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短編小説|熱帯夜、エアコンは沈黙した/シロクマ文芸部/詩のような物語

熱帯夜。

その言葉を、今夜ほど恨めしく思ったことはなかった。

窓の外では、街灯に照らされたアスファルトが、まだ昼の熱を抱えたまま眠れずにいる。

たまに空気が動く。

けれどそれは風というより、誰かが遠くで「ぬるめのお湯」をこちらへ扇いでいるようなものだった。

部屋の中で、私はリモコンを握りしめていた。

テーブルには、さっき食べたアイスの空きカップが置かれている。
申し訳程度の涼しさの名残だった。

窓は開け放っている。
けれど、外もまたほとんど無風だった。

カーテンはぴくりとも動かず、ただ「こちらもお手上げです」という顔で、窓辺に垂れ下がっている。

祈るように。
願うように。
いや、ほとんど神事のように。

「お願い、起きて」

エアコンは、沈黙していた。

数分前まで、彼はたしかに生きていた。
白い体で壁に寄りかかりながら、ぶおおん、と頼もしい音を立てていた。

夏の夜の守護神。
文明の結晶。
我が家の北極支部長。

それが突然、ぷつん、と言って止まった。

最期の言葉はなかった。
ただ、送風口が半開きのまま固まり、
「いや、ここで終わるんかい」
という顔をしていた。

私は立ち上がった。

まずはリモコンの電池を疑った。
電池を入れ替えた。
角度を変えた。
近づいた。
離れた。
両手で持った。
なぜか一度、リモコンを胸に当てた。

反応はない。

「あなた、昨日まであんなに冷たかったじゃない」

恋人に言うには最悪の台詞だが、エアコンには最高の賛辞だった。

冷蔵庫から保冷剤を取り出し、タオルに包んで首に当てた。
一瞬、世界が許された気がした。

しかし、その幸福は短かった。

保冷剤は、みるみるうちに私の体温と和解していった。
敵だったはずの暑さと、まさかのスピード婚である。

祝福できない。
絶対にご祝儀は出さない。

扇風機をつけた。

ぶんぶんと羽根が回り、部屋の空気をかき混ぜる。
涼しくはならない。
ただ、暑さが均等になった。

「公平な地獄……」

私は布団の上に寝転がった。
すぐに起き上がった。

布団が、私を煮ようとしていた。

床に寝転がった。
最初の三秒だけ、ひやりとした。

「勝った」

そう思った瞬間、床も私の味方をやめた。

夜は長い。
時計を見る。
まだ十一時半。

嘘でしょう。

体感ではもう朝の四時。
セミが出勤準備を始めてもいい頃だ。

私はうちわを手に取り、自分で自分を扇いだ。

右手が働き、左手が感謝する。
しばらくして右手が反乱を起こしたので、左手と交代した。
左手は三十秒で退職願を出した。

人間は、ここまで無力なのか。

近所のコンビニへ行こうか、と考えた。

あそこには、冷房がある。
冷たい飲み物がある。
アイスもある。

店に入った瞬間、白い光と冷気に包まれる、あの小さな楽園がある。

けれど、問題はそこまで行く道のりだった。

玄関を出る。
階段を降りる。
外気に触れる。
歩く。

そのすべてが、今の私には壮大な冒険だった。

もはやコンビニではない。
それは遠征である。

装備は、部屋着と汗。
得られる報酬は、ガリガリ君一本。

行くべきか。
行かざるべきか。

私はしばらく玄関のほうを見つめた。

そして、静かにうちわを持ち直した。

勇者は今夜、旅立たなかった。

月は窓の向こうで涼しい顔をしていた。
いい気なものだ。

あちらは真空である。
湿度という概念を知らない。

私は月に向かって言った。

「一回こっち来てみなさいよ」

返事はなかった。

月も空気を読んだのだろう。
いや、空気がないから読めないのか。

そのとき、ふと気づいた。

こんなにも暑くて、眠れなくて、どうしようもない夜なのに、私はまだ少しだけ笑っていた。

エアコンは壊れた。
保冷剤は寝返った。
扇風機は地獄を均した。
床は三秒で裏切った。

それでも、私はこの夜を、いつかきっと思い出すのだろう。

「あの夏、エアコンが壊れてさ」

そう言いながら、少し大げさに眉をひそめ、でも最後には笑ってしまうのだろう。

熱帯夜は、容赦がない。

けれど、容赦のなさにも種類がある。

今日の暑さはたぶん、人生のすみっこに置かれる、変な思い出の形をしている。

私はもう一度、うちわを握った。

頼れるものは、自分の腕力と、冷蔵庫の残りの麦茶だけ。

それでも夜は明ける。
エアコンが壊れても、朝は来る。
人類は、たぶんそうやって夏を越えてきた。

私は汗だくのまま、静かに目を閉じた。

そして三分後、すべてをあきらめて起き上がり、スマホを開いた。

検索窓に打ち込む。

「エアコン 修理 最短」

最短。

そう、最短である。

明日でもいい。
いや、よくない。

できれば今。
可能なら過去に戻って、壊れる前に業者を呼びたい。

私は汗だくの指で、検索ボタンを押した。

そして検索結果を見つめながら、思った。

人類はたぶん、そうやって夏を越えてきた。

祈りと、うちわと、最短予約で。


これはフィクションですが、この記事を載せた日、本当に電気が止まりました。

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シロクマ文芸部に参加させていただいています。
小牧部長さま、いつもありがとうございます!
今回のお題
「熱帯夜」から始まる文芸作品です。


【詩のような物語】という、小さな物語たちを紡いでいます。
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これからも、日々の光や影を、そっと言葉にしていきます。
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