短編小説|痛みさえも愛おしい、思い出の欠片/シロクマ文芸部/詩のような物語
思い出のアルバムをひらくと、指先に紙のざらりとした感触が伝わる。
古い写真の角は少し丸くなり、色はすっかり薄れているのに、そこに写る笑顔だけは不思議と鮮やかだ。
ページをめくるたび、遠い日々の声や匂いが、今ここに流れ込んでくる。私はひとり机に座り、写真の中の世界へと吸い込まれていった。
夏の午後、祖父と並んで縁側で食べたスイカ。
真っ赤な果肉にかぶりついた瞬間、果汁があごを伝ってぽたぽたと落ちた。私が慌ててタオルで拭くと、祖父は腹の底から響くような笑い声を上げた。その笑いに釣られて、恥ずかしさよりも先に笑いが込みあげ、ふたりで縁側に転がるようにして笑った。
蝉しぐれと混ざり合ったその笑い声は、今も夏の記憶の中で最も鮮やかな音として残っている。
思い出すだけで胸の奥が熱くなり、もう会えないことが信じられなくなる。
冬の夜、母が作ってくれたシチュー。
受験勉強に追われ、問題集に埋もれるように机に伏していた私を、ふわりと漂う匂いが呼び戻した。
食卓に置かれた皿の前に座ると、母は何も言わずにただ笑っていた。スプーンを口に運ぶと、心細さで冷え切った胸に温かさが広がり、涙がこぼれそうになった。
あれはただの食事ではなく、「信じているよ」という母の祈りだったのだと、今になって思う。
夏祭りの帰り道、友達と食べた焼きそばのソースの匂いも忘れられない。
浴衣の裾を踏んで転びそうになり、ふたりで顔を見合わせて笑い転げた。提灯の赤い明かりが水面に映り、金魚すくいの袋をぶら下げた手が汗で滑りそうになった。
子どもから大人へ移ろう途中で感じた、不安と期待の入り混じるひととき。笑いながらも、心の奥で「この夏はもう戻らない」と予感していた。
アルバムを閉じても、声は残る。
「大丈夫だよ」――転んで泣いた私に、姉が耳元でささやいた言葉。
「おかえり」――夜遅く帰った玄関で、父が差し出した笑顔とともに響いた声。
「また明日」――夕暮れの校門で、友達と交わした約束。
短い言葉ほど深く残り、今も私の背中をそっと押している。
懐かしさに胸が温かくなると同時に、二度と同じ声を聞けないことに切なさが重なり、呼吸が浅くなる。けれどその痛みさえ、思い出を確かなものにしている気がする。
思い出の道を歩くと、過去と現在が重なる。
ランドセルを揺らして駆け上がった坂道。
初めて好きな人の名前を小さく呼んだ放課後。試験に落ちて夕焼けの下で泣いた夜。そこには確かに、かつての私がいた。
「よく頑張ったね」
いまの私は、その子に声をかけたくなる。あの日の悔しさも孤独も、すべてがいまの私を支えているのだと伝えたくなる。
思い出のなかで最も鮮やかなのは、人と笑い合った瞬間だ。孤独に震えた夜よりも、失敗に沈んだ朝よりも、その笑いのひとときが光の粒となってよみがえる。
光は言葉を持たず、ただ静かに瞬きながら、胸の奥に息づいている。
窓を開けると、朝の光が差し込んだ。
鳥の声が、今日という新しい記憶を刻もうと告げている。
私は深呼吸をして立ち上がる。
――そうして、明日もまた。
新しい「思い出」をつくるために。
シロクマ文芸部に参加させていただいています。
小牧部長さま、いつもありがとうございます!
今回のお題
「思い出の」から始まる文芸作品です
最後までお読みいただきありがとうございました。
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