『浮かぶひかり』【第二章:忘れていた浜辺】
誰かの記憶をたどっているような、そんな午後だった。
日差しは強かったが、もうすぐ秋を迎えるのだろう。風は意外と涼しく、潮の匂いが微かに混じっていた。
小さな湾の奥、岩場に囲まれた静かな浜辺。
この場所のことを、有美はずっと忘れていた。
しかし、道の角を曲がった瞬間に目の前の風景が胸の奥に流れ込んできたことですぐにわかった。
たしかにわたしは、ここで遊んだことがある。
誰に手を引かれて来たのかも思い出せない。
それでも、少しだけ冷たい海水の感触、足の裏に当たる丸い小石の感覚、遠くで誰かが呼ぶ声、さらに自分の笑い声はそこにあった。
波打ち際に腰を下ろし、靴を脱いで裸足になった。
水に足をひたすと、少し冷たくて気持ちいい。
濡れた砂のうえに手をついて、そっと目を閉じた。
光の中に揺れる、かつての自分の姿が浮かんでくる。
ロングヘアの自分。よく母に三つ編みにしてもらっていたんだっけ。
あの頃は、自分がどこに向かっているのかなんて、何も考えてなかった。
そのようなことを考えているうちに、東京でのある朝のことを思い出した。
窓の外は春の雨。
枕元には、読みかけの小説と、一通のメールが届いたスマホ。
前日の夜に終わった恋と、納得できなかった仕事の評価。
「もういいや」と呟いて、髪を束ねていたゴムを引き抜いた。
髪を切りたくなったのは、その日の朝のことだった。
何かを終わらせたくて、何かを変えたくて。
それがたとえ、何にも変わらないとしても。
あのとき、ばっさりと髪の毛を切ってもらった後に美容室の鏡に映った自分の顔は、思ったよりもすっきりしていた。
髪の毛を切ることで、私は少し前を向けることができた。
そう思えたのは、あの日だけだったのかもしれないけれど。
潮風に髪がなびく。短くなった今の髪は、浜辺の風の中でも軽やかだった。
光が水面に反射してきらめく。そのまぶしさに目を細めながら、有美は自分の指先が少し震えていることに気づいた。
ユウタさん。
彼の名前を思い出した瞬間、心の奥から小さく波紋が広がった。
あの人の目の奥に、「過去を抱えている人」の静けさがあった。
たった一度話しただけなのに、それがなぜかわかった。
もしかしたら、有美が見たのは彼の目ではなく、自分自身の記憶の奥に残っていた「何か」だったのかもしれない。
空にはうっすらと雲が広がり、陽の光がやわらいでいく。
さざ波の音だけが、穏やかに続いていた。
(つづく)
※サムネイル画像は「虹色創作部」さんから使用させていただきました。
