大奥(PTA) 第二十三話 【第五章 目安箱】
【第五章 目安箱】
<おぶ紐>
水無月(6月)の末に、花子様が青梅を誤食なさった一件から、ご夫君の御母君の牧野の奥方様と御女中の初島様との間の誤解も解け、お二人の仲が以前通りに戻られたと聞いて、ひとまずはほっとした安子様で御座いました。
それから二月余り経ちまして季節は長月(9月)の初旬となっておりました。葉月(8月)の寺子屋の長いお休みが終わり、手の掛かる年頃の太郎君が再び寺子屋に通われる様になり、送り出した後はほんのしばしほっと息をつけるものの、お小さい数え三つ(2歳)の花子様からはまだまだ片時も目が離せず、割烹着姿で忙しく家事をなさる間も、安子様は手ばかりでは無く気働きも、常に怠る訳には参りません。
近頃は、花子様の繦が外れるようお稽古をなさったり、女の子ですからお喋りもかなり達者となり、あれはどこ? これはなあに? と常々話しかける姿も愛らしいものに御座いました。
花子様が、青い雁金草の御花を摘もうと御庭に下りて行こうとなさいましたので、安子様は、側から見ても少し膨らみが分かるくらいになっておりました八月のお腹をお手で守られながら縁側までいらっしゃり、ゆっくり腰をお下ろしになりました。
普段は家事にお忙しいお母様が、御自分の側にお掛けになって下さった事が嬉しく、摘んだ雁金草を安子様に手渡すと、花子様は安子様のお腹にそっと触れ、
「あ、おかあさま、少し動きましたよ」
などと仰って、妹か弟が産まれて来る日を、それはそれは楽しみにしていらっしゃるご様子でした。
安子様は花子様から雁金草の小さな青い花を受け取ると、
「可愛らしいお花ね。でもちょっと面白い香りがするわねえ」
などと他愛ないお話をして、花子様と笑い合っておりました。
「あ、いけない。もうお天道様がこんなに高く上がって……。本日は九ツ半(午後1時)から、御吟味方の御集まりが御座いますのに」
安子様は朝の残り物で簡単に昼食をお済ませになられると、花子様を着替えさせ、御自分も割烹着を御脱ぎになり、普段使いの鳶八丈の単衣に着替えた後、ご自宅を出立なさろうと、花子様の為のおぶ紐を手に取り解き始めますと、
「花ちゃんはもうお歩きできるもん!」
と、花子様が梃子でも動かぬ調子でおぶ紐をお嫌がりになりましたので、安子様は観念して花子様に草鞋をお履かせになり、その小さいお手を取って歩き出されたので御座います。
安子様と花子様は、曼珠沙華が真紅に咲き乱れる長月(9月)の川原を、花子様の歩く速さに合わせて、ゆるりゆるりと進んでいらっしゃいます。一面に曼珠沙華の蕊と花弁が手を広げている隙間に、猫じゃらしの様なふさふさした狗尾草が撓って揺れておりまして、お小さい花子様はそれがどうしても気になって気になって仕方がないご様子で、三歩歩いては房に触れ、二本歩いては房を手折りつつ、どうにかこうにか六丁(約600メートル)先の小高い丘の上にある寺子屋が見える所まで辿り着かれました。
<井戸>
長月(9月)はまだ秋と言うより残暑で、八月の身重の安子様にとりましては、息が上がるのは勿論のこと、暑さによるのぼせも有り、膨らみ始めたお腹が、重くおみ足にのし掛かって来るのでございます。
安子様は寺子屋の山門をくぐられると、左手に有る名もない祠にいつもの様に御手を合わせられました。ふう、と息を着き、手拭いで額の汗を拭いながら見上げますと、長月(9月)初めの抜けた様な青空に、高い入道雲、そこから覗く昼九ツ(正午)の太陽が、真上から照り付けておりました。
安子様は名もない祠の脇に、古い井戸が有るのを見つけられました。
「ああ、こんな所に井戸が。はあ、この暑さ。祠の主様、清水を一杯頂いても宜しいでしょうか?」
と、万事律儀なご性格の安子様は、もの言わぬ祠の主様に一言お断りをされてから、井戸に掛かっていた釣瓶を手に取り、深い井戸底に桶を落とされたので御座います。
安子様と花子様が釣瓶桶から清水を一杯頂いて一息ついておりますと、山門の方から、威勢の良いおなごのお声が聞こえて参りました。
「ああら? 柘榴が割れて来ているじゃあないか。一つ頂いて見ましょうかね?」
安子様が振り返ると、髪は簡単に上に一つに結い上げただけで、身なりは茶の木綿の唐桟縞の小袖を広めに衿を開けて着付け、帯は当世庶民の間で流行りの濃い色のものを尻の辺りまで広く巻き付け、着物の裾は端折って動き良い格好をした元気の良いおなごが、山門脇の柘榴の木の下まで駆け込んで参りました。
そのおなごは、懸命に手を伸ばして、六尺(約1.8メートル)程の高さにある、少し割れて赤い粒々が顔を出している柘榴の実を取ろうとしていらっしゃいます。
「嗚呼、手が届きそうで中々取れないもんだねえ。丁度いい、ちょっとそこのあんた、その井戸の裏手に落ちて居る木の枝を取って貰えないかい?」
初めて話すとは思えぬ親しさで、いきなり声を掛けられた安子様は、少し戸惑いながらもそのおなごの言う通り、落ちている三尺(約1メートル)程の長さの木の枝を拾って渡して差し上げてたので御座います。
「ああ、採れた、採れた。難儀したねえ」
先程の気風の良いおなごは、安子様に手渡された木の枝を使って、ようやっと御目当ての柘榴の実を落とす事がお出来になられたご様子でした。
「さあて、ちょいと頂いて見ましょうかね」
そのおなごが、柘榴の実の赤朽葉色の皮の間に少し空いた割れ目から覗く、深緋色の光る粒にかぶり付くと、
「わ、酸っぱ! これは食べられたものじゃあ無いねえ。この時期の柘榴は、まだ熟し切っちゃあ居ないんだ。まあ、持って帰って煮こみゃあ何とかなるか。一つ頂いて帰ろうかね」
そう仰って柘榴の実を、直接懐に入れて持ち帰ろうとなさいましたので、その様子をご覧になった安子様は、懐から懐紙を一枚取り出され、
「実の汁で衣が染まってしまいますわ。もし良かったらお使い下さい」
と仰って、そのおなごに手渡されました。
「あんた気が利くじゃあないか。有り難く使わせていただくよ。
おっといけない。あたいは野暮用があって急いで居るんだった」
そう仰って、そのおなごは慌ただしく何処かへ駆け出して行かれました。
安子様はそのおなごの勢いの良さに少し呆気に取られながらその背中を見送っていらっしゃいますと、山門の所に常磐井様の御姿をお見かけ致しました。笑顔で近づいていらっしゃる常磐井様に会釈致しますと、安子様はお尋ねになりました。
「今のお方、常磐井様はご存知でいらっしゃいますか?」

