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50代のリアル、病気が転機を連れてやってきた

年始早々、突然発症した脳疾患、2度の開頭手術から新たな日常生活を再構築するまでの記録です。

闘病は悪いことばかりではなく、人生を良い方向に軌道修正する絶好の機会でもありました。


1月4日︰虚血発作のはじまり

53歳になって迎えた元旦は大阪では珍しく大雪だった。

それでも孫は庭で雪だるまづくりの初体験。半年前に購入した田舎のセカンドハウスが一家の思い出づくりになりそうな新年のスタート。

しかしそんな平穏な暮らしは1月4日に突然断ち切られました。

仕事始めの1月4日、帰社時間の18時になり、いつも通りオフィスフロアからエレベーターに向かいました。

仕事仲間に「お疲れ様でした」と声をかけようとすると呂律が回らず、言い直しても結果は同じでした。

そうこうしている間にエレベーターホールについたので、そのまま帰りました。帰宅後は普通に話せたから何も気にせず早めにベッドに入りました。

1月5日:緊急入院

目覚めると体もすっきりしていて気分も良かったので、昨日のことはすっかり忘れていました。そしていつも通り出社。

しかし15時頃に再び左手が痺れだしました。この日はさらに左の口元も痺れだして感覚がなくなりました。

ちょうど歯医者さんで麻酔を打たれたときのような感じです。立ち上がろうとしても左足に力が入りません。

右手でデスクを押し下げてやっとの思いで体を起こしても、一歩も前に進めない。

症状はどんどん悪化していく。痺れは左半身全体に広がってこのまま死んでしまうのでははないかと思った。

それでも痺れは5分ほどで治まったので、パソコンで脳神経外科を検索してタクシーでクリニックに向かった。

到着して10分後にはMRIの中にいました。先生から開口一番、脳梗塞は現時点では起こっていませんと告げられた。

続けて、脳の大動脈のうちの1本が異常に細くなっていて、ほぼ血液が流れていない状態になっていると説明された。

昨日から起こっている痺れや足の脱力は虚血発作が頻発しているために起こっている。

脳梗塞は虚血発作の延長線上で起こるものなので、いつ、脳梗塞に発展し重篤な結果を招いてもおかしくない状態だと続けました。

さらに今すぐ紹介状を書いて地域の急性期病院に入院の受け入れを要請するからタクシーに乗って行くようにと指示されました。

急性期病院の医師から、はじめの虚血発作から48時間が一番危険なので、2~3日は急性期病室で投薬と経過観察をして、合わせて手術に向けた検査を行うとの説明を受けた。

4日の発作から既に28時間が経過していた。5日の帰社前に起こった発作は最初の発作から24時間後だった。この時、脳梗塞まで進行しなかったのは奇跡的だったとも言える。

1月6日︰病室で迎える初めての朝

ふと窓の外を見ると息子(長男)家族が住むマンションが遠くに見えた。昨日は夜中に入院したので気が付きませんでした。

ほんの3日前までセカンドハウスで一緒に食事を楽しんだり雪だるまを作ったりしていたのに、別世界に来たことを実感しました。

ただ私の心は平静でした。昨夜妻にノートパソコンを持ってきてもらっておいたので、仕事のメールを確認したり、脳梗塞のことをググったりして過ごしました。

懸念された脳梗塞の発症も、昨夜から服用している5種類の薬の効果もあり、兆候すらありませんでした。

別の急性期患者の救急搬送が重なったようで、私は一般病棟に移ることになりました。

この日、もっとも時間を費やして考えたことは仕事を辞めるか否かを考えることでした。

検査から手術、そしてリハビリまで含めると2~3か月かかる見込みです。また後遺症や再発の可能性もあることから、元通りに仕事ができるのかも分からない。

治療面では、血液をサラサラにする薬で細くなった動脈の血流や毛細血管からの供給を促進するそうです。

あと血圧を下げたり、胃を薬から保護したりと色んな効能の薬を飲みました。また点滴もあったので脱水症状や血中の酸素濃度も改善し発作も治まりました。

1月7日︰一時退院

検査後、主要な検査はすべて終えたので一時退院して手術日前日まで家で過ごして、また病院に来てくださいとのことだった。

その間に通院して診察と手術の手続きを説明するとのことでした。また、セカンドオピニオンを希望するのなら紹介状を書くので、この間に受診してくださいとの言葉もあった。

手術の実施は最短でも2月前半になる。虚血発作が頻発していたものの薬でそれを抑え込めているので、1か月程度なら問題ないとの判断のようだ。

私にとっては爆弾を抱えたまま、手術を待つ形になるので、もう少し早くできないのかと求めた。

しかし手術に関しては既に予定がギッシリと詰まっていて、手術室も人員もどうすることもできないとのことでした。

ネット情報によるとセカンドオピニオンを取った方が良いという意見が多くそれに感化されつつあったので、その間に別の病院でも診てもらおう考えました。

検索すると偶然にも近所に脳の専門病院があり脳疾患専門外来があることが分かりました。

症例数も関西ではトップクラスで検査設備面でも群を抜いていたので、この病院で診てもらって、本当に手術が必要なのか確認したいと思った。

1月8日︰取締役辞任を決意

1月8日に一時退院しました。東京から次男も来て長男の家で一時退院祝いの食事会を開いてくれました。
 
元旦にあったばかりでしたが、また違った心境になりました。手術次第で意識や身体機能に障害が残る可能性もあるので元気な状態で集まれる最後の会になるかもしれません。

その後、セカンドハウスに移動して、薪ストーブの炎を眺めながら、代表取締役社長を辞任することを決意しました。

50代に差し掛かり、仕事のシフトチェンジを模索していたこともあり、この機会に新たな一歩を踏み出す決意をしました。

ビジネスマンとしては第四コーナーを回った辺りで、仕上げの仕事は自分の思いに正直に選択しようと思いました。

1月11日︰セカンドオピニオン

2日間田舎のセカンドハウスで過ごして11日に都心のマンションに移動しました。24才の娘も福岡から合流し妻と3人で食事をして就寝しました。

翌日の1月12日は入院していた病院での外来診察日です。患者の私と妻、それに長男と娘も加わり団体受診です。

コロナ対策で入室できないかと思いましたが、そこは問題ないということで、すんなり入室出来ました。

先生からMRIやカテーテルの画像や結果をもとに病状と今後の治療方針の説明がありました。

子供達ももう大人なので、それぞれが脳疾患のことをネットで検索してきたようで、自ら質問していました。

私はセカンドオピニオンをとりたいので、紹介状を書いて欲しいとお願いしました。

若干、気まずい雰囲気になりましたが、最近はそういったことも多いようで、当然の権利なので、納得するまで調べたうえで手術を受けられた方が良いと先生も同意してくれました。

1月17日︰取締役辞任届を提出

マンションで起床。阪神大震災の追悼番組を見ながら黙とうを捧げて、妻の運転で会社に出勤しました。

朝の幹部会が終わったその足で会社に辞任届を提出しました。長期間お休みを頂いたので病状の報告と体調不良による辞意を伝えました。

私の進退が決まらないと取締役選任の手続きが進まないため、辞任に備えて対応するよう、総務部長に伝えました。

これで3月末をめどに代表取締役社長を退任し、4月以降、任期満了までは非常勤取締役として任を全うする路線が敷かれました。

1月20日︰2度目の緊急入院

虚血発作から2日目に緊急入院して薬を処方してもらってから、虚血発作がぱったりと止んでいた。

薬を飲んでいれば短期的には問題ないのだろうとたかを括っていました。その幻想が打ち砕かれました。

1月20日、出社後、特に体調に変化は感じていませんでした。しかし席について1時間半ほどっ経った9時頃に突然、強烈な虚血発作が襲ってきました。

明らかに過去のものとは次元が違う左手の痺れから始まり、足の痺れ、次に口元が硬直し痺れた。

そしてはじめて左上半身の全ての感覚が遠のいていき死を覚悟した。

その状態が30分は続いたと思います。机に顔をうずめて耐えました。周りの席の社員は営業に出払ってひとりもいません。混とんとする意識の中で、このまま逝ってしまいたいと思った。

手術をしたところで元通りの生活も仕事もできないだろうし、今が人生の絶頂期だとしたら、この先、長い下り坂を降りるだけだろう。

そうだ助けを求めるのはやめよう、ここで人生を終えられたら本望だと本気で思った。

しかし、思いとは裏腹に発作は治まりました。その時、生かされた命なので、大切にしようと思い直し、翌日に専門病院に向かいました。

紹介状には診断書だけでなくMRIやカテーテル検査のデジタルデータもあるので、すぐにこれは危険な状態だと判断されました。

昨日の発作も踏まえて、そのままNCU(脳の集中治療室)に入ることになりました。

また、週明けの月曜日にはPETとSPECT検査も行った上で手術の詳細な方法を決めて実施することになりました。

セカンドオピニオン云々どころではなく、非常に危険な状態なので、家に帰すこともできないというレベル感でした。

1月23日︰院内でも虚血発作が再発

再入院3日目の1月23日15時半ごろに虚血発作が起こりました。専門病院では初めてで、25分間続きました。

ナースコールで看護師さんに来てもらいました。前回の強烈な発作よりも、さらにパワーアップして襲いかかってきました。

そんな中、驚いたことがありました。それは医師が直ぐにはきてくれないということです。

看護師さんが院内専用電話で連絡してくれたのですが、日曜日だったからでしょうか、医師はそのまま様子を見るようにとのことでした。

想像の域ではありますが、発作中に何か手当てができる訳では無いということでしょう。

しばらくしてから医師が来てMRI検査を受けに連れていかれました。結果として脳梗塞に発展することなく、何とか持ちこたえようです。

2月2日︰手術までのカウントダウン

2月2日の手術まで1週間を切り、手術前の検査が佳境に入ってきました。

足の付け根からカテーテルを通して血管の状況を撮影したり、エコーで内臓が手術に耐えられる状態か確認したり慌ただしく過ぎました。

手術のリスクを聞いていると麻痺が残る可能性もあるので念のため遺書を書いておくことにしました。

脳の病気で死亡する人は殆どいないそうですが、脳に障害が残って物事を判断できないようになると困るのでとりあえず書いておきました。

家族への最後の手紙なので、気の利いたことを書こうと思っても、文才がないので言葉が浮かびません。

病気になって初めて考えることや気がづくことも多くて自分に降りかかる出来事には無駄なことなど何もないのだとつくづく思いました。

2月1日︰まさかの手術延期

2月1日、手術前日の朝、担当医が巡回されてきて、いつもなら体調についてふたことみこと質問されて終わりなのですが、今日は異なりました。

昨日は専門病院の手術予定がすべてキャンセルになったと告げられました。

詳しくは聞けなかったのですが、どうも手術スタッフの中で複数人がコロナに感染し、出勤できなくなったため手術が取りやめになったようです。

今後のことは午後の会議で決まるとのことでした。そして結論は最悪のものでした。

私の手術は無期限延期、そもそも手術自体が生死にかかわる状態のもの以外は中止するというものでした。

つまり次の手術日も分からないまま、虚血発作の頻発と向き合い、その待っている間に脳梗塞に至れば、はじめて手術台に乗せてもらえるということです。

結論的には手術の無期限延期以外の選択肢はないのかも知れませんが、患者が置き去りにされているように思いました。

2月5日︰2度目の手術日時決定

手術延期から5日が経ち、ようやく手術日時が決まったと告げられました。2月10日9時スタートです。

ようやく出口が少し見えましたが、手術実施に向け前回の手術予定日前に行った手術前検査をもう一度同じように実施するということも告げられました。

この時、私の腕は点滴を打つ場所を探すのにも看護師さんが苦労するほど、穴だらけになっていました。

3日に1回、点滴の針を衛生上の問題から刺し替えるのですが、国循に来て20日弱、その前も別の病院に入院していて常に点滴はつけっ放しの状態です。

検査ごとに動脈、静脈を問わずあちこちに針を刺すので、腕全体が黄ばんだような状態になっていました。

2月9日︰ようやく手術実施

前回は手術前日の19時半に担当医が来られて手術が中止になったと告げられました。

当時はコロナ禍が続いていて不安が絶えませんでした。そして案の定、2月8日の19時過ぎに担当医が来られて、またも手術が延期されることになったと告げられました。

理由は執刀医のお子さんが通う保育園でコロナ感染者が出て、執刀医が濃厚接触者の濃厚接触者になって今日から出勤停止になったと言われました。

今回は、はいそうですか、とはいきません。私の体はすでに悲鳴を上げていました。

また入院もしていなくて、発作も起きていない方が先に手術を受けられたこともあったので、引き金となり手術の延期は受け入れられないと拒否しました。

そもそも濃厚接触者との濃厚接触で出勤停止にするという対応は医療崩壊を助長するだけで、国が法律で定めている訳でもないので、納得できませんでした。

担当医も一定の理解を示され、上長に相談してみるといって頂き退室されました。

それから1時間ほどして戻ってこられて打ち合わせた結果、別の医師に執刀してもらえることになったので、予定通り手術が実施できることになりましたと告げられました。

他の患者さんに迷惑が掛からないのか、確認したところ他の手術には影響はないとのことでしたので安堵しました。

私が救われても誰かに迷惑をかけては意味がないので、その点は念押ししました。

2月10日︰麻酔から覚めて新たな脳が始動

2月10日、ついに手術が行われました。「手術終わりましたよ、起きてください」といった大きな声で、呼び起されて目覚めました。

あとから聞いたことですが、8時間に及ぶ手術でした。血をサラサラにする薬を前日まで服用していたため、出血が止まらず、なかなか頭蓋骨を元の状態に戻すことが出来なかったそうです。

とはいえ、とりあえず無事に手術は終わったと告げられました。

この先は2月24日ぐらいまで、実は私の中で「記録」がありません。「記憶」についてはそれまで以上にありました。

なぜかというと術後のあまりの痛みに毎日の出来事を記録していたメモ帳を書くことが出来なくなったのです。

それでも術後2日目の朝は痛みが和らいできて気分も良くなってきました。ところが15時ぐらいになるとにわかに体調に異変が生じました。言葉が出にくくなってきたのです。

手術前に術後1週間程度は血流のバランスが変化することにより言語機能障害が出て話しづらくなるケースがあると事前に聞いていました。

なので私自身は特に慌てることはありませんでした。一方、医師や看護師はなぜか慌ただしく動き始めました。

私の場合その原因が異なっていたようです。緊急でCTをとって診断されたのは、脳内に大量の血液が溜まっていて、それが脳を圧迫して話づらくなっているとのことでした。

このまま放置すると危険なので、緊急手術を行いますと告げられました。家族の同意も電話で済ませて、承諾書は後回しにするという慌てようです。

2月12日︰2度目の手術

2度目の手術日となった2月12日は土曜日で、医者は通常の出勤状況ではなかったはずです。

麻酔医も手術予定が基本的にはない土曜日に在席されていたのかも分かりませんが、CTを撮影してから僅かな時間で緊急手術が決まったことだけは確かです。

どれほど多くの方にご迷惑をおかけしたのか、想像もつきませんが、私の手術は19時ごろにはじまりました。

もう一度、頭部を開いて出血が止まらない箇所の止血をして元に戻すというものです。

今回は血管をバイパスするといったことでははないので、約4時間で手術は終わりました。

おそらく日付が変わろうとしていたと思われますが手術後の記憶はありません。

ただ手術中、とても幸福なところにいる夢を見ていて、戻りたくないと思ったところで起こされたことは覚えています。

手術後は1度目と同様の猛烈な痛みが襲ってきました。約24時間は全くと言っていいほど、痛み止めの効果がありませんでした。

なので、痛み止めはいらないと伝えたいのですが、それもできなくなっていました。言語機能が完全に失われ、筆談すらできない状態に陥っていたのです。

相手の話すことは理解できるのに、こちらから何らかの表現をしようとしても、どうやれば良いのか分からないのです。

こういった経験をするまでは、話せないということは相手の言うことが頭で理解できていないのだと思い込んでいました。

実際はそうではなく、頭では理解していて返答したいことも分かっているのに、それを表現するすべが分からない場合もあるのだと、はじめて気づきました。

2月18日︰突然、言語機能が回復

2月18日頃になると2度目の手術で出血が止まって良かったという楽観ムードは消えてきていました。

それよりも、言語機能が回復せず、自然治癒が難しいのではないかという声が、理学療法士チームから聞こえてくるようになりました。

言語聴覚士の先生によるとリハビリ専門病院に転院して2,3ヶ月リハビリを行った方が良いとのことでした。

そんな日々を過ごす中、2月20日の深夜0時過ぎに目が覚めました。点滴を続けている影響でトイレが近くなっていました。

いつも通りトイレを済ませてベッドに戻る時、ふと時計を見た瞬間、あっ「とけいだ!」と突然、言えたのです。

はっきりと単語を口にできたのは再術以来はじめてのことです。すると多くの単語が言えるようになりました。

「ボールペン」「コップ」「歯ブラシ」「薬」「テーブル」・・・手当たり次第に身近にあるものを声にしました。

2月22日︰国循を退院する日が決定

単語が発声できるようになってから3日も経つと、会話もできるようになってきました。Lineも普通に打てるようになってきてました。

あと新たにできるようになったのが、読書です。読み方を考えながら読むのは脳に負担がかかり、5分も持たなかったのですが、この頃になると、1時間でも普通に読書が出来るようになりました。

回復スピードは私自身が信じられないほどで、経過を見守って頂いていた担当医や理学療法士の先生方も驚かれました。

いよいよ転院先探しから急転直下、退院日の目標設定へと会話が変化していきました。

もともと手術後の外傷的な回復は順調だったので、トントン拍子で退院の打ち合わせが進みました。

私は気が早って、退院祝いの赤ワインを病室からアマゾンで発注しました。

2月24日には遂に退院の目途が経ちました。翌日の検査(左写真SPECTという血流量の状態を診る検査)結果が良ければという条件付きではありますが、2月28日に退院できる見込みとりました。

2月28日︰ひとりだけの退院

退院を明日に控えた2月27日、妻からLineがはいりました。

行動を共にしていた長男家族がコロナの陽性者になったので、妻も濃厚接触者になったとのこと。

なので明日の退院に迎えに行ける家族がいないというものでした。

ここに至ってもコロナに苦しめられました。コロナ禍以降、近年の患者さんに共通する問題かも知れません。

私も2度に渡る手術の延期騒動、家族との面会謝絶、そして今回の退院日に身内が来れないという現実を味わいました。

私はまだ生きていて、この先いつでも家族と会えるので何の問題ありませんが、最期の時を迎えられたかたは本当にお気の毒です。

ご家族もさぞお辛かったことだろうと実感しました。

私は紆余曲折がありながらも、無事、退院日を迎えることができました。

しかも後遺症が無い状態で出れることは、病状の経過からすると奇跡的にも思えます。多くの方に支えて頂いたことに感謝しかありません。

3月1日︰退院翌日

福岡で働いている娘が、私が独りでいることを聞きつけ、急遽、大阪に来てくれました。

どうやって仕事の調整をしたのか分かりませんが、素直に嬉しかったです。新大阪駅で出迎えた時、お互いに自然とハグして涙が溢れました。

闘病はこれで終わり、悪いことばかりではありませんでした。



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