『風の途中で』【第四章:浮かぶ声】
雨の夜。
夕方から降りだした雨は、夜になって本降りになった。
そして、しとしとと絶え間なく降り続く音が街の灯りをぼんやりとにじませていた。
綾音は部屋の明かりをつけず、カーテンも閉めずにいた。
窓の外ににじむ光が、ゆっくりと室内にしみ込んでくる。
水滴が伝うガラス越しに見える街の灯りは、まるで遠い銀河のようで、綾音は部屋の片隅で膝を抱えたまま、それをただ見つめていた。
そして、原稿を手渡した日のことを思い出していた。
数日前、原稿を手渡してからずっと彼女は「届く音」を待っていた。
期待していたわけではない。だけど、耳が静けさに敏感になっていた。
「まだ読んでいないのかもしれない」
「きっと、言葉を探してくれてるんだと思う」
そんなふうに、理由をつけるたび、気持ちは少しだけ宙に浮いた。
テーブルの上には、書きかけの原稿と冷めきった白湯。
夜は音もなく流れていき、言葉のない時間だけが部屋を満たしていた。
ぼく、昔きみに飼われていたんだよ
あれは、自分が書いた物語の中の幽霊の台詞。
でも、あの声は自分の記憶のどこか深い場所からやってきたような気がするのだ。
渡すとき、あれほど迷ったのに……。
それでも彼の手が、あのとき確かに受け取ってくれた。
「もちろん。しっかり読ませていただきます」
彼からのその言葉だけで、少しずつ心が浮かび上がってきたような気がしていた。
「声って、不思議」
ぽつりと漏らした言葉が、自分自身に届いてくる。
あの小説は、過去の自分に向けて書いたものだったのかもしれない。
誰かに届かなくてもいい、とも思っていた。
しかし、ほんとはどこかで誰かに届いて欲しいとも思っていた。
そのとき……。
机の上に置きっぱなしのノートパソコン画面が光り、メールの着信を知らせる通知が表示されていた。
綾音はすぐには立ち上がれなかった。
ただ、胸の奥が少しだけ震えていた。
「どうか、ユウタさんからのメールでありますように……」
綾音は祈りにも似た気持ちでパソコンの前に歩み寄った。
こんなふうに、誰かからの言葉を待つのはいつぶりだろう。
答えのないまま置き去りにしてきた気持ちが、雨に洗われるように静かに浮かび上がってきた。
画面には「差出人:山口悠汰」と表示されていた。
その名前を見たとき、綾音の中で何かがふわりと解けた。
綾音は、たとえその内容が悪いものであったとしても、ユウタから返信が届いたことだけでもじゅうぶんだと思っていた。
(つづく)
