『沈黙の向こう』【最終章:その声を、誰かが読んでいる(虹色創作部)】
ユウタは、原稿の束を胸の前に抱えたまま喫茶店を出た。夕暮れの風がシャツの裾を軽く揺らす。
街路樹の葉はところどころ色を失い、歩道に舞い落ちた葉が夕方の光に照らされていた。
空は澄みきった薄藍色で、その下に、焼け残った橙が静かににじんでいる。
季節は、確かに冬へ向かおうとしていた。しかし、その空にはなぜか一匹の赤とんぼがふらりと浮かんでいた。
「まだ、いたんだな」
小さくつぶやいて、ユウタは目を細める。遠くへ飛んでいくその赤とんぼの小さな翅音(はおと)が、どこかで誰かの声と重なるような気がした。
交差点の手前で足を止めたとき、ユウタはふと封筒の角に親指を添えた。
指先が、紙の温度を確かめるようにゆっくりと動く。
綾音の原稿を読み終えたとき、胸の奥に淡い余韻が残っていた。明確な感情というより、名前のつけようのない切なさ。
だけど、ユウタにはその感情こそが物語のいちばん深いところに触れた証のように思えていた。
静かに祈るような文章だった。
失ったものにも、また、これから言葉を与えられる感情にもやさしく輪郭を与えるような筆致。
それはまるで、秋の終わりに残された風の通り道にそっと灯りをともすような原稿だった。
ユウタは足を止めて、封筒の中の原稿をもう一度手に取った。
ページをめくる。そこには、最後の一文が綴られている。
Aはふと立ち止まり、空を見上げる。
赤とんぼが一匹、夕暮れの風に逆らうように飛んでいた。
誰かがその声を読んでくれる日が、きっと来る。
そう信じて、彼女はもう一度、歩き出す。
ユウタは静かにページを閉じた。
その声は、確かに自分の中で読まれていた。綾音が届けたかった何かが今、心の中でゆっくりと鳴り響いている。
風がまた少し強くなり、歩道の端を赤い葉がさらさらと滑っていく。空の中には、あの赤とんぼの姿はすでに見えなくなっていた。
しかしユウタには、見えないその翅音(はおと)がどこかに残っているような気がしてならなかった。
まるで、「その声を、誰かが読んでいる」と、小さく告げるように。
(完)
