家事が社会をつくるのなら
阿古 真理『家事は大変って気づきましたか?』を読んだ。
本書は作家・生活史研究家である著者が、『HUFFPOST』や『FRaU』に寄稿したものに書き下ろしを加えたものだ。内容は家事とは何か、家事とジェンダー、家事の変遷、コロナ禍での家事などを含めつつ、最後には資本主義にまで言及している。
そもそも「家事」とは、どういった事柄を指すのだろう?
その答えは概ね同じかもしれないけれど、範囲や程度に関しては大きな差異が出るように思う。
例えば本書で多くページが取られている「料理」について言えば、「買い物」「調理」「片付け」の3つに分けられ、私は始めの「買い物」から情けない声を出しそうになった。
なぜなら私は朝食をパンまたはシリアルの2種類にほぼ限定し、もはやメニューを考えることさえ放棄しているからだ。メニューを限定すれば買うものも多少なり固定されるため、店頭で「何を買うか」と悩まずに済む。
本書で書かれているからこそ意識したのが、この「何を買うか」という問題だ。
家族の人数、食の好み、家にある食材の在庫、特売品の有無、予算、時間など、書き出してみるとこれだけで目が回る。本作では繰り返し買い物を「高度な技能を要する」としているけれど、おそらく誰も否定しないだろう。
選択の連続を経て食材を手に入れたものの、それを栄養バランスに配慮しつつ、見た目にも気を遣い、なおかつ毎食違うメニューを用意するとなれば、もはや職人芸である。それを世の多くの人が日々こなしているなら、惜しみない拍手を送るべきなのかもしれない。
ただ、そうなっていないのは子供時代の私を含め、それらの努力が「見えない」からだ。
見えないものは存在しないのと同じになってしまうため、周囲の人が気づかなければ、それが当たり前のものとして捉えられる。
かつて高度経済成長の時代、夫と妻で性別役割分業がなされ、仕事しかしてこなかった夫が妻との離婚または死別により、何もできないと気づく話がある。
近年の「女性=家事する人」を固定化させるようなCM炎上を含め、何もしない夫のダメさは耳目を集めやすい。ただ、本書では夫は夫で仕事に全てを捧げることが求められたため、彼らもまた時代の犠牲者なのだと説く。
私の父親も仕事人間であり、家族を飢えさせることはなかったが、退職した今現在は抜け殻のような日々を送っている。そして家事をする時間が大量にあっても、決して積極的に動こうとはしない。
本書では家の掃除や整頓についても触れており、こちらは体を維持するための料理と違い、とくに個人での意識に差が出やすい。
前に職場で「これくらいでいいだろう」という整頓をしたら、きれい好きの人からキレ気味にダメ出しを受けたことがある。床が見えていないとダメ、動ければ問題なし、といった許容範囲の差は埋めがたく、家庭においてもケンカの種になる。
人生を共に暮らすなら歩み寄るしかないけれど、そうした意識の擦り合わせを考えただけで消耗する。私自身、両親との擦り合わせを放棄したことがあるので、根気と覚悟、ときには諦めも必要だと思う。
『介護未満の父に起きたこと』を刊行したジェーン・スーさんは以前、家事はシステムを作ることが大事、みたいなことを話していたような。
母親もしくは妻を「システム」とするなら地獄だけれど、家族それぞれが補いあうものになれば強固かつ柔軟、なにより人生を明るいものにできるはずだ。もちろん本書では家族の解散を否定しない。歩み寄ってもダメなら、強硬手段に出るしかないのだから。
本書の最後、資本主義に言及する章は刺激的であり、家事についての認識がよりいっそう新しくなった。
例えば斎藤 幸平『人新世の「資本論」』を引用する形で、「資本主義は、絶えず欠乏を生み出すシステムなので」、豊かになるのは、投資が資産価値を生む一握りの人々だけである、と書く。
前にどこかで「あらゆるものに価値を付けるのが資本主義」という言葉を見聞きした。その社会では給与の発生する労働が重視され、発生しない家事や生産性の低いケア労働は軽視されるという。
本書ではその言葉を証明するように、先進国と呼ばれる国々が辿った過去そして現在を紹介している。日本では訪問介護において、国からの介護報酬が引き下げられたことにより、多くの事業所が経営を圧迫され、廃業したという話も見聞きする。おちおち長生きもできないのだろうか。
これまた職場の話になるのだけれど、転勤が決まってすぐに辞めた人がいる。全国転勤を「可能」としなければ採用されない中で、自分の人生を選んだ彼らを負け組と嗤う人もいるけれど、私は彼らを尊敬している。
生きるためには働かねばならないが、それによって人生を消費して家庭を蔑ろにしなければいけないなら、社会にそもそもの問題があるはずだ。身近な家事が人生にも結び付くという気づきは、おおげさに言えば人生の転機になり得るだろう。
