【中編小説】執念
プロローグ
二〇二五年十月三十一日。福岡県警本部の記者会見場は、秋の夜の冷気よりも冷たい静寂に包まれていた。 捜査一課長が、深く息を吸う。そして、吐き出すように言葉を紡いだ。 「本日午後八時四十分、二十六年前に発生した殺人事件の容疑者を逮捕しました」 会場の空気が、一瞬で張り詰める。
「被疑者は六十七歳の女性。被害者の夫の高校時代の知人です。現場に残されていた血痕のDNA型鑑定の結果、被疑者のDNA型と完全に一致しました。被疑者は本日夜、自ら警察署に出頭し、容疑を認めております」 カメラのシャッター音が、銃声のように会場を満たした。
事件は一九九九年十一月十三日、福岡市東区のアパートで発生した。被害者は当時三十二歳の主婦、桐野奈緒さん。首を刃物で刺され、搬送先の病院で死亡が確認された。現場には当時二歳の長男がいた。おもちゃで遊びながら、母親の死を見ていた。 「二十六年間、一日たりとも捜査の手を緩めることなく——」 捜査一課長の声が、わずかに震える。 「本日、ようやく被害者のご遺族に、この報告をすることができました」 記者たちの息遣いだけが、会場に響いていた。
だが、この逮捕劇の背景には、報道されることのない四つの「執念」があった。 妻を殺された夫の、狂気と紙一重の執念。 事件に人生を賭けた刑事の、職業を超えた執念。 一人の男を二十六年間愛し続けた女の、暗闇に沈んだ執念。 そして、殺人犯の妻を守り続けた夫の、静かで、絶対的な執念。 これは、それぞれの執念が複雑に絡み合い、二十六年という歳月の果てに、ついに一つの真実へと収斂した物語である。
第一章「妻を殺された夫の執念」
1
桐野高志の朝は、いつも妻の名前を呼ぶことから始まる。
「奈緒」
誰もいないリビングで、声に出す。二十六年間、毎朝欠かさず。 六十八歳になった今も、妻の不在は慣れることがない。朝食を作りながら、二人分の皿を出しかけて気づく。洗濯物を干しながら、妻のブラウスを探して気づく。そのたびに、胸の奥が冷たく締め付けられる。 高志は、毎月八万円の家賃を振り込む。 東区のアパート「グリーンハイツ」二〇二号室。妻の奈緒が殺された、あの部屋だ。 「桐野さん、本当にもういいんじゃないですか」 不動産管理会社の若い担当者は、最近では懇願するような口調になっている。 「建物の老朽化が進んでおりまして、正直、いつ何があってもおかしくない状況なんです。他の部屋は全て空室で、もう五年以上前から取り壊しの話が出ているんですが、桐野さんの部屋だけが...」 「まだです」 高志は、毎回同じ言葉で答える。感情を排した、乾いた声で。 「事件が解決するまでは」 二十六年間で支払った家賃は、総額二千四百九十六万円。小さな家が買える金額だ。息子の悠人は、何度も父を止めようとした。だが高志は聞かなかった。 なぜなら、あの部屋には妻の最後の痕跡が、まだ残っているから。 正確には、残っていた。警察が採取した後、高志は部屋を徹底的に保存した。血痕のあった場所に、白いテープで印をつけた。家具の配置も、壁の小さな傷も、カーテンのひだまで、すべてを写真に撮り、図面に記録し、そのままにした。 「犯人を、いつか必ず、この場に立たせる」 高志は誰に言うともなく呟く。 「あの日、妻がどれほどの恐怖を感じたか。どれほど苦しみ、どれほど無念だったか。犯人にここで、同じ空気を吸わせたい。同じ床を踏ませたい。そして目を閉じさせて、妻の最後の姿を想像させたい」 部屋は、一九九九年十一月十三日午後三時で時間が止まっている。 リビングのちゃぶ台には、奈緒が最後に読んでいた育児雑誌『すくすく』が、ページを開いたまま置かれている。「イヤイヤ期の乗り越え方」という特集記事。台所の水切りカゴには、あの日の朝に使った茶碗と箸が、今も並んでいる。奈緒が最後に立った場所、最後に触れたものたち。 高志は週に一度、この部屋を訪れる。掃除をし、換気をし、一時間ほど佇む。ソファに座り、妻が座っていた場所を見つめる。 「まだ終わってないからな」 呟く声は、誓いなのか、それとも祈りなのか。
2
「事件を風化させない」 それが高志の、戦いだった。 毎年十一月十三日、命日になると、高志は朝から事件現場の前に立つ。手にはビラの束。道行く人に、妻の写真と事件の概要を記したチラシを配る。 「十一月十三日、ここで妻が殺されました。どんな些細な情報でも構いません。ご協力をお願いします」 最初の頃は、多くの人が足を止めてくれた。「大変でしたね」「頑張ってください」と声をかけてくれる人もいた。だが年月が経つにつれ、関心は目に見えて薄れていった。 五年目には、立ち止まる人が半分になった。 十年目には、ビラを受け取る人すら少なくなった。 十五年目には、チラシを見ずにゴミ箱に捨てる人が増えた。 二十年目には、高志を避けるように通り過ぎる人ばかりになった。 「またあの人か」という視線を、高志は感じていた。「いつまでやってるんだ」という無言の非難も。 それでも高志は、立ち続けた。 朝九時から夕方六時まで。雨の日も、風の日も。手がかじかみ、足が棒のようになっても。 「犯人に、プレッシャーを与え続けるんです」 ある日、取材に来た記者に、高志は言った。 「どこかで普通に暮らしているかもしれない犯人に、『まだ諦めてないぞ』『お前のことを、毎日考えているぞ』『必ず見つけ出すぞ』というメッセージを送り続ける。これが、私にできる唯一のことです」 記者は、高志の目を見て言葉を失った。 その目には、狂気に近い何かが宿っていた。だが同時に、澄み切った理性の光も失われていなかった。悲しみと怒りが完全に結晶化して、もはや感情とは呼べない、純粋な意志になっていた。 テレビ番組にも、出演できる限り出た。 未解決事件を特集する報道番組。犯罪被害者遺族を取材するドキュメンタリー。討論番組。情報番組の短いコーナー。声がかかれば、どんな小さな番組でも必ず応じた。 スタジオで、何度も同じ話をした。妻がどんな人だったか。事件の日、何があったか。犯人への思い。 「もう何度も同じ話をしていますが」と司会者が気を遣うと、高志は首を横に振った。 「いいえ。何度でも話します。どこかで犯人が見ているかもしれない。それだけで意味があります」
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二〇〇四年、高志は犯罪被害者遺族の会「明日へ」を立ち上げた。 きっかけは、ある集会で出会った他の遺族たちだった。 通り魔に娘を殺された六十代の母親。その女性は、憔悴しきった顔で言った。 「時効まで、あと三年なんです。三年で、犯人は逃げ切れる。娘は、永遠に帰ってこないのに」 飲酒運転の犠牲になった息子を持つ五十代の父親は、拳を震わせながら言った。 「犯人は今も、どこかで酒を飲んでいる。笑っている。それが許せない」 高志は、彼らの痛みが自分の痛みと同じだと知った。 そして気づいた。殺人事件の時効は、当時十五年だった。奈緒が殺されてから、すでに五年が経過していた。あと十年で、犯人は法的に罪を問われなくなる。 「それは、絶対に間違っている」 高志は、心の底から思った。 人の命を奪っておいて、十五年逃げ切れば無罪放免。そんな法律が、この国に存在していいはずがない。 「明日へ」は、殺人事件の時効撤廃を求める署名活動を始めた。 駅前に立ち、繁華街に立ち、公園で、図書館で、あらゆる場所で署名を集めた。国会議員に陳情し、法務省に要望書を提出し、記者会見を開いた。 「被害者遺族には、時効なんてないんです」 高志は、マイクの前で訴えた。声は静かだったが、言葉の一つ一つに重みがあった。 「毎日、毎日、亡くなった家族のことを思う。朝起きて最初に思い出し、夜眠る前に最後に思い出す。犯人への怒り、悲しみ、それは一日たりとも薄れることがない。時間が解決するなんて、嘘です。むしろ時間が経つほど、失った重さが増していく」 高志は、資料を手に取った。 「なのに法律だけが、勝手に時間を区切って『もう終わり』と宣言する。それは、被害者を二度殺すことと同じです。法が、加害者の味方になる。そんなことが、あっていいはずがない」 活動は、少しずつ世論を動かした。 最初は小さな記事だった。地方紙の片隅に載る程度。だが署名が一万人を超え、三万人を超え、十万人を超えた頃、全国紙が取り上げ始めた。テレビのニュース番組が特集を組んだ。国会議員が動き始めた。 そして二〇一〇年四月二十七日。 刑事訴訟法が改正され、殺人罪の時効が撤廃された。 高志は、国会議事堂の前で空を見上げた。 秋晴れの青い空。白い雲がゆっくりと流れていく。 仲間の遺族たちが、高志の肩を抱いた。みんな泣いていた。 「やったね」「本当に、やったね」 高志の頬にも、涙が伝った。 「奈緒」 心の中で、妻に語りかけた。 「やったよ。これで、犯人がどれだけ時間が経っても、必ず捕まえられる。絶対に、逃がさない」 空が、少しだけ明るく見えた。
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だが、それから十五年。 犯人は、依然として見つからなかった。 警察は定期的に捜査状況を報告してくれた。だがその内容は、いつも同じだった。 「現在も捜査を継続しております」 「新たな情報があれば、すぐに動きます」 「決して諦めてはおりません」 言葉は丁寧だった。だが、進展はなかった。 高志の髪は白くなり、背中は丸くなり、手には老いの斑点が浮かび始めた。 息子の悠人は大学を卒業し、フリーライターとして独立した。 「父さん、そろそろ休んだら?」 悠人は、何度も言った。 「無理しすぎだよ。もう十分頑張ったよ」 だが高志は、首を横に振った。 「休んだら、終わってしまう」 「終わらないよ。警察が捜査してるんだから」 「いや、終わる」 高志は、息子を真っ直ぐ見た。 「私が声を上げなくなったら、事件は忘れられる。世間も、警察も、みんな忘れる。それだけは、させたくない」 悠人は、父の目を見て、何も言えなくなった。 その目には、もう引き返せない場所に立っている人間の、研ぎ澄まされた決意があった。
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二〇二五年十月三十日。 その日、高志は息子とランチを食べていた。 久しぶりの外食。悠人が「たまには美味しいもの食べよう」と誘ってくれた。 レストランで、日替わりランチを食べながら、他愛のない話をした。 「最近、どうだ? 仕事は?」 「ぼちぼちだよ。父さんは?」 「変わらないよ」 穏やかな時間。二十六年間、こんな時間がどれだけあっただろう。 そこに、電話が鳴った。 福岡県警、捜査一課。 高志の手が、わずかに震えた。 「もしもし、桐野です」 「桐野さん、捜査一課の本庄です」 低く、しかし興奮を抑えきれない声。 「ご報告があります。DNA型鑑定の技術が大幅に向上しまして、現場の血痕を再鑑定いたしました。その結果...」 高志は、箸を置いた。 「新たな可能性が見つかりました。早ければ近日中に、重要な進展がある見込みです」 「...本当ですか」 「はい。詳しくは、また改めてご連絡します」 電話を切った後、高志はしばらく動けなかった。 手が震えていた。膝も震えていた。 「父さん?」 悠人が心配そうに声をかける。 「警察から...」 高志は、やっとの思いで言葉を絞り出した。 「進展が、あるかもしれない」 「本当に?」 「ああ」 高志は両手で顔を覆った。 二十六年間、この瞬間を待っていた。 だが、いざその時が来ると、体が震えて止まらなかった。
第二章「時効に阻まれた刑事の執念」
1
本庄真隆が福岡県警捜査一課に異動したのは、二〇二五年四月一日だった。 六十歳。刑事人生四十年。これまで強盗、暴行、詐欺、様々な事件を扱ってきた。定年間際の今回の異動では未解決事件を担当する部署に配属された。
「本庄さん、これ、頼むわ」 課長が机に置いたのは、段ボール箱五つ分の資料だった。 「一九九九年、東区アパート主婦殺害事件。通称『グリーンハイツ事件』。もう今年で二十六年経つけど、遺族の桐野さんが今も毎年、ビラ配りしとるやろ? あの事件」
本庄の手が、わずかに震えた。
本庄は資料の表紙を見た。 褪色したファイルに、『平成11年11月13日発生 殺人事件』と書かれている。
一九九九年十一月十三日。
この日付を、本庄は一生忘れられない。
「正直、もう手詰まりなんよ」 課長は、疲れた顔で続けた。 「当時の捜査員は延べ五千人以上の関係者に当たった。被害者の知人、夫の知人、近隣住民、宅配業者、訪問販売員、宗教の勧誘、不動産会社、前の住人。ありとあらゆる人間を洗い出した。でも、決定的な証拠は何一つ見つからんかった」 課長は、窓の外を見た。 「もう誰も覚えとらんかもしれん。でも桐野さんは、まだ諦めとらん。だから俺たちも、諦めるわけにはいかんのよ」 本庄は、段ボール箱に手を置いた。 重い。物理的な重さだけでなく、二十六年という時間の重さが、そこにはあった。
そして、本庄自身の二十六年間の無念の重さも。
「わかりました」 本庄は答えた。 「やります」
いや、違う。本庄は心の中で訂正した。
「やらせてください」が正しい。この事件は、本庄が自ら志願したものだった。
二十六年前、同じ日に時効を迎えた事件。あの時解決できなかった無念。
今度こそ、未解決事件を解決する。それが、本庄の執念だった。
2
本庄は、その日から資料を読み始めた。 膨大な量だった。 捜査報告書、聞き込み調査票、写真、図面、検視報告書、鑑定書類。段ボール五箱では収まりきらず、倉庫にさらに十箱の関連資料があった。
だが、本庄の頭の中には、別の事件の記憶が蘇っていた。
一九八四年、熊本市西区で発生した殺人事件。
被害者は、当時二十六歳の会社員、松永理恵さん。自宅アパートで刺殺された。現場の状況はグリーンハイツ事件と酷似していた。玄関で襲われ、凶器は持ち去られ、わずかな血痕だけが残された。
当時二十歳で刑事になったばかりの本庄は、先輩刑事たちと共に捜査に加わった。必死に手がかりを探した。関係者を洗い出し、アリバイを確認し、不審者を追った。
だが、決定的な証拠は見つからなかった。
そして一九九九年十一月十三日。
殺人罪の公訴時効、十五年が経過した。
「本庄、気にするな」
先輩刑事が肩を叩いた。
「俺たちは全力を尽くした。時効は、俺たちのせいじゃない」
だが、本庄は自分を許せなかった。
松永理恵さんの両親が、警察署に来た日のことを、今でも鮮明に覚えている。
「時効って...娘は、もう殺されたままで...犯人は、自由に生きていくんですか?」
母親の声が、震えていた。
「すみません」
本庄は、ただ頭を下げることしかできなかった。
「本当に、すみません」
その夜、本庄はニュースを見た。
「福岡市東区で主婦刺殺事件。現場には二歳の長男」
画面に映るグリーンハイツ。救急車。規制線。
一九九九年十一月十三日。
本庄が担当していた事件の時効が成立したその日に、新たな殺人事件が発生した。
運命の皮肉だった。
「二十六歳の女性が殺された事件が時効を迎えた日に、新しい事件が起きた」
本庄は、この符合を忘れられなかった。
そして誓った。
「もう二度と、時効で終わらせない」
本庄は、グリーンハイツ事件の資料を読み進めた。 被害者、桐野奈緒さん。一九六七年三月五日生まれ。福岡県出身。地元の高校を卒業後、事務員として働き、二十五歳で桐野高志さんと結婚。一九九七年、長男の悠人くんを出産。専業主婦として、家事と育児に専念していた。 性格は温厚で、争いを好まない。近所づきあいも良好。トラブルの記録なし。 つまり、誰からも恨まれる要素がない。 それなのに、なぜ殺されたのか。
松永理恵さんも、そうだった。誰からも好かれる、真面目な女性。なのに、理不尽に命を奪われた。
「同じだ...」
本庄は呟いた。
本庄は、現場の写真を見た。 リビング。血の海。倒れている女性。その傍らで、おもちゃで遊んでいる幼児。 この子が、悠人くん。今は二十八歳になっている。 「何も覚えてないんだよな...」 本庄は呟いた。 当時二歳。事件の瞬間を見ていたかもしれないのに、記憶には何も残っていない。
ある意味、それは救いかもしれない。本庄自身、松永理恵さんの現場の光景が、今でも夢に出てくる。血の跡。倒れていた体。遺族の涙。忘れたくても、忘れられない。
次に、凶器について。 刃物で首を刺された。だが凶器は見つかっていない。犯人が持ち去ったと推定。刃渡り十センチ以上の両刃の刃物。一般家庭にある包丁と思われる。 指紋は、現場に多数検出されたが、すべて被害者と家族のものだった。 そして、唯一の手がかり。 玄関付近の床に、血痕が残されていた。被害者のものではない、犯人のものと思われる血液。量は少なく、おそらく犯人が奈緒さんと揉み合った際に負った傷から流れたもの。 DNA型鑑定を実施。だが、当時のデータベースには該当者がいなかった。 「この血が、すべてなんだな」 本庄は、鑑定書を見つめた。
松永理恵さんの事件には、血痕すらなかった。DNA鑑定技術も、まだ実用化されていなかった。だから、時効を迎えた。
「今は違う」
本庄は、資料を握りしめた。
「技術が進歩した。時効も撤廃された。今度こそ、解決できる」
3
本庄は、現場を訪れることにした。
グリーンハイツ。東区の住宅街にある、古びた二階建てのアパート。外壁は剥がれ、階段は錆び、全体的に廃墟のような雰囲気を漂わせていた。
駐車場の片隅では、草むらの中からセミの声が途切れなく響いている。
だが二〇二号室だけは、定期的に清掃されているのか、ドアも窓も綺麗に保たれていた。
インターホンを押す。
「はい」
ドアが開いた。桐野高志さん。六十八歳。写真で見るより痩せていて、頬がこけていた。だが目だけは、鋭く光っていた。
「福岡県警捜査一課の本庄と申します。この度、この事件を担当させていただくことになりました」
本庄は、深く頭を下げた。背中に流れる汗が、制服の内側で冷たく張りついた。
「ああ...どうぞ」 部屋に入ると、時間が止まったような空間が広がっていた。 一九九九年の、そのままの部屋。 ちゃぶ台、古いテレビ、色褪せたカーテン。壁には、若い女性と幼児の写真が飾られている。 「奈緒と、息子の悠人です」 桐野さんが言った。 「この写真、事件の一週間前に撮ったんです。近所の公園で。あの日、妻はとても楽しそうでした」 本庄は、写真を見た。 笑顔の女性。幸せそうな表情。一週間後、彼女が血の海に倒れることになるとは、この時は誰も知らなかった。
松永理恵さんの写真も、こんな笑顔だった。遺族が見せてくれた、アルバムの中の笑顔。もう二度と見ることのできない笑顔。
「こちらが、血痕のあった場所です」 桐野さんが、玄関の近くを指差した。 床に、白いテープで印がつけられていた。 「犯人の血ですね」 「はい。妻と揉み合った時に、犯人が負った傷から流れた血だと」 本庄は、膝をついて床を見た。 小さな印。だが、これが唯一の手がかり。
松永理恵さんの事件には、これすらなかった。だから、時効を迎えた。
「桐野さん」 本庄は、顔を上げた。 「実は私、四十一年前に別の殺人事件を担当していました」
桐野さんが、本庄を見た。
「被害者は二十六歳の女性。現場の状況は、この事件と酷似していました。私は必死に捜査しましたが...犯人を捕まえることができませんでした」
本庄の声が、わずかに震えた。
「そして一九九九年十一月十三日。その事件が時効を迎えたその日に、この事件が発生しました」
桐野さんは、黙って聞いていた。
「私は、あの日のことを一日も忘れたことがありません。時効で終わった無念。解決できなかった後悔。そして、同じ日に新しい事件が起きた運命の皮肉」
本庄は、桐野さんを真っ直ぐ見た。
「二十六年間、私はこの日付に縛られてきました。二十六歳の被害者。二十六年前の時効。そして今、この二十六年前の事件を担当することになった」
本庄は、深く頭を下げた。
「桐野さん、あなたが二十六年間、この部屋を守り続けてくださったおかげで、証拠が保存されています。その執念に、私の執念で応えます」
本庄の目から、涙が一筋流れた。
「今度こそ、時効で終わらせません。必ず、犯人を見つけます」
桐野さんの目も、潤んでいた。
「本庄さん...ありがとうございます」
二人は、しばらく黙って立っていた。
二十六年という時間。二人の男が、それぞれの形で、「二十六」という数字に縛られ続けてきた。
4
本庄は、過去の捜査資料を徹底的に読み込んだ。 五千人のリスト。一人ひとりの調書。アリバイ。証言。人間関係図。 夜遅くまで、資料室に籠もった。コーヒーを飲みながら、ページをめくり続けた。
そして、机の引き出しから、一つのファイルを取り出した。
『松永理恵殺人事件 時効成立』
本庄は、このファイルを二十六年間、自分のデスクに置いていた。担当を外れても、異動しても、ずっと持ち歩いていた。
「松永さん、すみません」
本庄は、被害者の写真に手を合わせた。
「あなたの事件は、解決できませんでした。でも、今度こそ...」
「見落としがあるはずだ」 先輩たちが見落としたわけではない。彼らは全力を尽くした。その痕跡が、資料の隅々にまで残っている。 だが、二十六年という時間が経った今、新しい技術がある。新しい視点がある。
そして何より、時効が撤廃された。
二〇一〇年四月二十七日。本庄は、国会中継を食い入るように見ていた。
「殺人罪の公訴時効を撤廃する」
その瞬間、本庄の目から涙が溢れた。
「遅すぎる...」
松永理恵さんの事件には、もう間に合わない。だが、これから先の事件には間に合う。「もう二度と同じ過ちは繰り返さない!」あの時の誓いを本庄は思い出していた。
本庄は、ある人物のファイルで手を止めた。 氏名:安原久美子。職業:パート事務員。当時四十一歳。 桐野高志さんと同じ高校で学年は一つ下。テニス部。 調書には、こう記されていた。 「一九九九年十一月十三日、終日自宅にいた。証明者なし。アリバイ不成立。ただし動機不明。被害者との接点なし。DNA型鑑定実施せず」 最後の一文に、本庄は目を留めた。 「DNA型鑑定実施せず...?」 なぜだ。当時、DNA型鑑定は既に実用化されていた。現場に血痕が残っていることもわかっていた。なのに、なぜ安原久美子さんのDNA型を採取しなかったのか。 本庄は、当時の担当刑事の記録を読んだ。 『安原久美子、被害者との接点なし。動機なし。可能性低いと判断』 そうか。当時の刑事は、可能性が低いと判断したのだ。
「松永さんの事件も、こうだった」
本庄は呟いた。
「些細な見落とし。少しの判断ミス。それが、時効に繋がった」
だが今回は違う。本庄には、二十六年間の後悔がある。失敗から学んだ教訓がある。
本庄は、資料をさらに掘り下げた。 桐野高志さんの高校のアルバムのコピー。テニス部の集合写真。 そこに、若き日の桐野高志さんと、安原久美子さんが写っていた。 同じ部活。三年間、一緒に活動していた。 「接点がない...本当に?」 本庄は、仮説を立て始めた。 もし、安原久美子さんが桐野高志さんに好意を抱いていたとしたら。 もし、その想いが高校卒業後も消えなかったとしたら。 もし、同窓会で再会し、桐野さんが幸せな家庭を築いていることを知ったとしたら。 動機になる。十分に、動機になる。
「これだ」
本庄は立ち上がった。
「今度こそ、見逃さない」
5
二〇〇三年、DNA型鑑定の新技術が導入された。 STR(短鎖縦列反復配列)解析の精度が飛躍的に向上し、従来では識別できなかった微細な違いまで検出可能になった。 本庄は、すぐに鑑識課に依頼した。 「現場に残されていた血痕を、新しい技術で再鑑定してください」 「了解。ただし、試料が古いので時間がかかるかもしれません」 「構いません。お願いします」 一週間後、結果が出た。 「DNA型プロファイル、従来より詳細に検出できました。データベースとの照合を行いましたが...」 「該当者なし、ですか」 「はい。ただし、このプロファイルは非常に貴重です。直接照合すれば、ほぼ確実に判別できます」 本庄は、安原久美子さんの現住所を確認した。 福岡市城南区。夫と二人暮らし。パートを続けている。 十月三十日、本庄は安原久美子さんの自宅を訪れた。 閑静な住宅街。築三十年ほどの一戸建て。小さな庭に、手入れされた植木が並んでいる。 インターホンを押す。 しばらくして、ドアが開いた。 小柄な女性。六十七歳。白髪混じりの髪を短く切り、地味な服装。だが、整った顔立ちに、かつての美しさの名残が見える。 「安原久美子さんですか?」 「はい」 「福岡県警捜査一課の本庄と申します」 名刺を差し出すと、女性の表情がわずかに変わった。ほんの一瞬だが、本庄は見逃さなかった。 「少しお話を伺いたいのですが」 「...何の御用でしょうか」 「実は、二十六年前の事件について、再捜査を行っておりまして」 安原さんの手が、ドアノブを強く握った。 「桐野高志さんの奥様が殺害された事件です。覚えていらっしゃいますか?」 「ええ、はい」 「当時、お話を伺ったかと思いますが、DNA型鑑定の技術が向上しまして、もう一度、関係者の方々にご協力をお願いしています」 本庄は、採取キットを見せた。 「口腔内の粘膜を採取させていただければと思います。任意ですので、拒否されても構いません」 安原さんは、しばらく黙っていた。 その沈黙は、長かった。 本庄は待った。急かさず、ただ待った。 「...わかりました」 安原さんは、静かに答えた。 「協力します」
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採取は、あっという間に終わった。 綿棒で口腔内の粘膜を軽く擦り取る。それだけ。 「ありがとうございました」 本庄は、試料を慎重にケースに入れた。 「結果が出ましたら、またご連絡します」 安原さんは、何も言わなかった。ただ頷いただけ。 玄関を出る時、本庄は振り返った。 安原さんは、まだドアの前に立っていた。その表情は、諦めのようでもあり、安堵のようでもあった。 車に乗り、本庄は鑑識課に向かった。 「至急、照合をお願いします」 「了解。明日の夕方には結果が出ます」 その夜、本庄は眠れなかった。 これで違ったら、また振り出しだ。だが—— 本庄の刑事としての勘が、囁いていた。 間違いない。彼女だ。
7
十月三十一日、午後三時。 鑑識課から連絡が入った。 「本庄さん、結果が出ました」 「...どうでした?」 「一致しました」 本庄の心臓が、激しく打った。 「現場の血痕と、安原久美子さんのDNA型が完全に一致しています。確率的には、ほぼ確実に同一人物です」 本庄は、深く息を吐いた。 二十六年。 ついに——
本庄は、デスクの引き出しから松永理恵さんのファイルを取り出した。
「松永さん...」
本庄は、写真に語りかけた。
「あなたの事件は、解決できませんでした。時効という壁に阻まれました。でも、今度は...今度こそ、逃がしません」
涙が、写真の上に落ちた。
「これが、私の贖罪です」
「すぐに逮捕状を請求します」 本庄は課長に報告した。課長も、長年この事件を追ってきた刑事も、みんな目を潤ませた。 「本庄、よくやった」 「いえ、時効が撤廃されたからです。法律が変わらなければ、この事件も時効を迎えていました」
本庄は、窓の外を見た。
「二十六年前の十一月十三日。私が担当していた事件が時効を迎えた日。同じ日に、この事件が起きた。それから二十六年。ようやく、あの日の無念に決着をつけることができます」
本庄は、桐野高志さんに電話をかけた。 「桐野さん、本庄です。ご報告があります」 「...はい」 「DNA型が一致しました。容疑者を特定しました」 電話の向こうで、桐野さんの呼吸が止まった。 「今から、詳しくお話しに伺います」 「...はい。お願いします」 電話を切る直前、桐野さんの声が震えていた。 「本庄さん、ありがとうございます」
「いえ」本庄は答えた。「こちらこそ、ありがとうございます」
「え?」
「あなたの執念が、法律を変えました。時効を撤廃しました。それがなければ、この事件も、とっくに時効を迎えていたはずです」
本庄の声が、震えた。
「あなたの二十六年間の活動が、未来の事件を救いました。そして、私の二十六年間の後悔にも、終止符を打つことができました」
「本庄さん...」
「お互い、長い戦いでしたね」
二人は、電話の向こうで、静かに涙を流していた。
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その日の夜、午後八時〇分。 本庄が安原家に向かう準備をしていた時、署に一本の電話が入った。 「安原久美子ですが、お話があります」 「...どういったご用件でしょうか」 「警察に行きたいんです。あの事件のことで」 本庄は、受話器を握りしめた。 「今から、そちらに伺います」 「いえ、私が行きます。主人と一緒に」 三十分後。 安原久美子さんと、その夫の正人さんが、福岡県警に現れた。 取調室。 安原さんは、背筋を伸ばして椅子に座った。隣には夫。二人は手を繋いでいた。 「お話を伺います」 本庄が言った。 安原さんは、ゆっくりと口を開いた。 「一九九九年十一月十三日、桐野奈緒さんを殺したのは、私です」 その声は、静かだった。だが、明確だった。 「詳しく、お聞かせください」 安原さんは、すべてを語り始めた。 高校時代から抱き続けた、桐野高志への想い。二十六年間、誰にも話さなかった秘密の感情。同窓会での再会。奈緒さんの家を訪れたこと。そして—— 「包丁を手にした時、自分でも何をしているのかわからなくなっていました」 安原さんの目から、涙が溢れた。 「ただ、彼女がいなくなれば、高志さんが...そんな、愚かなことを考えて」 夫の正人さんが、妻の手を強く握った。 「彼女は、何も悪くなかった。ただ、高志さんを愛していただけ。それなのに、私は...」 安原さんは、顔を覆って泣いた。 二十六年間、押し殺してきた罪悪感が、堰を切ったように溢れ出した。 本庄は、静かにメモを取り続けた。 これが、真実だった。
第三章「一人の男を二十六年間愛し続けた女の執念」
1
西尾久美子は、自分がいつから桐野高志を愛し始めたのか、正確には覚えていない。 ただ、気づいた時には、もう遅かった。 十五歳の春。高校一年生。 友人に誘われて、テニス部の見学に行った日。 「ねえ、久美子も一緒に見に行こうよ。テニス部、男子がかっこいいんだって」 友人は軽い気持ちで言った。久美子も、軽い気持ちで頷いた。 テニスコート。春の日差しの中、白いウェアを着た男子部員たちが汗を流していた。 その中に、彼がいた。 桐野高志。 背が高く、引き締まった体。ボールを追いかける姿が、まるで光を纏っているように見えた。 サーブを打つ瞬間、彼が笑った。 その笑顔に、久美子の心臓は理由もなく跳ね上がった。 「あの人、二年生の桐野先輩だって」 友人が教えてくれた。 「かっこいいよね」 かっこいい、という言葉では足りなかった。 久美子は、ただ立ち尽くしていた。 「私、テニス部に入る」 それが、すべての始まりだった。
2
久美子は、テニスの才能があったわけではない。 むしろ下手な方だった。ボールはよくネットに引っかかり、サーブは枠を外れ、試合ではいつも負けていた。 それでも、彼女は練習を休まなかった。 なぜなら、桐野高志がそこにいたから。 「西尾、もっと腰を落として」 「フォームが崩れてる」 「集中しろ」 先輩として、彼は時々久美子に声をかけた。 その一言一言が、久美子の心に深く刻まれた。 「ありがとうございます」 精一杯の笑顔で答える。だが高志は、すぐに他の部員の指導に向かってしまう。 久美子は、それでも満足だった。 彼と同じ空間にいられる。彼の声を聞ける。それだけで、幸せだった。 だが、高校二年生の夏。 久美子の淡い期待は、砕かれた。 「なあ、聞いた? 桐野先輩、告白するらしいよ」 部活の後、女子部員たちが噂話をしていた。 「え、誰に?」 「二年二組の菜々子さん」 久美子の手が、止まった。 菜々子。同じクラスの、地味で目立たない女の子。 「えー、あの子? なんで?」 「らしくない よね。桐野先輩なら、もっと可愛い子選べるのに」 友人たちは笑いながら話していた。 だが、久美子の耳には何も入ってこなかった。 その夜、久美子は一人、自室で泣いた。 枕に顔を押し付けて、声を殺して泣いた。 なぜ。 なぜ、あの子なの。 私の方が、容姿もいい。成績だって悪くない。部活も頑張ってる。 なのに、なぜ。
3
翌日、久美子は菜々子を観察した。 廊下で、教室で、図書館で。 菜々子は、本当に地味だった。髪は短く、化粧っ気もなく、いつも一人で本を読んでいた。 友達も少ない。目立つこともない。 「何が、いいの?」 久美子は、心の中で呟いた。 「彼は、どこに惹かれたの?」 だが答えは、すぐにわかった。 ある日の放課後、図書館で。 高志と菜々子が、一緒に本を読んでいた。 二人は、静かに微笑みながら、ページをめくっていた。 その空間には、穏やかな空気が流れていた。 そして、久美子は理解した。 菜々子は、高志にとって「安らぎ」なのだ。 派手でもなく、目立ちたがりでもなく、ただ静かに隣にいてくれる存在。 それが、高志が求めているものだった。 久美子には、それが決定的に欠けていた。 彼女は常に、自分を良く見せようとしていた。笑顔を作り、話を合わせ、気を引こうと必死だった。 それが、逆効果だった。 「私も、変われば...」 久美子は思った。 「もっと静かで、穏やかになれば」 だが、それは無理だった。 高志を目の前にすると、心臓は高鳴り、言葉は上滑り、冷静ではいられなかった。
4
その年の秋。 高志と菜々子は、正式に交際を始めた。 久美子は、遠くから二人を見ていた。 廊下で手を繋ぐ二人。放課後、一緒に帰る二人。文化祭で、笑い合う二人。 そのたびに、胸が締め付けられた。 「いつか、別れる」 久美子は、そう信じようとした。 「高校の恋愛なんて、長く続かない。きっとすぐに、別れる」 だが、二人は別れなかった。 卒業後も、交際は続いた。 高志は大学に進学し、菜々子は地元で働いた。遠距離恋愛。 それでも、二人は繋がっていた。 久美子も、短大に進学した。 新しい環境。新しい友達。 他の男性と付き合ってみたこともあった。 優しい人だった。真面目で、誠実で。 だが、違った。 彼は、桐野高志ではなかった。 結局、半年で別れた。 「ごめんなさい」 久美子は謝った。 「私、まだ忘れられない人がいるの」 相手は、悲しそうな顔をした。 「そっか。その人は、幸せだね」 違う、と久美子は思った。 彼は、私のことなんて知らない。
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二十代、三十代。 久美子は、パート事務員として働いた。 結婚はしなかった。付き合う人もいなかった。 友人たちは次々と結婚し、子供を産んだ。 「久美子も、そろそろ結婚しなよ」 「いい人、紹介しようか?」 何度も言われた。 「うん、いつか」 曖昧に答えて、話題を変えた。 久美子の心には、ずっと高志がいた。 会うことはなかった。連絡も取らなかった。 ただ、心の中に住んでいた。 理想化された、完璧な彼。 実際の彼がどんな人間なのか、もうわからなかった。 でも、それでよかった。 久美子にとって、高志は現実の人間ではなく、心の支えだった。 「いつか、チャンスが来る」 根拠のない確信。 「いつか、彼が私を見てくれる日が来る」 そう信じて、久美子は生きていた。
そんな久美子に転機が訪れたのは三十九歳の時だった。同じ職場の同僚からの熱烈な求婚。久美子は「私にはずっと好きな人がいる」と告げたが、彼の答えは「それでも構わない」だった。久美子は高志への想いを胸に秘めながらも、彼に応じる事にした。
6
一九九九年、四十一歳の秋。 テニス部の同窓会が開かれた。 「テニス部創立五十周年記念」という触れ込み。 久美子は、案内状を手にして震えた。 彼が来るかもしれない。 二十四年ぶりに、会えるかもしれない。 鏡の前で、何度も服を選んだ。化粧を何度も直した。 美容院に行き、髪を整えた。 「いらっしゃるんですか? 同窓会?」 美容師が尋ねた。 「はい」 「楽しみですね」 「ええ」 久美子は、笑顔を作った。 だが、心臓は不安と期待で張り裂けそうだった。 同窓会当日。 会場のホテルに入ると、懐かしい顔ぶれが集まっていた。 みんな老けていた。髪は白くなり、顔には皺が刻まれ、体型も変わっていた。 そして、彼もいた。 桐野高志。 二十四年ぶりの再会。 彼も老けていた。髪に白いものが混じり、体は少し太っていた。 でも、笑顔は昔のままだった。 久美子の胸が、激しく高鳴った。 「久しぶり!」 「元気だった?」 同級生たちが、口々に声をかけ合っている。 久美子は、深呼吸をして、高志に近づいた。 「桐野先輩」 「ん? ああ、えーっと、西尾か?」 彼は、明るく応えた。 「久しぶり。元気だった?」
「ええ、まあ」 久美子は、精一杯の笑顔を作った。
「先輩は?」 「うん、ぼちぼちだよ」 「仕事は?」 「建設会社で働いてる。まあ、平凡なサラリーマンだよ」 高志は、照れくさそうに笑った。
久美子は、勇気を出して尋ねた。 「結婚は?」 その瞬間、高志の顔がパッと明るくなった。 「うん、してるよ。子供もいるんだ」
久美子の世界が、音を立てて崩れた。 「そう...おめでとう」 「ありがとう。西尾は?」 「私も...職場の人と」 「そっか。良かったな。おめでとう」
高志は、何の悪気もなく言った。 久美子は、笑顔を保つので精一杯だった。 宴会が進む。 高志は、妻の話をした。 「奈緒って言うんだけど。結婚して、もう七年になる。息子が二歳でさ、可愛いんだ」 高志は、携帯電話を取り出して写真を見せた。 幸せそうな家族写真。高志と、奈緒と、幼い男の子。奈緒はどことなく菜々子に似ている気がした。 「いい家族ですね」 久美子は、声を絞り出した。 「ありがとう」 高志は、満足そうに笑った。 その夜、久美子は早々に帰宅した。 自宅に着くと、玄関で崩れ落ちた。 二十六年間。 二十六年間、待ち続けたのに。 彼は、別の女と結婚して、子供まで作って、幸せに暮らしている。 私のことなんて、同じ部活の後輩の一人としか思っていない。 「なんで...」 久美子は、床を叩いた。 「なんで、あの女なの」 怒りが、激しく込み上げてきた。
7
久美子は、その後、桐野家のことを調べ始めた。 住所も、電話番号も、すぐにわかった。 グリーンハイツ二〇二号室。 興信所に依頼して奈緒の写真も手に入れた。写真の中の奈緒は、やはりどこか菜々子に似ている。 「この人が、高志さんの妻...」 久美子は、写真を握りしめた。 日に日に、感情が歪んでいった。 最初は悲しみだった。それが、次第に怒りに変わった。 「私は二十六年も、ずっと彼を想い続けてきたのに」 「あなたは、何もしないで、彼を手に入れた」 「それは、不公平だ」 久美子は、奈緒に会いたいと思い始めた。 どんな人なのか。どんな生活をしているのか。どんな顔で、高志さんの隣にいるのか。 この目で、確かめたい。 そして、十一月十三日。 久美子は、グリーンハイツを訪れた。
8
インターホンを押す。 「はい」 女性の声。 「あの、桐野高志さんのお宅ですか?」 「はい、そうですけど」 「実は、高校の同級生でして。近くまで来たので、ご挨拶に」 しばらく沈黙。 それから、ドアが開いた。 目の前に立っていたのは、写真で見た通りの女性。 奈緒。 地味な服装。化粧っ気のない顔。だが、穏やかな笑顔。 「どうぞ、お上がりください」 「お邪魔します」 部屋に入ると、小さな男の子が床でおもちゃで遊んでいた。 「あら、可愛い」 「ありがとうございます。悠人と言います」 奈緒は、息子を優しく見た。 その眼差しに、母親の愛が満ちていた。 「主人は今、仕事で...夕方には帰ってくると思いますが」 「ええ、奥様にお会いしたくて」 久美子は、部屋を見回した。 決して広くない、古いアパート。質素な家具。安物の食器。 でも、壁には家族三人の笑顔の写真が飾られている。 幸せそうな、桐野高志の顔。 久美子は、その写真を見つめた。 「お茶、お入れしますね」 奈緒が台所に向かった。 久美子は、リビングに座った。 息子の悠人が、ブロックで遊んでいる。 「悠人くん、おいくつ?」 「二歳です」 奈緒が、お茶を持ってきた。 二人で、向かい合って座る。 「奥さん」 久美子は、口を開いた。 「はい」 「あなた、幸せですか?」 奈緒は、不思議そうな顔をした。 「え? はい、まあ...」 「高志さんが、どれだけ素晴らしい人か、わかってますか?」 「え...?」 奈緒の表情が、困惑に変わった。 「あの、すみません、どういう...」 「私は」 久美子の声が、震え始めた。 「私は、十五歳の時から、ずっと彼を愛してきたんです」 奈緒の顔色が変わった。 「高校時代も、卒業してからも、ずっと。他の誰も目に入らなかった。二十六年間、ずっと」 「あの...お帰りください」 奈緒が立ち上がった。 「今すぐ、お帰りください」 だが、久美子も立ち上がった。 「なのに、あなたは」 一歩、奈緒に近づく。 「あなたは、当たり前のように彼の隣にいる。当たり前のように、彼の子供を産んで、当たり前のように、幸せそうな顔をしている」 「やめてください」 奈緒が、後ずさる。 「あなたには、もったいないんです。高志さんは」 奈緒は、玄関のドアに手をかけた。 だが、ドアは開かなかった。チェーンがかかっていた。 その時、久美子の視界に、台所の光が入った。 まな板の上に、包丁が置かれていた。 久美子の足が、勝手に動いた。 台所に向かい、包丁を手に取った。 冷たい感触。 「お願いです、やめてください」 奈緒の声が、遠くに聞こえた。 久美子は、包丁を握りしめた。 「あなたなんて」 久美子の中で、何かが弾けた。 二十六年間積み重ねてきた想いが、一瞬で憎しみに変わった。 「いなくなればいい」 久美子は、包丁を振り上げた。
第四章「殺人犯の妻を守り続けた夫の執念」
1
安原正人が、妻と結婚したのが四十三歳の時だった。 遅い結婚だった。 正人は、長年独身だった。特に結婚願望もなく、仕事に没頭していた。 だが、職場で久美子と出会い、何かが変わった。 久美子は、当時三十九歳。パート事務員として、正人の会社で働いていた。 地味だが、丁寧な仕事をする女性。 だが、時々、遠くを見つめるような目をしていた。 「西尾さん、大丈夫?」 ある日、正人は声をかけた。 「え? あ、はい。すみません」 久美子は、慌てて笑顔を作った。 「何か、悩みでも?」 「いえ、何も」 だが、その目は嘘をついていた。 正人は、それから久美子に関心を持つようになった。 ランチに誘い、仕事帰りにお茶に誘った。 最初は断られた。だが、正人は諦めなかった。 そして半年後、久美子が初めて誘いに応じた。 「どうして、私なんですか?」 久美子は尋ねた。 「私、もう若くないし、特別何かあるわけでもないのに」 「君は、優しいから」 正人は答えた。 「仕事も丁寧だし、誰にでも親切だ。そういう人と、一緒にいたいと思った」 久美子は、目を伏せた。 「私...ずっと好きな人がいたんです」 「過去形?」 「いえ、今も」 正人は、少し驚いた。 「でも、その人は私のことなんて知らないんです。」 久美子の声が、震えた。 「もう諦めなきゃいけないって、わかってるんです」 「無理に諦めなくていい」 正人は言った。 「君の心に、その人がいてもいい。それでも、俺は君と一緒にいたい」 久美子は、顔を上げた。 涙が、頬を伝っていた。 「本当に、いいんですか?」 「ああ」 それから一年後、二人は結婚した。
2
一九九九年十一月十三日。 正人が仕事から帰宅したのは、午後六時過ぎだった。 「ただいま」 リビングに入ると、久美子がソファに座り込んでいた。 顔は青白く、体を震わせている。 「久美子、どうした?」 正人は、急いで妻に駆け寄った。 久美子の右手に、包帯が巻かれていた。血が滲んでいる。 「手、どうしたんだ?」 「...切っちゃった」 声が、震えている。 「病院は?」 「行ってない」 「なんで」 正人が手を取ろうとすると、久美子は激しく首を横に振った。 「正人...」 「うん」 「私...人を...」 久美子の目から、涙が溢れた。 「殺してしまった」 正人の思考が、一瞬停止した。 「...何?」 「包丁で、刺して」 久美子は、両手で顔を覆った。 「もう、どうしたらいいか、わからない」 正人は、深呼吸をした。 冷静になれ。まず、状況を把握しろ。 「落ち着いて。詳しく話して」 久美子は、震える声で話し始めた。 高校時代から二十六年間抱き続けた、狂おしいまでの想いのこと。同窓会での再会のこと。そして今日、起きたこと。 「最初は、ただ話したかっただけなんです」 久美子は嗚咽を漏らした。 「でも、彼女が幸せそうで...家族の写真を見たら、頭が真っ白になって」 「それで、包丁を?」 「気づいたら、手にしていて...彼女が逃げようとして、私、それを...」 久美子の言葉が、途切れた。 正人は、妻の両肩を掴んだ。 「その人は?」 「倒れてた。血が、すごく出てて」 「救急車は?」 「呼んでない。怖くて、逃げてきた」 正人は、時計を見た。午後六時十五分。 事件から、おそらく三時間ほど経過している。 「包丁は?」 「持って帰ってきた」 久美子が指差した先、キッチンのゴミ箱に、新聞紙で包まれた何かがあった。 正人は立ち上がり、それを確認した。 血の付いた包丁。 正人の手が、震えた。 だが、頭は冷静に動いていた。 「久美子」 正人は、妻の前に膝をついた。 「聞いてくれ。これから、俺が言う通りにしろ」 「でも...」 「いいから、聞け」 正人は、妻の目を見た。 「まず、この包丁は捨てる。今夜、俺が処分する」 「正人...」 「服は? 血は?」 「全部、洗濯した」 「よし。それから、今日のことは誰にも話すな。絶対に」 「でも、警察に...」 「ダメだ」 正人は、強く首を横に振った。 「自首したら、お前は刑務所に入る。人生が終わる」 「でも、私、人を殺したんです」 「わかってる」 正人は、妻の手を握った。 「でも、お前を失いたくない。どんなことをしても、守る」 久美子は、泣き続けた。 正人は、決意した。 この妻を、どんなことをしても守る。 たとえそれが、法を犯すことになっても。
3
その夜、正人は包丁を車に積んだ。 深夜二時、人気のない山道を走った。 人里離れた場所で車を停め、ライトを消した。 月明かりだけが、周囲を照らしている。 正人は、スコップと包丁を持って、林の中に入った。 足元の落ち葉を踏む音だけが、静寂の中に響いた。 十分ほど歩いた場所で、正人は穴を掘り始めた。 土は固く、作業は大変だった。 汗が滲み、息が上がった。 三十分ほどかけて、深さ一メートルほどの穴を掘った。 包丁を新聞紙で何重にも包み、ビニール袋に入れ、穴の底に置いた。 それから、土を戻した。 最後に、落ち葉を被せて、痕跡を消した。 「これでいい」 正人は、周囲を確認した。 誰もいない。見ている者もいない。 車に戻り、家路についた。
4
翌朝、ニュースで事件が報道された。 「福岡市東区のアパートで、三十二歳の主婦が刃物で刺され、死亡しました」 テレビ画面に映る、グリーンハイツの外観。救急車。警察官。規制線。 「被害者は桐野奈緒さん。現場には当時二歳の長男がおり、無事保護されました。警察は殺人事件として捜査しています」 久美子は、ソファで膝を抱えて、画面を見つめていた。 顔は青白く、唇は震えていた。 「大丈夫だ」 正人は、妻の肩を抱いた。 「絶対に、バレない」 だが、正人の心臓も激しく打っていた。 殺人事件。証拠隠滅。 もし見つかれば、正人も共犯だ。 でも、後悔はなかった。 この妻を守る。それだけを、正人は考えた。
5
数日後、警察が安原家を訪れた。 「安原久美子さんですね。福岡県警の者ですが、少しお話を伺いたいのですが」 正人は、妻の隣に座った。 「どうぞ」 二人の刑事が、リビングに入ってきた。 「実は、東区で殺人事件がありまして。被害者のご主人が桐野高志さんという方で、高校で同じ部活だったとお伺いしました」 「ああ、はい。桐野先輩ですね」 久美子は、落ち着いた声で答えた。 正人は驚いた。あれほど震えていた妻が、今は冷静だった。 「十一月十三日、どちらにいらっしゃいましたか?」 「自宅にいました」 「一日中?」 「はい」 「証明できる方は?」 「主人は仕事でしたので...一人でした」 刑事は、メモを取った。 「被害者の奈緒さんとは、面識は?」 「いいえ。桐野先輩が結婚したことは知っていましたが、奥さんとは会ったことがありません」 完璧な嘘だった。 正人は、妻の手を握った。 「桐野高志さんとは、最後にいつお会いになりましたか?」 「先月の同窓会です。それ以来、連絡も取っていません」 「そうですか」 刑事は、二人の顔を交互に見た。 「ありがとうございました。また何かあれば、ご連絡します」 刑事が帰った後、久美子は崩れ落ちた。 「よく、頑張った」 正人は、妻を抱きしめた。 「もう大丈夫だ」 だが、本当に大丈夫なのか、正人にもわからなかった。
6
それから、警察が訪ねて来ることはなかった。
正人と久美子は、普通の夫婦として暮らした。 正人は会社で働き、定年退職した。久美子もパートを続けた。 旅行にも行った。温泉、京都、北海道。 友人とも会った。笑い、食事をし、普通の会話をした。 だが、二人の心には、常に暗い影があった。 テレビで未解決事件の特集が組まれるたび、久美子は体を硬くした。 十一月十三日が近づくたび、二人は言葉少なになった。 桐野高志さんが、テレビに出演するたび、正人は胸が痛んだ。 「月日が何年経とうとも、私は諦めません」 画面の中の桐野さんは、やつれていた。だが、目だけは鋭く光っていた。 「犯人を、必ず見つけます」 久美子は、画面を見つめていた。 その目に、涙が浮かんでいた。 「ごめんなさい」 小さな声で、呟いた。 「本当に、ごめんなさい」 正人は、何も言えなかった。
7
二〇一〇年、殺人罪の時効が撤廃された。 正人は、ニュースを見て愕然とした。 「本日、刑事訴訟法が改正され、殺人罪の時効が撤廃されました」 画面には、国会議事堂。そして、喜ぶ犯罪被害者遺族たち。 その中に、桐野高志さんの姿もあった。 「これで、犯人はどれだけ逃げても、必ず捕まえられます」 彼の言葉が、正人の胸に突き刺さった。 「...どういうこと?」 久美子が、震える声で尋ねた。 「時効がなくなった」 正人は答えた。 「つまり、いつまでも、逮捕される可能性がある」 久美子の顔から、血の気が引いた。 「でも...もう十一年も経ってるのに」 「法律が変わったんだ」 正人は、妻の手を握った。 「大丈夫だ。今まで見つからなかったんだから、これからも見つからない」 「本当に?」 「ああ。必ず、守る」 だが、正人の心にも、不安が広がっていた。 時効がない。 つまり、永遠に逃げ続けなければならない。 死ぬまで。 それは、終わりのない刑罰だった。
8
二〇二五年十月三十日。 午後二時、チャイムが鳴った。 「安原久美子さんのお宅ですか?」 ドアを開けると、スーツ姿の男性が立っていた。 「福岡県警捜査一課の本庄と申します」 正人の心臓が、止まりそうになった。 「久美子!」 妻を呼んだ。 久美子が玄関に来た。その顔を見て、刑事の存在を理解した瞬間、顔色が変わった。 「少しお話を伺いたいのですが」 「何の御用でしょうか」 正人が尋ねた。 「実は、二十六年前の事件について、再捜査を行っておりまして」 久美子の体が、わずかに揺れた。正人は、すぐに妻の腕を掴んだ。 「DNA型鑑定の技術が向上しまして、関係者の方々にご協力をお願いしています」 刑事は、採取キットを取り出した。 「口腔内の粘膜を採取させていただければと思います。任意ですので、拒否されても構いません」 正人は、瞬時に判断した。 拒否すれば、逆に疑われる。 だが、応じれば—— 「拒否することもできますか?」 「はい、任意ですので」 正人が答えようとした時、久美子が口を開いた。 「協力します」 「久美子!」 正人は、妻の腕を強く掴んだ。 だが、久美子は静かに首を横に振った。 「いいの」 「何を言ってる」 「もう、疲れた」 久美子は、穏やかな笑みを浮かべた。 だが、その目には、深い諦めがあった。 「二十六年間、あなたに守ってもらった。もう、十分よ」 「久美子...」 「ありがとう。本当に、ありがとう」 久美子は、口を開けた。 刑事が、綿棒で粘膜を採取する。 正人は、ただ見ているしかなかった。 拳を握りしめ、歯を食いしばり、涙を堪えながら。
殺人事件の公訴時効は二十五年だった。桐野高志の活動により、それは撤廃された。皮肉にも二十六年目、再び、警察の追求を受けるとは。
「これで、犯人はどれだけ逃げても、必ず捕まえられます」
桐野高志の声が脳裏に鳴り響いた。
9
刑事が帰った後、二人はリビングで向かい合った。 長い沈黙。 「なぜ、応じた」 正人が、やっとの思いで尋ねた。 「DNA型が一致したら、逮捕される」 「わかってる」 久美子は、静かに答えた。 「でも、もういいの」 「よくない」 正人は、拳で膝を叩いた。 「俺は、お前を守ると決めたんだ」 「二十六年間、守ってくれた。それだけで、十分」 久美子は、窓の外を見た。 夕陽が、オレンジ色に空を染めていた。 「毎日、苦しかった」 久美子の声が、震えた。 「桐野さんがテレビに出るたび、胸が苦しくて。ビラを配ってる姿を見るたび、罪悪感で押し潰されそうだった」 「久美子...」 「奈緒さんには、何の罪もなかった。ただ、高志さんを愛していただけ。幸せな家庭を築いていただけ。それなのに、私は...」 久美子の目から、涙が溢れた。 「もう、楽になりたい」 正人は、妻の前に膝をついた。 「俺は、お前を失いたくない」 「ごめんなさい」 久美子は、夫の頬に手を当てた。 「でも、もう決めたの」 「久美子...」 「あなたは、何も悪くない。だから、私だけが罪を償う」 正人は、妻の手を握った。 「いや、俺も行く」 「え?」 「証拠隠滅に協力した。俺も共犯だ」 「ダメよ」 久美子は、首を横に振った。 「あなたは、私を愛して守っただけ」 「それでも、法を犯した」 正人は、妻を見つめた。 「一緒に行こう。最後まで、一緒にいよう」 久美子は、夫の胸に顔を埋めた。 そして、声を上げて泣いた。 二十六年間、押し殺してきた感情が、堰を切ったように溢れ出した。 正人も、妻を抱きしめたまま泣いた。
10
翌日、十月三十一日。午後八時三十分。 安原夫妻は、福岡県警に出頭した。 夜の警察署。明るい照明。 二人は、手を繋いでいた。 「福岡県警の方はいらっしゃいますか」 受付で尋ねると、すぐに刑事が現れた。 昨日の、本庄刑事だった。 「安原さん...」 「お話があります」 久美子は、静かに言った。 「一九九九年十一月十三日の事件について」 本庄刑事は、二人を取調室に案内した。 久美子は、椅子に座った。正人は、その隣に。 「お話を伺います」 久美子は、深呼吸をした。 それから、すべてを語り始めた。 高校時代から抱き続けた、桐野高志への想い。同窓会での再会。奈緒さんの家を訪れたこと。そして、犯行に及んだこと。 「包丁を手にした時、自分でも何をしているのかわからなくなっていました」 久美子の声は、静かだったが、震えていた。 「ただ、彼女がいなくなれば、高志さんが...そんな、愚かなことを考えて」 涙が、頬を伝った。 「彼女は、何も悪くなかった。ただ、高志さんを愛していただけ。幸せな家庭を築いていただけ。それなのに、私は...」 久美子は、顔を覆って泣いた。 正人が、妻の肩を抱いた。 「私も、話があります」 正人は、本庄刑事を見た。 「妻から事件のことを聞いた後、凶器の包丁を処分しました。山の中に埋めました」 「場所は?」 「覚えています。案内します」 本庄刑事は、メモを取り続けた。 二十六年間、誰も知らなかった真実が、今、明らかになっていく。 「安原久美子さん、殺人の容疑で逮捕します」 手錠の音が、静かに響いた。 「安原正人さんも、証拠隠滅の容疑で任意同行をお願いします」 「わかりました」 正人は、立ち上がった。 連行される妻の背中を見ながら、正人は思った。 二十六年間、守り続けた。 それだけで、十分だ。 妻と共に、罪を償おう。 それが、愛するということだから。
第五章「事件を目撃したが記憶には残らなかった者の執念」
1
桐野悠人は、自分の最初の記憶が、三歳の誕生日だということを知っている。 ケーキのロウソク。父の笑顔。「おめでとう」という声。 それより前の記憶は、何もない。 真っ白だ。 母親の顔も、声も、温もりも。 何も覚えていない。 「お母さんのこと、覚えてる?」 父の高志が、時々尋ねた。 小学生の頃も、中学生の頃も、高校生の頃も。 「ううん。何も」 悠人は、いつもそう答えた。 父は、悲しそうな顔をした。だが、それ以上は何も言わなかった。 写真の中の母親は、優しそうな笑顔を浮かべている。 若くて、綺麗で、幸せそうな女性。 だが悠人にとって、それは知らない人の写真だった。
2
悠人が事件のことを知ったのは、小学校三年生の時だった。 放課後、友達の家でテレビを見ていた時。 「未解決事件スペシャル」という番組が始まった。 「次は、福岡市で起きた主婦殺害事件です」 画面に映ったのは、見覚えのあるアパート。 グリーンハイツ。父が時々、連れて行く場所。 「被害者は、当時三十二歳の桐野奈緒さん」 母の写真が、画面に大きく映った。 「現場には、当時二歳の長男がいましたが、事件の記憶はないとのことです」 悠人の手が、震えた。 「これ、お前んち?」 友達が尋ねた。 悠人は、答えられなかった。 その日、家に帰って、父に尋ねた。 「お母さん、殺されたの?」 父は、箸を止めた。 しばらく沈黙した後、ゆっくりと頷いた。 「ああ。お前が小さい時に」 「誰に?」 「まだ、わからない」 父は、悠人の頭に手を置いた。 「でも、必ず見つける。約束する」 「僕、そこにいたの?」 「ああ」 「でも、覚えてない」 「それでいいんだ」 父は、優しく微笑んだ。 「覚えてなくていい。辛い記憶は、忘れた方がいい」 だが、悠人は思った。 本当に、それでいいのだろうか。
3
中学生になると、悠人は事件について自分で調べ始めた。 図書館で、古い新聞記事を探した。 「主婦刺殺事件、犯人逃走」 「現場に残された血痕、DNA型鑑定へ」 「遺族、情報提供を呼びかけ」 記事を読むたび、胸が締め付けられた。 そして、ある記事に目が止まった。 「現場には当時二歳の長男がおり、犯行の瞬間を目撃していた可能性がある。しかし、幼児のため証言は得られていない」 僕は、見ていたかもしれない。 母が殺される瞬間を。 犯人の顔を。 なのに、何も覚えていない。 「なぜだ」 悠人は、図書館の机を拳で叩いた。 「なぜ、思い出せない」 司書に注意され、悠人は謝った。 だが、心の中の叫びは止まらなかった。
4
高校生になると、悠人は父の活動を手伝うようになった。 十一月十三日、命日のビラ配り。 「二十年前、ここで母が殺されました。情報提供をお願いします」 道行く人にチラシを渡す。 ほとんどの人が、受け取らずに通り過ぎる。 受け取っても、すぐにゴミ箱に捨てる人もいる。 「またあの親子か」という視線を、悠人は感じた。 恥ずかしかった。みじめだった。 でも、父の横で立ち続けた。 なぜなら、これが父の生きる理由だと、わかっていたから。
5
大学では、心理学を専攻した。 記憶のメカニズム。トラウマによる記憶の欠落。幼児期健忘。 「二歳から三歳頃の記憶は、脳の海馬の発達が未熟なため、長期記憶として保存されにくい」 教授の講義を、悠人は真剣に聞いた。 「特に、強い恐怖や苦痛を伴う記憶は、心の防衛機制により、意識から排除されることがあります。これを抑圧と言います」 つまり、僕の脳が、あの記憶を封じ込めている。 悠人は、様々な文献を読んだ。 催眠療法。退行催眠。EMDR。認知行動療法。 記憶を取り戻す方法は、いくつかある。 だが、どれも確実ではない。 そして、思い出したとしても、それが正確な記憶とは限らない。 「偽記憶」という現象もある。 悠人は、諦めかけた。 もう、思い出せないかもしれない。 一生、この空白を抱えて生きていくのかもしれない。
6
二〇二五年十月三十一日。 悠人は、フリーライターとして、カフェで原稿を書いていた。 午後九時過ぎ、父から電話が入った。 「悠人」 父の声は、震えていた。 「犯人が捕まった」 悠人の手が、止まった。 「...本当に?」 「今日、出頭してきた。DNA型が一致したんだ」 「誰なの?」 「俺の高校時代の同級生だった。安原久美子という女性だ」 安原久美子。 その名前を聞いた瞬間、悠人の頭の中で何かが動いた。 ざわざわと、記憶の底で何かが蠢く。 だが、何も浮かばなかった。 「そうか...」 「明日、警察で話を聞くことになった。お前も来るか?」 「行く」 悠人は即答した。 その夜、悠人は眠れなかった。 犯人が捕まった。 二十六年間、謎だった人物が、今、明らかになった。 その人は、あの日、僕の目の前にいた。 母を殺した。 僕は、それを見ていたかもしれない。 なのに、何も覚えていない。
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翌日、福岡県警。 悠人は父と共に、取調室に通された。 本庄刑事が、説明を始めた。 「安原久美子容疑者は、すべてを自供しています」 刑事は、資料を開いた。 「高校時代から、桐野さんに好意を抱いていたこと。同窓会で再会し、結婚を知って嫉妬したこと。そして、奈緒さんの家を訪れ、犯行に及んだこと」 悠人は、じっと聞いていた。 「当時、悠人さんは現場にいました」 刑事が、悠人を見た。 「安原容疑者の証言によれば、あなたはリビングで、ブロックで遊んでいたそうです」 「...そうですか」 「犯行の瞬間、あなたは背中を向けていたと。だから、直接は見ていないかもしれません。ただ、物音や、お母様の叫び声は聞いていた可能性があります」 悠人は、目を閉じた。 記憶を辿ろうとする。 暗闇の中、何かを探す。 でも、何も見つからない。 「思い出せません」 「無理もありません。当時二歳でしたから」 刑事は、優しい声で言った。 「でも、あなたが無事だったことが、お母様にとって唯一の救いだったと思います」 悠人の目から、涙が溢れた。 母の最後の瞬間。 彼女は、何を思っていたのだろう。 僕のことを、心配していたのだろうか。
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帰り道、父が言った。 「お前が覚えてなくて、良かったと思ってる」 悠人は、父を見た。 「もし覚えていたら、一生苦しんだだろう。母さんが殺される瞬間を、ずっと脳裏に焼き付けて生きていくことになった」 父は、空を見上げた。 「忘れることも、時には神様からの優しさなんだ」 「でも、僕は知りたい」 悠人は、拳を握りしめた。 「すべてを。母さんのこと。事件のこと。あの日、何があったのか」 「悠人...」 「そして、それを書きたい」 「書く?」 「この事件の全てを、一冊の本にまとめたい」 悠人は、父を真っ直ぐ見た。 父は、しばらく黙っていた。 それから、ゆっくりと頷いた。 「わかった。協力する」 「ありがとう」 悠人は、決意を新たにした。 これが、僕の執念だ。 記憶はない。でも、言葉で記録する。 母の死を無駄にしない。 この事件を、世の中に伝える。 そして、同じような悲劇が繰り返されないように。
エピローグ
二〇二六年十一月十三日。事件から二十七年目の命日。 グリーンハイツ二〇二号室の前に、二つの人影があった。桐野高志と、息子の悠人。 二人は、部屋の前で立ち止まっていた。高志の手には、一冊の本があった。 『執念―二十六年目の真実』 著者:桐野悠人 帯には、こう書かれていた。 「四つの執念が交錯し、ついに辿り着いた真実。未解決事件はなぜ解決されたのか。関係者すべてへの綿密な取材により明らかになる、それぞれの人生」
「重いな」 高志は、本を手に取りながら呟いた。 「でも、よく書けてる」 「ありがとう」 悠人は、父を見た。 本には、高志の二十六年間が詳細に記されていた。部屋を借り続けたこと。毎年のビラ配り。法改正運動。執念の日々。そして、その心の内も。絶望、怒り、孤独、それでも諦めなかった理由。 「安原さんのことも、書いた。彼女の人生。父さんへの想い。犯行に至るまでの心の変化」 「読んだよ」 高志は、複雑な表情を浮かべた。 「正直、読んでいて苦しかった。彼女が俺のことを、そんなふうに思っていたなんて、全く知らなかった」 「うん」 「でも、だからといって、奈緒を殺していい理由にはならない」 高志の声が、わずかに震えた。 「それは、絶対に許せない」 「わかってる」 悠人は、頷いた。 「でも、安原さんも苦しんでいた。二十六年間、罪悪感に苛まれていた」 「...そうだな」 高志は、深く息を吐いた。
裁判は、半年前に終わった。安原久美子には、懲役十五年の判決が下された。情状酌量の余地はあったが、人の命を奪ったことの重さは変わらない。安原正人には、証拠隠滅罪で執行猶予付きの判決。 法廷で、久美子は最後に言った。 「桐野さん、本当に申し訳ありませんでした」 深々と頭を下げる久美子。高志は、傍聴席から彼女を見ていた。 「奈緒さんには、何の罪もありませんでした。ただ、高志さんを愛していただけでした。それなのに、私の身勝手な感情で...」 久美子の声が、涙で詰まった。 「一生かけて、償います」 高志は、何も言えなかった。許すことはできない。でも、憎しみだけでもない。複雑な感情が、胸の中で渦巻いていた。
「父さん、この部屋、どうするの?」 悠人が尋ねた。 「今日で、お別れだ」 高志は、ドアノブに手をかけた。 「犯人が捕まった。裁判も終わった。もう、保存する必要はない」 鍵を開け、ドアを開けた。二十七年間、変わらなかった部屋。だが、今日が最後だ。 二人は、部屋に入った。リビングのちゃぶ台。色褪せたカーテン。壁の写真。すべてが、記憶の中にある。 「母さん」 悠人は、写真に向かって呟いた。 「やっと、犯人を捕まえました」 風が、窓から静かに吹き込んできた。カーテンが、わずかに揺れた。 「この本で、母さんのことを、みんなに伝えます。父さんの頑張りも。本庄刑事の執念も。すべて。だから、安心して」 高志も、写真に手を合わせた。 「奈緒。長かったな」 高志の目から、涙が溢れた。 「二十六年。本当に、長かった。でも、諦めなかった。お前との約束を、守ったよ」 悠人は、父の背中を見た。その背中は、以前より小さくなっていた。白髪が増え、背中は丸まり、老いが刻まれていた。でも、その背中には、二十六年間戦い続けた者の、誇りがあった。
