抜け殻
うちではトカゲを飼っている。
フトアゴヒゲトカゲっていうオーストラリアの砂漠地方が原産の立派なトカゲ様。
息子が10歳の時に初めてお年玉を使って迎えた、ありがたい生後3ヶ月のトカゲ様は、まだほんの7gほどの手乗りサイズの時から、一丁前に、それもかなり頻繁に脱皮を繰り返す。
一皮剥ける、の言葉の通り、一皮剥ける度に彼(彼女かも)は一層鮮やかに堂々としていく。
脱皮に向けてだんだん皮膚が白くなり始めた頃は、お、そろそろ脱皮の時期ですね、大人の階段また一歩上っちゃうんだね、なんて、髭が生え始めた友達の子供の思春期を茶化すような、くすぐったくあたたかい気持ちで見守っているのに、時期が来ていざ剥け始めるとどうにもそれを手伝いたい(剥きたい)衝動と、見て見ぬ振りで見守らなくてはいけない大人の忍耐の狭間でヤキモキして目が離せない。
そしていざ、鮮やかなオレンジの模様をより一層鮮やかに露呈させた日には、いつもの岩の上での日向ぼっこする姿すら雄々しいライオンのように後光が差してもはや神々しい。剥がれかけた皮の下にお目見えする皮膚なんて白く輝いていて、岩の上に踏ん張る上腕二頭筋と相まってシックスパックの完成された肉体と錯覚するくらい。(そんなわけない)
もう、一皮剥けるような人生のイベントなんて永遠にやってこない、ここ10年子どものイベントに便乗しかしてない私などには眩しくて見ていられない。ピークを過ぎた成長ってつまり老化だよね、なんて下卑てしまう卑屈さはきっと人間特有のものだろうと思う。
しかしその抜け殻をみるのはいつも間違いなく嬉しい。
抜け殻はいつも彼(か彼女)の通り道のどこかに、木枯らしを表現するときの枯葉の如く当たり前のように落ちていて、でも確実に他の排泄物とは違う貴重さを湛えていてとてもありがたい。
羽衣のように薄く、うっすらと模様の透けた薄皮にメッシュのように無数に穴が空いていて、その穴の一つ一つから皮膚が呼吸をしていたのかなと思うと、生命の神秘のエビデンスが今ここにあるように感じられ、人間にはない機能を持った生き物をただそれだけでありがたがってしまうヒトの不思議。
飼い主の役得としてそっと拾い自然と手のひらに載せる。
そう感じるのは私だけではないようで、子供を育てたことがない10歳の息子も、この抜け殻の破片の耳くそくらいの一部ですらジップロックに入れて取っておきたいというのでそれは止めた。これから何度となく繰り返す脱皮の何度目かわからない破片のどこかわからない一部を取っておくという使命はさすがにジップロックにも申し訳ないからさせないけれど、私は子供を産み育てる過程で学んできたと思っているその小さくてありがたい副産物を惜しむという生き物の愛でかたを、子供は生まれながらにちゃんと知っているんだなとえらく感心したことでもあった。
小さな破片でしかないそれは子供が成長するにつれて着れなくなってしまった下着や洋服のように、愛着や思い出の一つのようでいてちょっと違う。もっと神秘的でありがたい何か。下手したら我が子との絆の証であるヘソの緒や乳歯よりもありがたい何かに思える。なんでだろ。昔からヒトが蛇を神様として祀ってきたのにも繋がる気持ちだったりしそう。知らんけど。
手のひらに載せてしばらく眺めて愛でると同時にしかし持っていても仕方がない。
仕方がないから燃えるゴミといたすけれど、いつもこの拝みたくなるような尊い気持ちはきっとゴミじゃない。
自分以外の生き物へのリスペクトであり行き場のない愛。
いつだって愛は片想いで、尊く、儚く、形がない。
(つづく)
