、
「ええ、まあね。主人は表(会社)が忙しいし、うちにはお女中を雇うお金も無いから。上のお兄ちゃんは生まれた時から心の蔵が悪くて、本当はね、七つまでも生きられ無いだろう、ってお匙(医者)には言われて居たのだけれど、有難い事に、この年まで長らえてくれて」
と、最後の方は母屋で寝ておられる少年には聞えぬように、小声でお答えになられました。
この様な染子様のご様子をご覧になられた安子様は、ああ、染子様はこの様に一人手(ワンオペ)にて、老いた舅様のお世話と、お身体のご不自由な上のお子と、まだ稚い七つの下のお子の面倒を日々ご覧になりながらお暮らしでいらっしゃるのだ、なんと御苦労な事で有りましょうか。私どもはこれ程までに大変なお方に、望まぬ本年度の御組取締(クラス委員)のお役を押し付けてしまって居たのかと思うと、安子様は御心苦しさで胸が一杯にならました。
いくら窺書(アンケート)で一番に御推薦が集まったお方だからと言って、これにも増して重きお勤めと伺って居る来年度の大奥(PTA)取締方(本部役員)をこのお方にお願いする事など出来るものであろうか、その様に逡巡なされたので御座います。
「さあて、次はお背中ね。お義父様、ちょっとお体を起こしますよ」
染子様は、その様に舅様に仰り、舅様のお体の角度を変えられ、盥に入って居る温い湯に手拭いを浸けて再び絞り直し、老いた舅様の青白く痣の多いお背中を拭き始められますと、
「ああそうそう、牧野様の本日の御用の向きを伺って居りませんでしたね」
とこのように、明るく屈託のない笑顔で安子様に仰ったので御座います。
安子様は思わず、
「え、ああ、その事なら何でも有りません。ちょっと、近くまで来たものですから」
と早口で口走ってしまうと、御手に握りしめていらっしゃった御住所録を、衣の袖の中に、くしゃくしゃのまま放り込まれました。
「ああ、そう? そうだ、せっかくお見えになったんだから、蜜柑を持ってお行きなさいな。うちのこの木、成り過ぎてしまって、放っておくと実が落ちてしまうの」
染子様はそう仰り、乾いた手拭いであらかた拭き終わった舅様に、暖かい綿入れ半纏を羽織らせますと、お庭の蜜柑の木の方に駆け寄って、木の低い所に実って居る、香りの良い艶々とした甘そうな蜜柑を三つほどもぎ取ると、安子様の衣の袖の中にお入れになりました。
「もっと持って行って頂きたいけれど、赤子様も居たら重くて難儀だものね。またいつでも貰いに来て頂戴ね」
染子様の笑顔と優しさに、安子様はそれ以上何も言えず、とぼとぼと染子様の屋敷の門をくぐられました。
御心優しい安子様にはどうしたって、あの様に色々な事をお一人で抱え込んで、それでも健気に笑顔で過ごしていらっしゃる染子様に、来年度の大奥(PTA)取締方(本部役員)をお願いし、これ以上の御負担を掛けることなど出来無かったので御座います。
<御名簿順>
しかしまた何故、染子様の様な御看病、御介護、御育児を一人手(ワンオペ)にて担っていらっしゃる大変なお方に限って、窺書(アンケート)の御推薦に一番多くの票をお集めになったのであろう、安子様は、心底疑問に思われました。
お気持ちが塞ぎ込んで伏し目がちになった安子様が、ふと視線をお上げになったその時、染子様の御屋敷の御表札の文字が、目に飛び込んで来たので御座います。
「井伊様……。あ! いろはの、い」
嗚呼そうか、いつだったかおりんさんが仰って居た、いろは順御名簿で、一番上に有る方に御推薦が集まるとは、この事であったか。それで井伊様に……。安子様は愕然とされました。
ただ、安子様は御吟味方(選出委員会)のお役付きで有る故、最低でもお一人は必ず、御自分の伝手でお役を決めなくてはならないと言うお割り当て(ノルマ)を背負い、それもこの分だと到底果たせそうに無く、その上、御推薦が一番多かったお方と、お話しすら出来なかったともなると、次の御会合で御吟味方(選出委員会)の御三役の方々に、どのように顔向けしたら良いので御座いましょうか、と途方に暮れてしまったので御座います。
<八方塞がり>
辺りはいつの間にか夕闇に包まれ、先程までほんの少し晴れ間が見えて居た空には、再び黒い雨雲が満ち、雲間からは冷たい雨粒が、小さい宗次郎様をお背中におぶわれた安子様の肩に、ぽとぽとと落ちて参りました。
本日の御吟味方(選出委員会)の御訪問のお勤めは、ご心労が増されただけでこれと言って何の成果もなく、そもそも三番目のお子様のお産よりこの方、ずっと気鬱気味な御心持ちが続いていらした安子様は、その時はもう疲れ果てて放心状態となり、只々とぼとぼと、小川の脇を轍に沿って歩いておられました。
小川は鈍色の流れでどんどん水嵩が増し、朽葉色の木々が川面に重くのしかかる様に枝を這わせており、それをぼんやり眺めていらした安子様は、夕闇の中、その枝々がまるで手の様に御自分を誘い、うっかりすると川の中に引き摺り込まれて行きそうな、足元の覚束なさを感じておりました。
ああ、もういっその事、私自身が来年度の大奥(PTA)取締方(本部役員)に名乗り出てしまおうか。それならば自分の伝手で必ずお一人、と言う御吟味方(選出委員)お役付きのお割り当て(ノルマ)も果たす事が叶いましょう。安子様はぼんやりした脳裏で、思いもかけずこの様な弱気な事をお考えになりました。
いいえ、ただでさえ毎日朝から気分が重く、不吉な念慮と共に目覚め、体も棒の様で思う様には動かない気鬱な状態で、その上乳飲み子と数え四つ(3歳)と七つの、三人のお子達の面倒を見ながら、夫は育児への理解が無く、ご協力を仰ぐ事も難しいと言う状況の下、大奥(PTA)取締方(本部役員)などと言う重きお勤めを、一年間もの長きに渡り、今の私が全う出来るものとは到底思えない、安子様はそう思われ、もう八方塞がりのご状況になられておりました。
安子様は身も世も無いご様子で、この冷たい雨の中、宗次郎様を背中におぶって、ただ途方に暮れながら歩いて居られると、気が付けば川沿いの丘の上に有る寺子屋の門前に辿り着かれていらっしゃいました。
夕闇に包まれ、子供らもお師様(教師)らも帰った後の人気のない寺子屋の参道の脇には、安子様が夏に清水を頂いた井戸が有り、その少し先に有る冬枯れの無花果の木の下には、寺子屋に来る度に安子様が手を合わせていらっしゃった、名も無い祠が御座いました。
心身共に疲労の限界に達し、意識が遠のいて行く様なお心持ちの中、安子様は背中におぶった次男の宗次郎様が、手足をばたつかせてむずかって居る事にお気付きになりました。
「宗次郎? お乳かい? 少しお待ちなさいね」
安子様は井戸の脇に腰掛が有るのにお気付きになられますと、張り詰めて居た全身の緊張の糸が切れて、崩れる様にその腰掛に腰を落とされました。
産後のお鬱の御影響でしょうか。安子様の目からは、この時どう言う訳だか滂沱の涙が溢れ出し、いつの間にか、泣いている赤子の宗次郎様と一緒になってお泣きになって居る様な有り様で御座いました。
おいたわしい安子様は、もうお体のどこにも残って居ない力を振り絞って、肩からおぶ紐を外して、乳をやろうと一旦、宗次郎様を腰掛の上に降ろされたので御座います。
<井戸>
その時に御座います。季節外れの一羽の青条揚羽がひらひらと飛んで来て、安子様の目の前の井戸の縁に止まりましたのは。
天鵞絨の様に黒く光る地の色の翅の中央に、透明感のある瑠璃色の紋様を乗せた、この世の物とは思えぬ程美しい一羽の蝶が井戸の縁で翅を休める姿を、安子様は虚無の眼差しのまま、視界の隅にお見つけになられました。
魔が刺す、と言うのは、正にこう言う事を申すので御座いましょうか。安子様は宗次郎様を腰掛に寝かせたまま、まるで何かに吸い寄せられる様に、その井戸の方に近づいて行かれたので御座います。
安子様は、その底知れぬ暗く古い井戸の中を、ただぼんやりと眺めていらっしゃいました。
ああ、もういっそ、この井戸の中に落ちたなら、私は楽になれるのでは無いか。
その様な恐ろしい囁きが、安子様のお心をかすめて行きました。
子供たちの事は……。恐らく牧野のお家の事しか頭に無いお義母様が、早々に夫に後添いを娶り、私の事など、皆すぐに忘れておしまいになるでしょう。
それよりも何よりも、私は今すぐに彼岸へ行って、一刻も早く楽になりたい。
暗闇が四方を覆い、それよりほかの事など、とてもお考えになる力など残されては居ない安子様は、只々見えない何かに導かれる様に、その井戸の縁に御手をお掛けになったので御座います。
次章に続く

