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映画「顔を捨てた男」A24のルッキズム


A24がただのルッキズム映画で終わらせてくれるわけがない(;´・ω・)


神経線維腫症を患い、顔にひどい障害を抱える俳優志望のエドワード(セバスチャン・スタン)。
彼の隣の部屋に、劇作家志望のイングリッド(レナーテ・ラインスヴェ)が引っ越してくる。
明るくあっけらかんとしたイングリッドのことが好きになるエドワードだが、自分の容貌に自信もなく自尊心も低いため、彼女のことを眺めるばかり、、、だったが、外見を画期的に変える新薬の治験に参加し、イケメンに変化する。
過去の自分を捨て、新しい人生を歩みだしたエドワード。

だが、昔の自分の容貌そっくりなのに、ポジティブでカリスマ性溢れるオズワルド(アダム・ピアソン)に出会うーー


この新薬は、あくまで“顔を変える薬”


神経線維腫症そのものを治すわけではない。
エドワードは、「病気を克服した」というわけではなく、顔を捨てて、過去の自分を死んだことにして、“ガイ”という新しい人間に生まれ変わる。

それはただの整形ではなく、過去の痛みやアイデンティティまでも封印して、自分自身を塗り替える行為だった。

一方で、オズワルドは同じ症状を持ちながらも、まるで気にする様子もなく、堂々と生きている。
人前に出て、陽キャで、成功もしていて、まるでもう一人の自分が別ルートの人生で大当たりしている。

しかもエドワードをモデルにしてイングリッドが書いた演劇で、オズワルドがその役を「本物」として演じてしまう。
エドワードがいなくなった今、リアリティのある彼の方がいいよねと、お払い箱になる元エドワードのガイ。

自分をもとに書かれた物語なのに、他者のほうが合っていると言われるということ。
それは自分という存在の置き換えであり、上書きでもある。
でも、エドワードも自分で自分を捨てたのに。

自分じゃないやつが、自分のことを知ったような顔して色々口を出す気持ち悪さ。
A24はやっぱり嫌らしい(;´・ω・)


儀礼的無関心


名作『エレファント・マン』にひっかけて『ディファレント・マン』という原題なのかもしれないが、今作の中でエドワードの容貌を露骨に悪く言ったり、虐げる者は登場しない。
少なくとも、エレファントマンの時代と違い、エドワードが出演した会社の研修ビデオの「容姿で差別するのはやめましょう!」程度のことは、現代人のOSにはすでに標準装備されている。


にもかかわらず、エドワードは常に世界から疎外されている感覚に囚われている。
その違和感の正体こそ、「儀礼的無関心」という現代的マナーの裏返しだ。

儀礼的無関心とは、アーヴィング・ゴッフマンが提唱した社会的な距離感の作法。
公共空間で他者と出会ったとき、「あなたを認識していますが、干渉はしませんよ」という合図として、あえて視線をそらす、話しかけない、過剰に反応しない・・・といった態度をとること。

現代社会において、障害や外見の差異に直面したとき、誰もが無意識のうちにこの「儀礼的無関心」を発動している。
差別的であることを避けるがゆえに、「あえて見ない」ことが「正しい態度」とされる。
だが、その空気がどこか過剰で、むしろ「腫れ物に触るような無関心」に感じられてしまうこともある。

エドワードが感じていた“視線”は、その「見ていないふり」の中に潜む微かな警戒心や戸惑い、不自然さだったのではないのだろうか。
電車で、通りで、レストランで・・・。
人々は彼を見ていないようで、見ている。
「無視する」という名のバイアスが、彼の孤独感と自己嫌悪をさらに深めていく。

つまり、もはや差別は「態度」の中にあるのではなく、「空気」の中に潜んでいる。
見られていない、気づかれていない、ということ自体が、かえって「他者扱い」の証明になる皮肉。
私たち観客は、その違和感を彼の視点を通じて体験させられる。

のちに、あの視線や反応の多くが、実はオズワルドとの人違いや誤解だった可能性も提示されるが、一度抱いた被差別感や恐怖心がそう簡単に拭い去れるわけではない。

この描写は、ただ「差別はやめよう」というだけの教訓ではなく、現代における「過剰な気遣い」と「見ないことによる暴力」を浮かび上がらせている。

誰かがあからさまに差別してきたわけじゃない。
でも、「見ていないふり」が、かえって「見てはいけないもの」扱いされているように感じる。(;´・ω・)

無関心という形の空気の圧力が、エドワードの性格を内側から削り、彼の臆病で陰キャに作り上げたようにも思う。



象徴的な天井


同じ容姿なのに陽キャなオズワルドは、何一つ物怖じせず、自分の欲しかったものを全てゲットしていく。
世間的にはイケメンになったはずのエドワードの根っこは、ずっと陰キャのまま。
まるで、美醜が反転した世界のブラックコメディみたいだが、彼の内側は何ひとつ変わっていない。

アパートの天井から水がポタポタと漏れているのに、文句すら言えず、ただ黙って見上げるだけだったエドワード。
あの天井の染みは、彼の中にずっと溜まっていた劣等感であり、自尊心の低さであり、暗い心そのものだったと思う。

新薬で顔が変わり生まれ変わったような気がしても、天井の修理と同じ、表面修復でしかない。
そして最終的に暴走して舞台を破壊し、大道具の天井にまで再び大きな穴を開けてしまう。
かつての自分を覆い隠していた上っ面が剥がれ落ちるように、自らその舞台をぶち壊し大怪我する。


ボロは着てても心は錦


仮にオズワルドの容姿が普通だったら、様々な言動をどう思うだろう。
ラストで、わかりやすくカルト宗教にハマり、セックス&ドラッグ三昧だー!と「嫌な奴」の解像度をあげてくる。
どう?嫌いになれた?と作品は問う。
(スラスラ和食メニューを決めることも、海外的には鼻もちならない奴扱いなのかしらと思う( ´艸`)獺祭!)

彼が醜い見た目だからと、作中で多少の傲慢さや我儘を許してなかったか。
「醜い人は心がきれい」という逆差別の押し付け。

作中『美女と野獣』や『シラノ・ド・ベルジュラック』に触れていたのも、まさにそこを意識してのことだろう。


オズワルド役のアダム・ピアソンは実際に神経線維腫症を患い、障害者の権利向上の活動をしていて、BBCでもドキュメンタリーが作られた人物。

その彼に「善人ではない役」を演じさせることも、今作が挑戦したことだったと思う。



・・・なんだけどね


エドワード(容姿セバスタ)も、転生してイケイケ営業マンとして地位も財産も手に入れたし、見た目も完璧なんだから、イングリッドばかり追っていないで、もっといい女いっぱい捕まえられるんじゃない?って思えるのが困った所。
それだけ、過去の執着が捨てられない、それまでのエドワードのアイデンティティは顔しかなかった、ってことなのは理解はするけど・・・。
「セバスチャン・スタンになったのに!バッキー!!」という、私の中にある俗な感情が邪魔をする(;'∀')

また、オズワルドも投資で大成功して大金持ちだからこそ、あの性格になり、周りがチヤホヤしているんだろうと思ってしまう。
顔に拘らず、仕事もせず、好きな趣味だけをして生きている。
バーで寄ってくる女がいたから人気者かと思いきや、カラオケを始めたオズワルドに全く興味を示していなかったようにも見えたのが、なんだかグロテスクなのね。
彼女との軽快なやり取りすらも、障害者とフランクに付き合うのいう現代人が身に着けるべき、薄ら寒いマナーとしてやっていたようにも見えてしまう。

オズワルドがあそこまで陽キャな人格を作り上げたことは心の強さかもしれないが、実際はお金目当てで群がる人間ばかり見てて、嫌な奴になっていたのかもしれないと、すこし意地悪な目で見えてくる。

イングリッドは性癖なのか、部屋の写真が物語るように、醜悪な容姿に惹かれるタイプ。

オズワルドは趣味を転々として、できるだけ沢山の人に会い、初めて自分を心から愛してくれるイングリッドをみつけたからこそ、絶対に譲れなかったとも思える。

人からの贈り物(赤いタイプライター)を平気であげちゃえる2人は、元からお似合いなのかもしれない。

だからこそ、ラストの「君はなにも変わらないね」は、ポジにもネガにも感じてしまった。:(´◦ω◦`):

そこまで計算して作られていると思えば、完全に手のひらで踊らされている気がする。
そんな自分の中にある浅ましさ、嫉妬、こじらせ、邪な気持ちを見透かされて居心地が悪い。(/ω\)


・・・そんな映画だったと思うけど、なかなか掴みにくいし、妄想しすぎかしらー?(;´・ω・)

映画として、前半は冗長で、後半は唐突にガチャガチャするので、あまりうまくないように思う。
欲張り満腹セットでなんだか勿体ない。
鑑賞者にゆだねる部分が大きいのは、断言を避けて日和ったようにも見えてしまうのね。


ニキビが~と言い出した時、「アルジャーノンに花束を」方式で、また顔が崩壊を始めるのかと身構えたのに。
再び医者の元を訪れても、患者が死亡した新薬は開発中止でもう戻せません。
もう無理デース!という着地にならないのは意外だった。
心の喪黒福造を試された作品デシタ。
🫵( 'ω' ) ドーン!







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