なぜ、いま『国宝』なのか?俳優の肉体と伝統芸能が交差する「映画という覚悟」の裏側※ネタバレなし
2025年の邦画界において、映画『国宝』は間違いなく「事件」と言える存在だ。

単なる歌舞伎映画でも、文学作品の映像化でもない。
それは、“演じる”という行為の原点に肉迫する、剥き出しのドキュメントでもある。
この記事では、ネタバレを避けつつ、『国宝』という作品が、なぜここまで多くの人々の心を震わせたのか。
その「背景」「覚悟」「選択」の裏側を、5つの視点から読み解く。
1|“身体”という伝統への挑戦 -1年半の歌舞伎稽古-

©2025 映画『国宝』製作委員会
制作の肝となったのは、主演・吉沢亮と横浜流星の身体改造に等しい歌舞伎稽古。
特に吉沢は、女形の型(かた)に対する苦悶を隠さず語る。
「腰を落としたまま感情を乗せる。型に心を入れるまで、何度も壊されては再構築を繰り返した。」
この“壊す→積み直す”という作業こそ、伝統を演じる俳優の現在地を物語る。
李監督は語る:
「白粉を塗っていくことで、自分が“人間ではない何か”になるようだった」
(シネマトゥデイより)
この感覚は、『フラガール』における炭鉱の娘たちが踊り手へと変容するプロセスにも通じる。
化粧とは、職業としての演技”ではなく、“生き方としての変容”を象徴する装置だ。
2|メイクアップ=変容の儀式としての映画的装置

©2025 映画『国宝』製作委員会
『国宝』は、化粧の場面に異様なまでの美術的執着を見せる。
だが、それは美のためではない。むしろ、“自己が他者に変わる瞬間”を視覚化する装置としてある。
李相日監督はこう語る。
「白粉を塗る瞬間、人は“自分ではないもの”に変わる。
それを見せることで、観客は“演技とは何か”を知ることになる。」
出典:https://www.cinematoday.jp/news/N0149190
この“変容”こそが、映画『国宝』最大のテーマのひとつである。
監督のWHY:李監督自身が「役に取り憑かれる俳優」に魅せられてきたから
『フラガール』でもそうだったように、李監督は変身ではなく“変容”の瞬間にこだわる。
歌舞伎の化粧シーンは、本人曰く「魂がひとつ外に出て、新しいものが入ってくるようだった」と語るほど印象的だったという。
「顔に白粉を塗っていくことで、だんだん“人間ではない何か”になっていく。それが怖いくらい美しかった」
俊介が化粧を手伝うという原作にない演出は、まさに血と才能の継承、断絶、渇望を1カットに宿らせるための脚色だ。
3|観るではなく“感じる”カメラワークの革新

©2025 映画『国宝』製作委員会
一般的な舞台映画と異なり、『国宝』では観客席視点が極端に少ない。
代わりに多用されるのが、俳優の背後から舞台を捉えるショットだ。
これは、“観る側”ではなく、“演じる側”の孤独と緊張を、観客に体感させるための試みである。
さらにカメラは、「舞台の中の現実/現実の中の舞台/演技の中の内面」という三層構造を縦横無尽に横断していく。
監督のWHY:李監督が“演じる人間の孤独”を体験者として捉えようとしたから
『怒り』でも群像劇を多層構造で組み立てた李監督は、今回、舞台=演者の孤独な戦場として見せた。
通常の舞台映画ではなく、「演者が何を見て、何を聞いているのか」を観客に追体験させたかった。
「舞台は華やかに見えるが、裏側はいつも“死”と隣り合わせ。そこにしか映らない真実がある」
背中からのショットが多いのも、“演技する人間”を外側から覗くことを避けた演出哲学によるものだ。
4|演目に込めた心理的戦略性

©2025 映画『国宝』製作委員会
本作が取り上げるのは『道成寺』『曽根崎心中』『鷺娘』という3演目。
選定は、人物の内面変化と物語構造を“演目に語らせる”ための構造的仕掛けである。
『道成寺』は原点——喜久雄と俊介の“出会いと同期”。
『曽根崎心中』は葛藤——愛、嫉妬、役者の成長とズレ。
『鷺娘』は到達——舞踊の美と狂気を象徴する神話的瞬間。
演目は単なる選択ではなく、人間と芸の関係性を語る“もう一つの脚本”なのだ。
監督のWHY:“物語”よりも“感情”が先にある作品だから
監督は当初から、「物語で泣かせる映画にはしたくなかった」と明言している。
だからこそ、『道成寺』『曽根崎心中』『鷺娘』という“感情の型”に満ちた演目を選び、そこに喜久雄と俊介の心を折り重ねた。
特に『鷺娘』は、田中泯による圧巻の舞で“人ならざるもの”への変貌を提示し、それが喜久雄の運命を決定づける。
「舞踊というより、“神事”を見ているようだった。その場に立つ俳優がどう揺れるか、それを観たかった」
5|“映画化できるわけがない”という常識を超える連携

©2025 映画『国宝』製作委員会
歌舞伎界の重鎮・中村鴈治郎が実際に指導に参加し、渡辺謙が“劇中演出家”としてだけでなく現場の指導者として俳優たちを鍛える構図。
そこには、“伝統を守る者”と“演じて繋ぐ者”の、現代的なバトンリレーがあった。
このプロジェクトは、伝統文化の映像化の限界に挑むという使命を、映画という形式で昇華しようとした稀有な例でもある。
監督のWHY:リアル以上の“虚”を撮るために、リアルを極める必要があったから
李監督は、これまで“現場”の説得力にこだわってきた作家だ。
今回の映画でも、現役の歌舞伎俳優や指導者との連携を徹底することで、映画という虚構の中にしか出せないリアルを引き寄せようとした。
「虚構を描くには、現実の重さに触れなければならない。それがリアルな“演技”を生む」
渡辺謙という“現実と虚構の橋渡し”ができる存在を起用したのも、監督の戦略的キャスティングだった。
なぜ、話題なのか? -“国宝”とは、演技そのもののこと-
この映画は、歌舞伎でも俳優映画でもない。
「演じるとは何か」「人間はどうして他者になれるのか」という、
きわめて根源的な問いに、観客自身が巻き込まれていく体験そのものだ。
だからこそ、話題なのだ。
SNSでの熱狂、舞台裏ドキュメンタリーの反響、劇場での嗚咽は、
すべてが一つの問いに集約される。
“私たちは誰かを演じていないと、生きていけないのか?”
李相日監督にとって『国宝』とは、
「人間が演じるということは、自己を削って誰かになる行為なのか?」という問いに
真正面から挑んだ作品である。
それは、演者にとっての“祈り”であり、観客にとっての“問われ直し”でもある。
「演じることは、人間であることをやめることかもしれない」
だからこそ、この映画は、多くの人にとって“わかる”のではなく、“刺さる”作品になっている。

参考・引用元
映画『国宝』公式サイト(https://kokuhou-movie.jp)
映画パンフレット(2025年公開)
吉田修一『国宝』(朝日新聞出版)
各種インタビュー記事(映画ナタリー、CINRA.NET、シネマトゥデイ ほか
