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#067|『現場からは以上です』フォロワー1000人の壁に絶望していた私が、ベトナムで髪を切り、地球を一周して"インフルエンサー"になるまで

記事内は未公開画像が盛りだくさんです

ひとつ前の記事を書いてから、
気づけば10ヶ月が経過していた。

正直に言うと、
このnoteの存在すら忘れていた。

10ヶ月という数字だけを見れば、
「たったの10ヶ月」なのか、
それとも「もう10ヶ月」なのか。

今の私にはよくわからないし、
極論、どちらでもいい。

でも、
間違いなく言えることが一つだけある。

10ヶ月前の私と今の私は、
振り返るとまったくの別人のようだ。

いや、
同じ人物の延長線上に過ぎないのだろうが、

置かれている状況も、
見ている世界も、
全くもって違う。

自分の中にまったく新しい何かを構築した感覚がある。

これをどう表現すれば正しいのか、
まだしっくりくる言葉は見つからない。

とにかく私は、
この10ヶ月間、
自分を振り返ることも、
時間の感覚すらも忘れるほどに、
ただひたすらに前を向いて夢中になっていた。

そしてそれが、
いつの間にか一つの確固たる
「形」になっていた。

その話をしようと思う。



◼️ はじまりは、単純だった

インド|タージマハル

今から10ヶ月前。
2025年9月のこと。

7月に久しぶりの海外であり、
初めてのインド旅を経験し終えた私は、
ある決心をしていた。

「11月から1ヶ月かけて、ベトナムを縦断してみよう」

ベトナムを選んだ理由は、
拍子抜けするほど単純だった。

私の旅の先輩である女性バックパッカーベトナムを旅していて、
Instagramのストーリーでその風景や体験をよく目にしていたからだ。

「あの人が行けたなら、私にも行けるだろう」

本当に、ただそれだけだった。
深い理由も、壮大な目的もなかった。

当時の私は、
長期間の海外滞在というものを一切経験したことがなかった。

これまでの人生で、
海外に滞在した最長記録はわずか2週間

だからこそ、
それ以上の期間にチャレンジしてみたかった。

自分にとっての未知の領域である
「1ヶ月」という期間を、
あえて設定した。

それが、
新たな歯車が完璧に噛み合い始める旅の始まりだった。


◼️ スタートは、雨のハノイ

ハノイ|トレインストリート

2025年10月30日、
私は日本を飛び立ち、
最初の目的地である首都ハノイに降り立った。

ここから1ヶ月のベトナム縦断旅が始まる。

ハノイには、
トータルで1週間滞在した。

当時の私は、
ショート動画編集の仕事を持っていた。

1本1,000円といった単価制の仕事だが、
1日に何本かこなせば数千円から1万円になる。

ベトナムの物価なら、
一泊500〜600円の安宿に泊まり、
一食300円前後のご飯を食べることで、
旅をしながらでも少しずつ手持ちのお金がプラスになっていく計算だった。

滞在中、ハノイは1日中雨が降り続いていた。

おかげで観光らしい観光はほとんどできなかったが、
当時の私にとってはそのくらいがちょうどよかった

無理に出歩く理由がない分、
宿やカフェにこもって動画編集の仕事が捗ったからだ。

異国の街の雨音を聞きながら、
私は淡々と日々の作業をこなしていた。


◼️ 何を投稿しても伸びない、手探りの日々

Insta360 go 3s 使い慣れなかった

しかし、
このハノイでの生活は、
ただクライアントの編集作業だけをして過ごしていたわけではない。

むしろ、
「自分自身が発信する動画を作りたい」
という思いを行動に移し、
もがいていた時期でもあった。

ただ、
肝心の自分の動画の「型」
全くわからなかった。

だから、
とにかく回せる時はカメラを回し
伸びている成功事例の動画を見つけては、
そのスタイルを真似て作ってみた。

どんな形でもいいから、
とにかく毎日何かしらの動画を投稿しようと努力し続けた。

だが、現実は甘くなかった。

手探りで作った動画のスタイルは見事にバラバラで、
アカウントには統一感の欠片もない。

撮影に何時間もかけて一生懸命に編集したVlogを作ってみても、
見事なまでに鳴かず飛ばずだった。

再生回数はせいぜい500回から、
良くて1,000回に届けばいい方。

この時点では、
自分がどうやったら画面の向こうの誰かに見てもらえるのか、
その正解が全く見えていなかった。


◼️ 恐怖だった、ドンホイの深夜到着

南へ向かうため、
私は初めてベトナムの夜行バスを利用した。

目的地であるドンホイに到着したのは、
夜中の3時45分頃だった。

バスを降りて周囲を見渡すと、
そこは市街地から大きく外れた、
閑静すぎる住宅地のような場所だった。

周辺には誰一人歩いておらず
タクシーも捕まらない状況に、
強い警戒心を抱いた。

夜道にぽつんと日本人女性ひとり。

もしこれが数ヶ月前に訪れたインドであれば、
トラブルに巻き込まれていてもおかしくない状況だからだ。

周囲に人影はなく、
助けを求めることもできない。

他に手段がない以上、
歩く以外に選択肢はない。

私は徒歩で宿を目指すことにした。
2時間ほどかかる距離だった。

私は重い荷物を背負い、
警戒しながら暗い道をひたすら進み続けた。

ところが、
私は歩みを進めるうちに、
ある事実に気づくことになった。


◼️ 驚愕の、ベトナムの治安の良さ

歩いてたらあったイルカ像

深夜の路上を長時間歩いたにもかかわらず、
不審な人間と遭遇することは一度もなかった。

それどころか、
野良犬すら全く見当たらなかった。

そして歩いているうちに、
夜明けが近くなってきた。

なんと、
ベトナムの人々は朝が早い

まだ薄暗い公園で瞑想する人々
川沿いをジョギングする人々など、
多くの地元民は早くから朝活をしていたのだった。

街全体が非常に穏やかで、
極めて高い安全性が保たれていることを、
こうして自分の足で歩くことで確信した

この日の深夜の移動は、私にとって
「ベトナムは深夜でも安心して歩けるほど治安が良い」
という事実を、身をもって理解するきっかけとなった。


◼️ クイニョンでの直感、切り落とした髪、そして覚醒の朝

クイニョンスクエア(街中心部)

5日間滞在したドンホイを離れ、
フエ・ダナンを1日ずつ滞在して通り過ぎた後、
私はベトナム統一鉄道に乗り込んだ。

5時間半ほど揺られ、
たどり着いたのは
「クイニョン」という街だった。

最寄りのディウチー駅から市街地までは
車で30分ほどの距離だった。

Grabバイクに乗って宿の付近まで行き
クイニョンの街に降り立った瞬間、
妙にほっとしたのを覚えている。

空が広く、
観光客の姿もほとんどない。

道幅が広く作られており、
これまでの都市で感じていた
交通量の多さや歩きづらさがなく、
街全体に開放感があった。

到着した初日、
クイニョンスクエアという広場を歩いているとき、
私はまだこの街のことをほとんど知らないにもかかわらず

「私はこの街が好きだ。いつかここに住むだろう」

直感的に思った。

そしてここから、
私の人生は徐々に変わり始めることになる。


クイニョン到着初日
私はふと思い立って髪を切ることにした。

当時の私は、
胸の下まである重めのロングヘアだった。

髪が長いころのワシ(左)

2024年に神戸でバーの運営に携わり、
本気でバーテンダーをしていた時期があった。

身だしなみとして髪をまとめるために
伸ばし始めたのがきっかけだったが、

最終的にその店を辞める運びとなり、
私の中には非常に嫌な記憶として残っていた。

しかし、
せっかく伸ばした髪を切る決定的な理由もなかったため、
その「過去の遺産」のような長い髪を
無意識に引きずり続けていたのだ。

バーテンダーやってた頃のアテクシ 26歳 かわいい

そしてその時私は、
ベトナムの水質が合わなかったのか、
髪がひどく絡まるようになり、
それがストレスになっていた。

私はクイニョンの道端にあった
ヘアサロンに飛び込み
髪を切ってもらった。

海外で髪を切ってもらうのは、
初めての体験で楽しかった。

仕上がりは、
レイヤーカットとは名ばかりの、
ひどくバサバサで不格好なものだった。

※ちなみにシャンプー&カットで1,200円でした(安)


しかし、
この不格好な散髪が、
私の中の何かを決定的に変えた。

翌朝
私は宿から近くのランドリーショップへ
洗濯物を出しに出かけた。

その道中、
なぜか突然、
スマートフォンのカメラを自分の顔に向け、
話し始めたのだ。

それまで、
自分自身を映して喋るようなスタイルの動画を撮ったことは一度もなかった。

寝起きですっぴん
しかも昨日切られたばかりの
ひどい髪型だったにもかかわらず、
私は自然とカメラに向かって喋っていた

なぜそんな行動に出たのか、
どうして急にできるようになったのか、
自分でもわからない

宿に戻ってから、
撮影した素材にテロップとBGMをつけて投稿した。

翌日も同じように
「おはようございます、今から朝ごはんを探しに行きます」
日常を映した動画を作った。

2本目を撮影し終えた直後、
「すごくやりやすい、しっくりくる」
という確かな感覚があった。

因果関係は証明できない。

しかし、
あの嫌な思い出とともに
伸びていた髪を切り落としたことで、

潜在意識に根強かった
過去への執着を強制的に脱ぎ捨て
新しい自分を表現するスイッチが入ったのだろう。
そのように私は解釈している。


◼️ 5本目の動画での大バズり

ずっと雨のニャチャン

クイニョンで感じた直感と、
自分にカメラを向けるという新しいスタイル

これが正解なのかどうかはまだわからなかったが、
私はとにかくこの制作方法を続けようと決心した。

その後、
バスで次の街「ニャチャン」へ移動した。

雨のニャチャンでも、引き続き動画を投稿した。

チェックインしたホテルの部屋から外を眺めながら
「この街はあまり好きじゃないかもしれません」
とこぼす動画や、

銀行へ両替に行ったものの日本円が対応しておらず
たらい回しにされる動画など、
相変わらず手探りの内容だった。

伸びる確証なんてどこにもなかった。

それでも、
カメラを自分に向け、
ありのままの日常を切り取って投稿する作業を、
私は淡々とやめずに続けていた。


変化は、本当に唐突に訪れた。

この新しいスタイルで投稿した5本目の動画が、
予想もしていなかった勢いで大バズりしたのだ。

宿の近くにあったローカルスパ
300円のシャンプーを受けるという内容の動画だった。

最初は数十万再生のあたりで一度数字の動きが止まったが、
そこから再びじわじわと伸び始め、
現在では230万回再生という数字になって残っている。

これまで、
何をどう工夫しても越えられなかった壁。

それが、
過去の執着を切り落とし、
ただ素顔の自分をさらけ出して喋り始めた途端にあっさりと崩れ去った。

手探りの中で見つけた一本の道が、
ひとつの正解へと繋がっていることを実感した瞬間だった。


◼️ 命拾いしたルート変更と、野生のロシア人

1日違っていたら、、、

ニャチャンでの滞在の次に、
山の上にある「ダラット」という街へ向かう予定で
バスを予約していた。

しかしその頃、
降り続いていた大雨の影響で、
深刻な自然災害が発生した。

ダラットへ向かう道で土砂崩れが起き、
道が封鎖され、
巻き込まれた観光バスの乗客6人が亡くなったというニュースを告げられた。

それは、
私が乗る予定だったバスと全く同じタイプの車両だった。

もし日程が1日ずれていたら、
私がそのバスに乗っていたかもしれない。

自分がギリギリで命拾いをした事実を噛み締めていると、宿のオーナーに
「ダラットにはもう行けないから、別の場所を考えなさい」
と諭された。

同じ宿に泊まっていた韓国人男性
「ムイネーという街がいいよ」
と勧めてくれたため、

私は行き先を南のムイネーへと変更し、
バスに乗り込んだ。


ムイネーに到着した私は、
街のメインエリアにあるホステルの、
ごく一般的なミックスドミトリーにチェックインした。

そこで、
一人のロシア人男性と知り合った。

当時27歳だった私に対し、
彼は25歳

長い金髪を持ち、
鍛え上げられた筋肉質な体つきをした、
まさに「野生」という言葉が似合う人物だった。

私から特に興味を持っていなかったのだが、
彼からの強いアプローチもあり、
気づけばそこから約1週間を彼と共に過ごすことになった。

ワシ+ロシアニキ+イタリアニキ

彼が好んで足を運ぶのは、
観光客が群がるような名所
整備された市街地ではなかった。

誰も行かないような断崖絶壁や、
大海原が見渡せる手つかずの大自然ばかりだった。

ここは比較的観光地ではある

私は彼が運転するバイクの後ろにまたがり、
彼が見ている景色を一緒に見た。

狂犬病などのリスクを承知の上で、
動物たちと無邪気に触れ合う彼。

むき出しの自然と一体になって生きるその姿は、
私の目には幸せそうに映った

「自然の中で生きるというのは、こういうことなんだ」

それまでの私は、
東京や大阪といった「都会」に憧れ
そこで勝負をしては
うまくいかないという経験ばかりを繰り返してきた。

自然に触れることや、
農業のような一次産業に携わることを、
心のどこかで下に見ているようなところすらあった。

しかし、
この野生のロシア人と過ごした時間は、
私のそんな凝り固まった価値観を根底から覆した

年下には見えないんだよなあ

このムイネーでの体験が、
のちに私が山梨の農家へと足を運ぶ、
最も大きな転換点になるとは、
この時の私はまだ知る由もなかった

なんやかんや彼と過ごすために、
私はギリギリまでムイネーでの滞在を引き延ばした。

最後の2日間は彼と一緒にホーチミンへ移動し、
そこで別れを告げた。

2025年11月末のことだった。

こうして、
私の人生を大きく変えたベトナムでの1ヶ月は幕を閉じた。


◼️ ジメジメしたロンドンと、ビッグベンの前で切り取った「異質さ」

GRLで揃えた服 in ロンドン

実は最初から
ベトナム1ヶ月縦断旅のあとは、
ロンドンに住んでいる友人を訪ねることになっていた。

ホーチミンから出発して武漢で飛行機を乗り継ぎ
私はロンドンへと渡った。

現地でワーホリ中の友人の
シェアハウス
に身を寄せ、
2週間をそこで過ごすことになった。

しかし、
ロンドンに降り立った私は、
すぐに深い落差に打ちのめされることになる。

つい数日前まで、
暖かいベトナムで汗をかきながら、
何を買っても数百円程度の物価の中で、
半裸のロシア人と共に1日を豊かに生きていたのだ。

それが一転して、
極寒の冬。
短い日照時間。
一日中降り続く冷たい雨。

その上、
外食をすれば一食で3,000円があっさりと消えていく。

「えっと、バカなんですか?」

自ら選んで来たはずなのに、
あまりの物価の違いと環境の変化に、
思わず自分をそう罵りたくなった。

心身ともに凍えそうな日々の中で、
私は動画編集の仕事を淡々とこなしながら、
仕事終わりに観光地を巡るという、
なんともチグハグな毎日を送っていた。


なんとなく行った夜のビッグベン(危ない)

そんなジメジメとしたロンドン生活の中でも、
私は動画の投稿だけは止めなかった。

そんなある日、
仕事に追われ、
気づけば日も暮れかけていた。

このまま一日が終わるのはあまりにも虚しい

そう思い立ち、
私は有名な時計台「ビッグベン」の前まで足を運んだ。

その時だった。
異様な匂いに気づいた。

おしっこと、
マリファナの匂い
が混ざり合った、
なんとも言えないロンドンの街の空気

「こんなことを言えば、面白がって見てくれる人がいるかもしれない」

ふと脳裏をよぎった直感に従い、
私はカメラを回してこう放った

『おしっことマリファナの匂いがしています。
 とっても素敵ですね』

狙ったわけではない。
ただ、目の前の光景をそのまま切り取っただけだった。

だが、
この動画は爆発的な反応を呼び、
再生数は一気に跳ね上がり、
当時の私を代表する1つの作品となった。


◼️ 試行錯誤の果てに、マーケティングの視点で見えたこと

25歳くらい カメラ小僧だったワイちゃん かわいい

ここで少し、
私のバックグラウンドについて触れておく。

私は社会人になってからずっと、
SEOをはじめとする、
デジタルマーケティングの業界に身を置いてきた。

数値を分析し、
改善策を試すというプロセス自体は好きだったし、
得意でもあった。

しかし、
自分が発信する側になると話は別だった。

過去に職場のSNSを運用したり、
個人で動画を作って投稿したりと試行錯誤を繰り返したが、
フォロワーが1,000人を超えることは一度もなかったのだ。

今回のベトナム旅でも、
ハノイにいる時から手探りで投稿は続けていたが、
再生回数は数百回から、良くて1,000回程度で止まっていた。

どうすれば画面の向こうの誰かに見てもらえるのか
答えが全く見出せない状態だった。


皮肉なことに、
何をどう計算しても超えられなかったその
「フォロワー1,000人の壁」が、

ロンドンの街角で放ったこの一言によって、
あっけなく崩れ去ったのだ。

結局のところ、
拡散の仕組みは全てアルゴリズムの上にある。

その場の空気と自分自身のリアルな感性をさらけ出すという
「異質な切り口」こそが、
アルゴリズムに乗るための鍵だったのだ。

小奇麗な観光動画を求める層ではなく、
もっと生々しく
異質なものに惹かれる層へ向けて言葉を投げたこと。

そうしてデータと感性を掛け合わせた時、
「どうすれば見てもらえるのか」
という答えのひとつに
ビッグベンの動画を通じて辿り着くことができた。


◼️ 都会の閉塞感と、NZワーホリへの決断、そして山梨

ワタクシが寝泊まりしていたソファ in ロンドン 腰が痛かった

先にも書いた通り、
ロンドンでの日々は、
私に強烈なコントラストを突きつけた。

現地でワーキングホリデーに奮闘する友人の姿は眩しく、
私も自分なりのワーホリを経験したいという思いを強くした。

しかし、
ジメジメとした冬のロンドン
街に漂う特有の緊張感や閉塞感の中に身を置くうちに、
一つの確信が芽生えていた。

「私は、こういう場所で生きたいわけじゃない」

かつて東京や大阪という大都市で勝負してはうまくいかず
どこかで行き詰まりを感じていた過去

そして、
第一次産業である農業
「自分がやるべきことではない」と、
どこか斜に構えて見ていた自分。

そんな都会的な価値観を、
ベトナムのムイネーで出会った野生のロシア人
根底から覆してくれたのだ。

大自然と一体になって生きる彼の姿を知った今、
自分にとっての「幸福」は、
コンクリートに囲まれた都市ではなく
もっと豊かな自然環境にあるのではないか。

そう考えた時、
都会での生活への未練は影を薄めていった。


フルーツピッキングが盛んになる9月から、ニュージーランドへワーホリに行こう。」

まずはその決断を軸に、
ロンドンの部屋の片隅で、
私は自分の進むべき道を具体的に描き始めた。

「9月まではまだ時間があるから、ニュージーランドに行く前に、日本で農業をやってみよう」

急激にその欲求が湧き上がった
ニュージーランドという未知の地へ飛び込む前に、
まずは日本で農業の現場を知り、
自分の手で何かを育てる感覚を掴んでおきたい。

私はロンドンのシェアハウスの部屋で、
日本の農業バイトを探し始めた。

そして見つけたのが、
山梨県にある桃農家の求人だった。


私はその求人に応募し、
地球の裏側から日本の農家へとテレビ通話をかけた。

話は早く、その場で採用が決まった。

「ニュージーランドに行く前の数ヶ月間は、山梨で桃作りを経験しよう」

これまで興味すら持たなかった分野だが、
今は私が目指す場所への必要な過程となっていた。


◼️ 予期せぬアメリカ、「地球一周」の果てに

死ぬ前に食べたいものはTakisです

山梨への道筋が固まり、
心に余裕が生まれるかと思いきや、
私の旅はさらなる急展開を迎えていた。

少し前、ムイネーでの滞在中、
ロンドン滞在後の予定が何も決まっていないという不安を
Instagramのストーリーに流したときのことだ。

ロサンゼルス(LA)に移住し、
子育てに奮闘していた知人から、
一通のメッセージが届いた。

「LAにおいでよ!一緒にロードトリップしようよ」

行き場を失いかけていた私にとって、
それは願ってもないチャンスだった。

迷う理由はどこにもない。

私は即断即決でその誘いに乗り、
新たな目的地をアメリカに定めた。

しかし、
現実は甘くなかった。

物価の高いロンドンでさえ、
ベトナムとの落差に打ちのめされていたというのに、
次なる地は世界屈指の物価を誇るアメリカだ。

移動費用を抑えるために選んだのは、
格安の乗り継ぎルート

ニューヨークを経由し、
丸2日かけての長旅は、
体力も精神も削り取るものだった。

到着直後、
限界を超えていたのか、
私は気管支炎と膀胱炎とカンジダを発症し、
ボロボロの状態に追い込まれた。

色々な薬をもらって飲んだ。これはカンジダかな?

それでも、
私の旅は休むことを許さない

到着して一晩休んだ翌朝には、
もうLAからのロードトリップがスタートしていた。


準備不足で体調も最悪

2歳の子どもを持つ友人にさらにおんぶにだっこ状態という、
あまりにも情けないスタートだった。

それでも、
LAを出発してフェニックス、セドナ、アンテロープキャニオン、グランドキャニオン、そしてラスベガスへと続く約1週間の旅は、
私の想像を遥かに超える世界を見せてくれた。

グランドキャニオンでご満悦のおいちゃん
ルート66?なにそれ美味しいの?でもとりあえずカッコつける

移動手段は初めての、
自動運転のテスラ

助手席から見るアメリカの景色は圧倒的で、
何もかもが壮大だった。

しかし、
テスラの中は快適であっても、
都市間の移動中は電波が通じない場面も多く、
動画編集の仕事を道中にするなどもってのほかだった。

私の本当の戦いは、
観光を終えて宿にたどり着いた夜の時間帯にあった。

日中は絶景を楽しみつつも、
夜になればそこからが勝負だ。

仕事の動画編集を数本こなし、
納品を済ませる。

その合間を縫って
自分の動画を撮影し、
編集して、投稿する

ロードトリップ中
そんな日々を、
ひたすら繰り返していた。

マイケルジャクソンの星にも来る夢が叶った

社会経験の乏しさ、
アメリカ社会に対する圧倒的な無知。

旅の途中、
私は共に旅をしてくれた友人たちに多大な迷惑をかけてしまった。

それでも彼女たちは、
未熟な私を温かく迎え入れ、
私の動画制作活動にまで配慮してくれた。

その寛容さには、
今振り返っても感謝の念しかない。


アホみたいなサイズのPizza

アメリカでのクリスマスを終えると、
あっという間に年末が訪れた。

振り返れば、
日本を出発してからのこの2ヶ月間は、
途方もない経験の連続だった。

ベトナムでの覚醒
ロンドンでの寒さと孤独
そしてアメリカでの圧倒的な絶景と人との関わり

2025年12月28日。
成田空港に降り立った私は、
自分が歩んできたルートを地図上で辿り、呆然とした

ベトナム、
ロンドン、
アメリカ、

そして日本

気づけば私は、
地球を丸々一周して帰国していたのだ。

日本を出発した当初
こんな結末は1ミリも予想していなかった。

けれど、
この地球一周の旅は、
私の価値観を根底から書き換えるには十分すぎるほどの重みを持っていた。


◼️ 帰還、そして脱皮。東京への決断

これには実家の猫ちゃんもニッコリ(してない)

2026年1月。

日本に戻った私は、
物理的にはかつての場所に戻っていた。

しかし、
私の魂から見える世界の解像度は、
出発前とは比較にならないほど高まっていた。

地元には、
以前の私が都会の生活でボキボキに折れた心を癒やすために構築した、
シェルターのような生活があった。

小売店でのアルバイト
ピアノの習い事、
動画編集の仕事、
そして実家での娘であり孫であるという役割

それらはかつての私にとって、
崩れかけた自分を取り戻すための役割だった。

だが、
今の私には明確な目標がある。

3月末からの山梨・桃農家での経験、
そして9月のニュージーランド・ワーキングホリデー

次なるビジョンが、
すでに目前まで迫っていた。

11月以前の私にとって「日常」だったものは、
帰国した瞬間に「過去の遺物」へと変貌していた。

都会で自分自身の無価値さに打ちのめされ、
軸を失っていたあの頃の私を救うために必要だった環境は、
もう今の私には必要ない。

目的は果たされたのだ。

「もう、ここは私の居場所ではない」

そう気づいたとき、
迷いはなかった。

私はアルバイト先の店長に
「やりたいことが見つかったので、今月で辞めます」
と伝えた。

ピアノ教室も同様だ。

「今までありがとう」

そう心の中で唱え
私は過去の自分を守っていた小さな殻を、
一つずつ丁寧に脱ぎ捨てていった。


「ワーホリには、金が要る」

この圧倒的な事実に立ち返ったとき、
私のやるべきことは明確だった。

1月下旬から3月末までの約2ヶ月間
一切の妥協を排して資金を稼ぎ切る

そのためには、
地元に留まるよりも、
より高時給な環境へ飛び込む必要があった。

私は最後となるアルバイトのシフトを終え、
その足で東京へと向かった

東京という街は、
かつて私を挫折させ、
心を折った場所だ。

しかし、
今の私はあの時の私とは違う

地球を一周し、
「自分の意志で選択する」という
軸を手に入れた私にとって、
東京はもはや恐れる場所ではない


◼️ 導かれた先に見つけた「運命の縁」

その頃、都内、大雪

2026年2月、
私は都内の会社で派遣の事務職に就いた。
住まいは都内に住む友人の部屋を借りた。

完全に金のためだけの、
期間限定の割り切った生活

大自然を求めて旅をしてきた私にとって、
オフィスに座り続ける毎日は、
魂をすり減らすような退屈と不自由の連続だった。

しかし、
運命はこんな退屈な日々の合間に、
突如として動き出した。

仕事終わりのある夜
外食をしていたときのことだ。

一人の男性に声をかけられた。

よくあるナンパだろうと高を括り、
最初はのらりくらりと適当にあしらっていた。

だが、会話の中で私が何気なく
「こないだベトナムを1ヶ月かけて縦断してきたんですよ」
「そのあと、イギリスとアメリカも回ってきて」

と伝えた瞬間、
相手の目つきが鋭く変わった。

『俺も旅好きやねん!』

その言葉の裏側には、
単なる観光旅行とは一線を画す
熱狂的な旅人の匂いがあった。

話を聞けば聞くほど、
彼もまた、
私や私が参考にしていた旅の先輩と同類だった。

普通の人には理解されないような、
ある意味で狂った
旅に人生を賭ける類の人種だ。

意気投合し、
私は自分のInstagramのアカウントを見せた。

当時はフォロワー3,500人程度。

過去にバズった動画の数々を見せると、
彼は信じられないという表情で叫んだ。

「俺これ見たことある!!!!!」
「この動画を作っている人なの!?」

こんな体験は初めてだった。

旅を通じて生まれたコンテンツが、
直接、私の目の前にいる旅人を動かしていた。

彼は興奮した様子で私に言った。

「こんな凄いことができるのに、単なる金稼ぎのための仕事をしている場合ではない。
もっと自分の価値を高めるために、やるべきことがあるはずだ」

彼は、
私のクリエイティビティと発信の可能性を誰よりも強く肯定してくれた。

ちょうどその時、
都会での仕事に嫌気がさしていた私は、
3月上旬のベトナム行きの航空券をすでに手配していた。

「実は来月、またベトナムに行くんです」

私がそう告げると、
彼は躊躇なく決断した。

「今後、君のSNSを本気で拡大させていきたい。
全力でサポートするから、まずはベトナムで一緒に旅をしてみよう」

初対面のその日。
彼は私の旅程に合わせて自身のスケジュールを組み、
ベトナムで合流することを即座に決めた。

私の旅が、
そしてインフルエンサーとしての活動が、
一気に「ビジネス」という熱を帯びて動き出した瞬間だった。


◼️ 軸の発見と、自己変容の論理

ウニのような、ウニじゃないような、ウニを一緒に食べた

彼の言葉に、
私は少しほっとした

これまで社会人として生きてきて、
自分を正当に評価されていないような、
人の都合に私という駒が使われているような、
そんな居心地の悪さをずっと感じていたからだ。

23歳で社会に出て、
コロナ禍の東京で住む場所を転々としながら、
目の前に流れてくる縁に従うように生きてきた。

気づけばもう28歳だ。
いわゆるアラサー
若いからという理由で多めに見てくれるような歳ではなくなった

自分という人間の軸を見つけきれず、
ずっともがいていたし、
「一見軸があるようで、本当は軸がない」なんて、
洗脳みたいにレッテルを貼られることだってあった。

でも、
この東京で彼に出会った時
直感的に思った

「ここから、人生が変わるかもしれない」

根暗で疑り深い私がそう思えるほど、
彼の言葉は力強かった。

ようやく自分をちゃんと見てくれる場所に出会えた気がした。


その直前、出雲大社行ってた 関係あるかは知らん かわいいね

今回、
明らかにこれまでとは違う「縁」が舞い込んできた。

これは間違いなく、
私自身が変わったことの証明だと思っている。

振り返ってみれば、
私が他人に利用されてばかりいたのは、
結局のところ、
私自身が無意識に他人に「利害関係」を求めていたからだと考えている。

「この人といた方が自分に利益があるかも」
打算的な目線で人と関わっていた。

だからこそ、
同じように私を利用しようとする人たちを
引き寄せてしまっていた。

でも、
この10ヶ月
私が唯一やってきたこと。

それは「自分の人生を生きる」ということだけだった。

それまでの私は、
「あの人が言うなら、納得していなくてもそうしよう」と、
他人の人生を生きていた。

そりゃ、
うまくいくはずがない。

だからこそ、
すべての人脈を断ち切り
地元に戻ってゼロからやり直した

家庭環境から植え付けられた、
幼い頃からの「自分はダメだ」という自己否定の呪縛すら、
今の私はほとんど剥がし取れたような気がしている。

海外という、
言葉も通じない未開の地に飛び込み、
行きたい場所へ行き、
やりたいことをやる。

必要な情報は自分で聞きに行き、
そのすべてを世界に発信し続ける。

自分を惑わせるような言葉や環境は、
全部遮断してきた。

そうやって、
自分が本当に心地いい
「動画のフォーマット」
「自分自身のあり方」を徹底的に最適化し、
それを今日までただ淡々と続けてきた。

結局、
私が環境を変えて、
自分の世界をクリエイティブの力で最適化したからこそ、

その「変化した私」に見合う新しい縁が、
必然的に引き寄せられてきたんだろう。

因果関係なんて単純だ。

自分が変われば、
見える景色
も、
出会う人
も、
驚くほど変わるものなのだ。


◼️ 2回目のハノイ、ライブ配信という新たな「武器」

伝説のはじまり

フォロワー数はまだ4,000人にも満たなかった。

それでも、
東京で出会った彼がくれた言葉を信じ、
私は3月、再びベトナムに向かった。

最初の旅でハノイに降り立ったとき、
私はまだ自分の動画の「型」を見つけられずにいた。

だからこそ、
もう一度ハノイに戻りたかった。

過去の自分に対し、
「今の私ならこう撮る」
という答え合わせをしたかったのだ。

クリエイティブなんてものは、
最初は100%自己満足だ。

でも、
それが評価され、
誰かに届き
誰かの助けになった瞬間、

ただの「好き」は
「社会貢献」へ
と変容する。

私はベトナムについて何も知らなかったあの頃の自分に見せるように、
ハノイの体験を記録した。

同時に、
人生で初めてのライブ配信にも挑戦した。

路上のプラスチック椅子に座り、
フォーを啜り、
フルーツ売りのおばさんからドラゴンフルーツを買ってその場でかぶりつく。

そんな飾らない姿をリアルタイムで流し、
視聴者のコメントを読み上げては笑う。

最初は怖かった。

でもやってみると、
どうやら私には「話す」という才能があるらしい。

「頭の回転が早い」
「話が面白い」

そんなコメントが次々と届く。

動画の編集技術だけでなく、
ありのままの私をそのまま出すライブ配信に、
根強いファンがつき始めた。

その日以来、
体調不良や移動日を除き、
私は今日までほぼ毎日、
一度も欠かさずライブ配信を続けている。


◼️ 帰らないという選択、発信者としての覚悟

テラスからゴルフ場を眺めるワタス

本来、
3月のベトナム旅は、
東京の派遣事務を10日間休んでの旅行だった。

しかし、
10日間で新しい自分を見つけてしまった以上、
元の生活に戻るなんていう選択肢は、
もう私の頭の中にはなかった。

ハノイの夜、
最後のライブ配信を切ったあと、
シャワーを浴びながら、
ふと思った。

「このまま空港に行って、飛行機に乗って、元のオフィスに戻るのか?」

答えは「No」だった。

迷わず、あの彼に連絡した

「帰りません。もう少し、ベトナムに居たいです」

すぐに彼から電話がかかってきた。

私の決意を、
彼は誰よりも強く祝福してくれた。

そして、
「あなたがそう決めたのなら、帰りの航空券は祝いとして俺が買うよ」
と言ってくれた。

もう、
ここからは趣味でやっていた発信ではない。

私はここで、
自分という人間を「発信者」として育て上げるのだと、
心の底から誓った。


◼️ 始まりの地・クイニョンへ

クイニョン行きの寝台バス

とはいえ、
私にはまだ果たすべき約束があった。

3月末からは
山梨での桃農家生活が決まっていたからだ。

急な欠員で迷惑をかけることはしたくない。

だからこそ、
月末までの期間限定で、
私はさらなる滞在延長を決めた。

延長を決めた20日間の中で、
どうしても行きたい場所があった。

私の「始まりの地」
クイニョンだ。

そこには不思議なパワーがある。

降り立った瞬間に感じる、
あの吸い込まれるような清々しさ

髪をバッサリと切り、
自分自身に初めてカメラを向けたあの朝。

あの時500人だったフォロワーは、
地球を一周して4,000人になり、
今や私はその地へ帰ってきた。

クイニョンでの1週間、
私はたくさんの動画を制作した。

自分の好きを探すことは大切だと気づいた at クイニョンビーチ

結果は、
数字となって現れた。

フォロワーは7,000人へ。

ダナンへ移動して過ごした最後の2日間は、
毎日400〜500人ずつフォロワーが増え続けていた。

本来なら、
このまま旅を続けるのが正解かもしれない。

これだけ毎日勢いよく数字が伸びているんだ。

普通に考えれば、
ここで止まるなんて愚かだ。

それでも私は、
予定通り日本へ帰り、
山梨へ向かう準備をしていた。

東京の仕事はあんなにあっさりと捨てたのに、
なぜ山梨行きだけは譲れなかったのか。

言葉にするのは難しい

でも、あの時の私には、
山梨に行かなければならない「不思議な力」と、
それが私にとっての次の必須課題であるという確信があったのだ。


◼️ 山梨へ向かった私の直感

お花をあげましょ 桃の花(?)

山梨県笛吹市。

オーナーとの対面で、
私は率直に自分の状況を伝えた。

ロンドンで応募した当時
フォロワー1,300人だった私が、
今は7,000人規模の発信者になっていること。

今の自分にとって、
この先どう動くべきかという切実な事情

驚いたことに、
オーナーは採用が決まってから
私のInstagramをずっと見守ってくれていたらしい。

「君が今、どこへ向かおうとしているのか、よくわかったよ」
と、私の活動を完全に理解し、
背中を押してくれた。

その結果、
当初の予定を短縮し、
3月末から5月末までの2ヶ月間、
寮生活を送りながら桃農園で働くということが決定した。


なぜ、
私はフォロワーが急増しているこのタイミングで、
あえて山梨へ来るべきだと直感したのか。

それは、
これまで私が人生で見落とし
あるいは「自分には必要ないものだ」
どこかで見下してきた領域にこそ、
今の私に欠けている何かがあるはずだと確信していたからだ。

目に見えない、
けれど確実に自分を形作るために必要な
「根っこ」のようなものが、
この土地にある気がしたのだ。

結論、
その予感は正しかった。

ここでの生活が、
私の日本での「最後の仕事」として始まった。


◼️ ただのんびりと、淡々と。自然と私を感じる日々

社交性は要るけど、要らない

同じく期間限定で集まった
季節労働者たちとの、
一軒家での共同生活。

貸与された車に乗り込み、
毎朝決まった時刻に畑へ向かう。

そこで私を待っていたのは、
驚くほど「寛容な」空気だった。

これまでの社会生活では、
少しでも自分のペースを貫こうとすれば
「協調性がない」とレッテルを貼られ、
煙たがられた。

けれど、
ここでは誰も他人のあり方に干渉しない。

日本にいながら、
初めて心から「生きやすい」と思える環境がそこにあった。

仕事の内容は単純で、
誰にでもできるもの。

学歴も、
スキルの高さも、
ここでは一切関係ない。

過去の私なら
「こんな替えがいくらでもきく仕事に、自分の時間を使うなんて」
と、耐え難い屈辱を感じていたはずだ。

しかし、
不思議なことに、
今回は違った。

おそらくそれは、
社会の枠組みからはみ出した
「社不の極み」たちが集まり、

一つのコミュニティとして
互いをありのままに認め合えていたからだろう。

人間の悩みの9割が人間関係であるならば、
そこでの私はまさにノーストレスだった。

に戻れば、
皆で料理を囲み、
カードゲームをし、
ケーキを買い込んでパーティーをする。

28歳にもなって、
毎日が修学旅行のような楽しさだった。

「ああ、これが青春というものなのかな」

そう噛みしめる日々は、
まさにあの時、
私が直感で「ここには何かがある」と感じた通りだった。

11月のベトナムで、
自然と共に生きる幸せを教えてくれたロシア人との出会い

そこからロンドンでワーホリを決意し、
桃農家へ応募したあの時の判断。

すべてが一直線につながっている。

この感覚こそ、
私が人生に求め続けていたものだった。

ツンポコやないか!

◼️ 苦悩の4月、そしてフォロワー1万人へ

2026年4月後半、
私はさすがに丸2ヶ月もSNSの更新を止めるわけにはいかないと思い、
半月の休みをもらって10日間ベトナムへ向かった。

目的はシンプルに
「動画を更新すること」

これまでの経験で確立した動画のフォーマットに沿って、
できる限りの体験を詰め込み、
「こうすればバズるはずだ」という仮説を立てて
制作・投稿を繰り返した。

しかし、
結果は裏腹だった。

この10日間で増えたフォロワー数は
わずか約600人。

自分の頭の中で描いていた期待値とは程遠い
残念な結果に終わった。

その後、
山梨に戻り、
最後の1ヶ月は畑作業に専念した。

どんなに忙しい畑作業の合間でも、
昼休憩には必ずライブ配信を行い、
ファンとの交流を続けた。

電波の弱い山梨の地から、
どうすれば届くのか、
どうすれば心をつかめるのか。

泥臭く試行錯誤を繰り返した。

昼のライブ中にブランコを漕ぐにんじん

そんな日々の中、
5月の上旬あたりに転機が訪れた

過去の複数の動画を分析し、
それを再度バズらせるための仕掛けを施したことで、
ついにフォロワー数は1万人に到達した。

『1万人』

インフルエンサーという業界の尺度で見れば、
それはまだスタートラインに立ったにすぎない数字かもしれない。

しかし、
当初は1,000人の壁さえ越えられず、
無力感に溺れていた
あの頃の私にとっては、
間違いなく一つ「やりきった」といえる実績だった。

何者でもなかった私が、
自分の足で歩き、
自分の手で掴み取った、
初めての「証明」

その数字を見たとき、
私は確信した。

ここから先は、
これまでの延長線上にある
「誰かのための人生」ではない。

私が選んだ道
私が作り上げた世界が、
いよいよ本番を迎えようとしているのだ。


◼️ 何者でもなかった私へ

寮のみんなと温泉でソフトクリーム 誰もが羨む生活

楽しかった寮生活に、
私は無理やり幕を引いた

後ろ髪を引かれるような名残惜しさを感じつつ、
それでも私は山梨を後にした。

あの日々を振り返ると、
今でも胸が熱くなる

そして、
2026年6月3日。

私は、
本当に、
本当の本当に、
「本業:インフルエンサー」として歩み始めた。

本音を言うと、
「インフルエンサー」という呼び名には、
いまだにどうも馴染めない。

だって、
私がやっていることは、
主観的にはあくまで「自己満足」の延長だからだ。

ただ、
その自己満足を追い求めた果てに、
困っている誰かを救い、
誰かの背中を押すための情報提供・価値提供の場が出来上がっていた。

今や私のコメント欄やDMには、
毎日のように温かな言葉が溢れている。

「ちーぼーさんの動画を見て、今度ベトナム旅行に行くことにしました!」
「ベトナム旅行に行く予定があるので、参考にさせてもらっています!」
「動画で見たあのバンカンクア、実際に行って食べました!」
「ずっと知りたかった情報です、助かりました!」
「ずっと応援しています。頑張ってください!」

気づけば私は、
誰かの行動に影響を与える、
紛れもない「インフルエンサー」になっていた。

単なる自己満
「コンテンツクリエイター」ではない。

情報を届け、
人の選択を変える存在。

自分をインフルエンサーと呼ぶことには、
今もまだ少しの小っ恥ずかしさがある。

それでも、
私はあえて
自分をそう呼ぶことにする。

それが、
客観的に見た今の「現実」だからだ。

小さかったツンポコも、立派に育ちました

1年前まで、
自分が何者かもわからず、
何のために生きているのかさえ手探りだった私が、

気づけば自分の軸をしっかりと掴み、
顔も知らない誰かの思考や選択に光を灯せるようになった。

これは、
迷いながらも自らの足で一歩ずつ切り拓いてきた、
等身大の物語。

今日も私は、
私にしかできないことをする。

『現場からは、以上です。』


◼️ あとがき

2026年6月3日にホーチミンに到着し、
私は新たにYouTubeチャンネルを開設しました。

まだまだ手探りの中で、
日々新しい挑戦をすることは
新たな発見とインスピレーションがあり、
トライアンドエラーの中で
自分自身が変化していることを肌で感じています。

その後、
ホーチミンから南の都市を開拓するため、
ベンチェ、カントー、バクリエウ、
そしてカマウへと移動を続けました。

そして2026年6月15日、
私の一つの到達目標地点でもあったベトナム最南端
「カマウ岬」まで辿り着きました。

ムイカマウ(カマウケープ国立公園)
ベトナム最南端ポイント(Khu Du Lịch Khai Long)

その後はホーチミンに戻り、
隣のブンタウを訪れました。

そして現在、
私はまた、
あのスタート地点であるクイニョンから
この記事を執筆しています。

少し風邪を引いた状態で、
ベトナムのパジャマスタイルにすっぴんという、
なんとも自分らしい風貌。笑

CUGCIのミッキーパジャマ セットアップ 900円

執筆現在は、2026年7月4日(土)。

6月3日に1.1万人だったフォロワー数は、
ちょうど先ほど1.8万人に到達しました。

まだ始めたばかりですが、
Instagramのサブスクリプション登録者数は29名。

細々と更新してきたTikTokフォロワー数は6,300人となり、
最近ではTikTokライブもたまにやっていて、
ギフトからの収益も少しずついただけるようになりました。

また、始めて1ヶ月の
YouTubeチャンネルの登録者数は760人です。

私が今回、
空白だった10ヶ月を遡って、
過去の自分を見つめ直したように。

きっとまたいつか、
未来の自分がこの記事を見返した時に、
「あ〜、この頃の私はまだまだ青かったなぁ」
笑い飛ばしてくれていますように。

願いを込めて。

ちーぼー

ちーぼーの名前の由来

◼️ちーぼーのSNS一覧

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