見出し画像

【短編小説】さよなら、甘い牢獄/#一枚の写真から文芸賞

家の中は、いつも甘い香りで満たされていた。
焼き菓子のバター、紅茶の葉、そして母が焚くラベンダーの精油。

学校が終わると、私は急いで帰ってきて、母の用意したおやつを食べる。
湯気のたつ紅茶を両手で包めば、私の世界はひととき、満ち足りた。

けれど窓の外を見つめながら、時々思っていた。
──これがすべてなんだろうか、と。

風はやさしく木々を揺らし、小鳥たちは穏やかに鳴いている。
なのに、どこか遠くの音だけが、私の知らない方角へ、そっと呼びかけてくる気がした。

「ここが一番安全よ。外の世界なんて知らなくていいの。だって、私があなたを一番愛しているんだから」

母はそう言って、私を強く抱きしめた。
その腕は、私の背中に食い込むほど強く、かすかに震えていた。

あのときの母の瞳には、遠い記憶のような影があった。
小さく揺れるその影の中に、私は言葉にならない痛みを見た気がする。

母はいつも怯えていた。
「外には恐ろしいことがある」と繰り返し言い、カーテンを閉め、玄関の鍵をかけて、止まったままの銀色の腕時計を大切にしていた。

昔、何かあったのだろう。
事故か、失踪か、あるいは──誰にも言えなかった裏切りか。
けれど私は、聞かされないまま育った。

父の姿も知らない。写真すら見たことがない。
「父」という言葉は、いつしか本の中だけの存在になっていた。

学校と家。

私の世界は、それだけだった。

そんなある日。母が町へ買い物に出かけた午後。
私は窓辺でノートを開き、紅茶を飲んでいた。

コン、コン、コン。

玄関の扉が静かに叩かれた。
息を呑んで耳をすませる。
妙に落ち着いたリズムだった。

迷った末に扉を開けると、陽に焼けた旅人の女性が立っていた。
土埃のついた服、髪には乾いた風の匂い。
けれどその瞳は驚くほど澄んでいて、深く静かだった。
まるで、長い旅路の果てにたどり着いた泉のようだった。

「車が故障してしまってね。ロードサービスがくるまで、少し車を置かせてもらえないだろうか」

女性は額の汗をぬぐいながら笑った。

「それから、もしよかったら。何か、飲み物を飲ませてくれないか」

私は戸惑ったが、なぜかその人の声に、懐かしさを感じた。
気がついたら、うなずいていた。

家に人を入れるなんて、初めてだった。
けれど私は湯を沸かし、カップを選びながら、不思議なほど落ち着いていた。
背中に旅人の気配を感じながら、慣れた手つきで紅茶を淹れる。

いつもの香りのはずなのに、今日は少し苦く感じた。
それは私の心の奥底に潜んでいた、小さな反抗心の香りだったのかもしれない。

「ありがとう、生き返ったよ」

女性は紅茶を受け取り、ふうっと息を吐いた。
そのまま、窓の外をじっと見つめた。

しばらく沈黙が流れたあと、彼女はぽつりと言った。

「ここからの景色、きれいだね。緑が深くて、空が高い」

私は戸惑いながらも、つぶやくように言った。
「でも……母は、ここから離れてはいけないと言いました。
ここ以外は危ないから、って」

女性はそっとカップを置いた。
その音が、部屋の空気をふるわせた気がした。

「お母さんじゃなくて、あんた自身はどう思うの?」

私は息を呑んだ。

「ここにいると安心します。でも……時々、窓の向こうに行ってみたいって思うこともあって……。でも、それはきっと、母を悲しませてしまう気がします」

女性は、やわらかく笑った。

「大切な人を守りたい気持ちは、ときに怖さからくるんだ。
私も若い頃はそうだった。守ることが愛だと思ってた。
でも、本当は信じて送り出すことも、愛なんだよ」

その言葉が、胸の奥にすっと沈んでいった。
どこかで聞いたことがあるような、ないような。
まるで未来の自分が、今の私に向かって話しかけているような気がした。

「世の中には、怖いことも、もちろんある。でも」

彼女は空を見上げた。

「美しいものの方が、ずっと多い」

風が、窓から入り込み、カーテンを揺らした。
その風は、どこか遠くの草原から来たような気がした。

やがて女性は立ち上がった。

「ごちそうさま。助かったよ」

そう言って、ドアの向こうへ歩いていった。
その背中は、陽炎のように揺れていた。

私はもう一度、窓の外を見た。
何も変わっていないはずの景色が、今日はゆっくりと動いて見えた。
空の青さも、風の音も、少しだけ深くなっていた。

机の上の紅茶は、まだぬくもりを残している。
そのぬくもりを両手で包みながら、私は思った。

──この外には、私の知らない世界がある。
どんな匂いがして、どんな音がして、どんな人がいるんだろう。

こわい。
でも、少し楽しみだ。

私は、まだここにいる。
けれど、もう心は動き出している。

この小さな窓のそばで、私はきっと、少しずつ変わっていく。

ここは、もう牢獄じゃない。
いつか──ここを「ふるさと」と呼べるように。

私の目で世界を見て、
私の言葉でここを「好き」と言えるように。

私は、私をつくっていく。

気がつくと、この景色を、ノートに描きはじめていた。

(1995文字)


花澤薫様
素敵なお題をありがとうございます




#一枚の写真から文芸賞


いいなと思ったら応援しよう!

紫葉柚月(しば ゆづき) いただいたチップはクリエーターとしての活動費に使わせていただきます! よろしければ応援お願いします!