~熊野古道で出会った神倉神社の三神~
早朝4時半、ホテルの部屋をそっと抜け出し、まだ薄暗いシャッター商店街を足早に歩き出す。目指すは神倉神社だ。街はまだ眠っていてすれ違う人もいない。6時発の本宮大社行きのバスに間に合うよう戻って来れるだろうか?
私は今、世界遺産となった熊野三山を巡るひとり旅の途中だ。泊まっている新宮市内には、神倉神社がある。熊野三山の主祭神である『熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神』の神々は、最初にこの地 神倉山に降臨したと伝えられる。それは、熊野三山として祀られるようになるよりも、はるか昔の話だ。現在、神倉山の中腹にある巨岩「ゴトビキ岩」は御神体として祀られ、その場所には小さな社殿が建つという。しかし、そこにたどり着くには、538段もの急な石段を登らなければならない。足腰に自信のある、強い信仰を持つ人だけの場所だと聞いていた。
日頃から体を鍛え、体力には自信があるものの、最近膝を痛めた私に登れるだろうか。夜明け前の薄暗さに、ひとりの心細さも手伝って、勢いよくホテルを飛び出しては来たものの、急に不安にかられ足が重くなった。そんな時、「神社登り口」と書かれた看板が現れた。立ち止まって反り返るようして見上げると、こんもりとした山の中腹に赤い鳥居と岩らしき物が、高く、遠く、小さく見えた。まるで、丸い緑のクッションの中に赤いリボンをかけた小箱が埋め込まれているようだった。
「あんなところまで登れそうにない……。バス、間に合うかな」
立ちすくんでいると、一人の年配の女性が、登り口から降りてきた。
「登って降りて30分よ。行ってらっしゃい」
私の心が読めているかのように穏やかにそう言い残し、女性は街中へ消えていった。私より一回りは年上に見える。地元の方なのだろう。あの人にできるなら、私にもできるはず。そう自分に言い聞かせ、石段を登り始めた。

しかしその決意は、ものの3分でぐらついた。自然石で造られた石段は、高さも幅もまちまちだ。片足に全体重を乗せ、力いっぱい身体を押し上げるように段を踏むと、息はすぐに切れ、汗が噴き出した。膝を守るように掌を当て、必死に進む。
「滑ったらどこまで転がっていくんだろう……」
恐る恐る振り返ると、吸い込まれるような急傾斜が足元に広がっていた。足がすくみ、体の向きを変えることもままならない。バスの時間も気にかかる。何度も「止めようか」と思ったが、そのたびに自分に問い直した。
「私は、何のために熊野に来たんだ? 自分の足で、この地を知るためじゃないか」
そう思い直し、ただ前だけを見て、無心で足を持ち上げることに集中した。
ようやく、赤い鳥居が目の前に現れた。
「着いたぁ…!」
眼下には、青く美しい熊野灘と新宮の街が広がっていた。ゴトビキ岩は、想像をはるかに超える大きさで、社殿を押し潰さんばかりの存在感だ。ポカンと口を開けたまま、しばらくその迫力に圧倒されて眺めていた。その後、静かに参拝を済ませ、岩の下に腰を下ろして汗が引くのを待った。

すると、一人の女性が軽やかな足取りで登ってきた。鈴を鳴らし手を合わせると、すぐに降りて戻ろうとする。あまりにもあっさりしているので、思わず声をかけた。
「もう帰るんですか?」
すると、彼女は笑顔でこう答えた。
「私、毎朝この石段を3回登っているんです。また来ますから」
そう言って、弾むように階段を下っていった。3回も! 驚くばかりだった。年は、私とそれほど違わないように見える。
「もっとこの岩に抱かれるように座っていたいな……」
そう思ったが、バスの時間が迫る。立ち上がると、鳥居の下を竹箒で掃き清めている年配の男性が見えた。気持ちよく参拝できたこともあり、「おはよう」ではなく、自然に「ありがとうございます」の言葉がすれ違いざまに出た。
男性は顔を上げ、笑顔で話しかけてくれた。
「どこから来たぁ?」
「東京からです。初めて熊野に来ました。」
聞けば、毎朝538段を登って清掃に来るのだという。山の木々は次々に葉を落とす。掃いても掃いても、翌朝には前の日と同じように落ち葉が積もっているだろう。私には真似ができるだろうかと、頭が下がる思いがした。これから熊野三山を巡るのだと話した私の背中に、彼はこう言って見送ってくれた。
「Enjoyやで!」
帰りの石段は、なぜか体が軽かった。登り切れた達成感と小さな自信なのだろう。行きに感じたひとりの寂しさや怖さはなく、清々しい気持ちだ。とはいえ、一段ずつ慎重に足を置き、転ばぬよう下っていると、先ほどの女性が三回目となる登拝に上がってきた。
「このへんはね、もっと右側を通った方が石が平らで安全よ〜」
そう教えてくれながら、軽やかに上へと消えていった。
5時40分。ようやく神社の登り口まで降りてきた。
「よし、これなら戻ってバスに間に合う」
安心して街中のホテルへ向けて歩き出したとき、ふと背後から誰かに呼ばれたような気がして振り返った。そこには、朝の光を受け鮮やかに輝く赤い鳥居と、それを包み込むゴトビキ岩が静かに佇んでいた。私には、近く、大きく、優しいものに感じられた。
あの三人 ・・・ 躊躇していた私に声をかけてくれた女性、清掃をしていた男性、軽やかな身のこなしで3回登拝する女性・・・・もしかしたら、彼らは『熊野の三神』だったのかもしれない。

