それでもこれを愛と称ぶ
確信する。世界一の黄緑が、おれの部屋にはある。──都内で働く火留夕也の部屋には、鮮やかな黄緑で描かれた一枚のマスカットの絵が飾られている。それは中学時代に知り合った加古川昴という美術部員から買い取ったもので、10年近く大事にし続けている絵だった。夕也と昴は中学時代の数年だけ友人関係にあり特別な思い出もあったものの、その後は連絡を取ることもなく疎遠になってしまう。そうした中、大人になりそれぞれの道を歩んでいた2人は10年ぶりに偶然再開を果たし、夕也は昴の抱える秘密を知る。人知れず膨らみ続けた愛と執着とささやかな永遠の物語。【BL・読み切り短編】
都内のアパートで独り暮らしをしている火留夕也の部屋には、一号サイズのキャンバスに、皮にくすみやにごりの一切ないまるいうぐいす豆をきれいな水で満たした小鍋に集めて長時間煮てそれを木べらで混ぜてつぶして濾したような、あざやかでやわらかい黄緑色で描かれたひと房のマスカットの絵が中学三年生のころから飾られている。この絵のキャンバスの隅には筆跡から見ても書き慣れていないことがあきらかである筆記体で『Subaru.』とサインが入っているのだけれど、これは「なんかサインとか書いてよ」などという夕也の無茶にも等しい要求に応えた中学三年生の加古川昴がはにかみながら書いたものだった。二六歳になった夕也にとっては、もう十年もむかしの出来事だ。もう十年もむかしの出来事になるのに、十年が経った今でも、夕也は自室の壁に掛けられたマスカットの絵を眺めているといつも、新鮮に感動する。こんなにきれいな黄緑は見たことがない。このキャンバスに乗せられたものよりまぶしい黄緑なんて、この世に存在しない。夕也は確信する。世界一の黄緑が、おれの部屋にはある。
昴と違う高校に行って昴との縁が切れても、昴以外にもたくさんの友人を持った大学生になり一人暮らしを始めても、すっかり昴との日々を遠いむかしの過去として扱う社会人になって上京しても、昴の描いたマスカットは変わらず夕也の部屋の壁に──気まぐれな猫がふれて落ちたりないような位置に配慮してまで──いつまでも在り続けた。単純な話だ。夕也はまさしく焼けるような夕陽の射し込む美術室でひとりキャンバスと向かい合い、きっと何回も何十回も何百回も青と黄色をパレットの上で練ってつくったのだろう唯一無二の黄緑色を使って机の上に置いたマスカットを模写して描いた昴のこの絵が好きだった。リビングの壁をいろどるそのマスカットを見ながら歯を磨いてコーヒーを飲んで朝を過ごすのが好きだった。あかるい黄緑色は初めて夕也の虹彩にそのいろを魅せてからいつまでも褪せないままでいた。
◇
──テニス部を引退したばかりの中学三年生の火留夕也が別クラスに所属している美術部の加古川昴と初めて会話をしたのは、授業中に間に合わなかった課題を提出しようと向かった先の放課後の美術室でのことだった。
部活動にいそしむ他学年の生徒らの掛け声や吹奏楽部のチューニング音などといった遠音が薄らとただよう廊下は、涼やかな秋晴れが気持ちのよかった青空ごと陽の赤がすっかり染め始めていた。無遠慮に立ち入ることがためらわれる人気のないくれないの廊下の果て、一階西側の奥にある美術室で当時の加古川昴はただひとり、そこに居た。
念のためにとノックをしてから美術室の扉を開けた夕也は、いろんな画材同士がまざった匂いに満ちた部屋の中でスツールに座って絵を描く昴の背を見つけて、その風景を確りと目に焼き付けてしまったものだった。美術部の部員は彼一人しかいないわけではなかっただろうけれど──この麗しくものさみしい秋の時期に、夕也は結局昴以外の部員を見ることはなかった──学生生活の大半をテニスに注ぎそれらしい美術館に行ったこともなければ有名な画家というとピカソ程度しか名も挙げられない夕也でも、美術室の中心で何かに礼儀をはらうようにして凛と背をただす加古川昴はあまりに画になっていて見惚れたのだ。
そのころの夕也は昴の名も顔も知らなかったから、スツールの前脚につまさきをからめている白い靴下をはいた足元の、そのそばに自分の学年のものと同じ色の上履きが落ちているのを見てやっと、昴が自分と同学年の生徒であることを知った。後ろ手に扉を閉めて、どうしてか息をひそめてしまいながら筆を持ち何かを描いている彼のそばに近づいてゆくと、後方から聞こえてくる足音に気が付いたのか『加古川昴』と書かれた緑色の名札を胸に下げ、眼鏡のひかりを反射させた少年が夕也の方を振り向いた。このとき、かこがわすばる、とはじめて夕也は昴の名を知り、心の中でそっと呼んだ。気まずさに首筋を撫でながら、夕也は彼にそっと問う。
「あー……急にごめん。あの、美術の芦北先生っている? 授業で提出しなきゃなんないものがあって来たんだけど。もしかしてもう職員室帰っちゃった?」
「ああ……ええと、どうだろう。俺が入ってきたころにはまだいたけど、もう三〇分以上前のことだから。いつの間にか職員室に行ったのかもしれない。あのひと放任主義だから部活動中もあんまりここにいなくてさ」
かなり集中していたのか、昴は顧問の不在に今まで気づかないでいたらしい。時計を見やった彼は凝りをほぐすようにして首を捻りながら夕也にそう言った。
視界に入ったのはほんの刹那だ。けれども、そんな彼の肩越しにきらと輝くあかるい黄緑色が見えて、夕也は昴の手元をおもわずのぞき込む。──つまさきと背を伸ばして目をやった、昴の正面に据えられた真っ白いキャンバスには、まるまるとした実をいくつもつけたみずみずしいマスカットがあった。それはそれは、指を這わせてつめさきで皮を剥いたらつるつると果汁をしたたらせるあまい果肉が出てきそうなマスカットだ。絵を見るだけで、あの瑞々しく喉をつたってゆく味がたやすく想像できる。あの甘さが舌によみがえる。一言で言ってしまえば、それはとても上手いマスカットの一枚絵だった。
自然と身を乗り出して、夕也は昴が描いたのだろうマスカットに顔を寄せてよく観察する。筆で均された跡がそのまま残されるかたちで描かれているマスカットは近くで見つめてみるとより魅力的だった。へえ、とつぶやいた夕也の声に、昴の肩がわずかに跳ねたのを夕也はこのとき、たしかに見た。
「すげーこの絵。マスカット?」
「え、あ……うん。そ……う、だけど」
「めっちゃ上手いな、絵」つい、思ったことをそのまま口にしてこぼしてしまってから、いや、とすぐに夕也は首を振る。こんなひとことじゃあ、すこし足りない。「てかなんかオシャレだ。なんていうんだろ、こうやって見てみると黄緑色だけじゃなくていろんな種類の緑とか青とか黄色とか使ってんのな。おれなんかヘッタクソだからさー見てよこれ」そう言って、夕也は手にしていた画用紙を広げてみせた。そこには、塗りむらのひどい水彩絵の具で彩られた長細い綿棒のようなものと奇妙な丸が並んで描かれている絵があって、一見何かわからない二つの物体を前にした昴はこまったように眉を顰めてみせた。素直なその反応が、心に痛い。夕也はうつむく。
「……えっと、なんだろう。テニス、……ラケット? とテニスボール? これは」
「そう。よくわかったな! ほら。あのー、課題あっただろ。中学校生活の集大成に思い出深いものを描きましょうみたいなのがさ、最近」
「確かにあったね」
「あれあれ。あの課題で描いたやつなの」自嘲ぎみに苦笑しつつ、おのれが描いた絵を夕也は見おろした。昴のマスカットとは雲泥と称してもまだ足りないくらいに差がありすぎる様に恥ずかしさもおぼえられなかった。絵の具は混ぜれば混ぜるだけ理想より遠くかけ離れ、くすんだ黒に近づいてゆくことを今日、夕也は初めて知った。目の前に実物があるのに指の動きがどうにも追いつけない、そのもどかしさと焦ったさの詰まったひどい絵だ、我ながら!
「部活の友達とかはさーそんなもん適当に描けばいいじゃん美術なんか提出さえすれば内申四はくれるんだしって言うんだけどこう、おれは三年間マジで大事にしてきたものだから、気合い入れて描きたくて。でも放課後教室に残ってまで続き描いててもあんま上手くいかなかったしだめだこれって思って結局最後雑にやっちゃったんだわ」
「……そっか。なあ、もうちょっとよく見せて」
ほとんど自虐的に夕也がそう語っていると、反して先ほどよりも真剣な面持ちで昴が画用紙を見やる。窓からのひかりで豊かに煌めく透明を乗せた、星のふもとの黒さを持つまなこが夕也のテニスラケットとテニスボールをしっかりと観測する。まるで誰にも見られたことのない、ふれられたことのない腹の内側に手を差し入れられ、自分を手探られて覗かれているかのような気分にさせられながらどぎまぎとする夕也に対し、果たして昴はしばらくしてから顔を上げると言った。
「確かにあんまり上手いとは言えないけど」
「え? うん。いやまあそうだろうけど……」
「でもこのグリップの部分とか、よく描けてると思う。ずっと同じ位置で掴んで色が褪せて捲れてるところと、そうじゃないところを表現しようとしてたりとか。ラケットの外側の模様が削れて消えてたりするところもちゃんと描いてる。ぜんぜん、雑じゃない。そういう想いっていうのはきちんと見える絵だと思うよ」
「え、うそ、マジ?」
「すくなくとも俺にはそう見える。……君がそう描いているのなら、だけど。的外れなこと言ってたらごめん」
春の朝の風を正面から受けたときのように、寝ぐせのついた前髪のおくにある額やそばかすの浮く鼻がしら、ほくろの目だつ顎さきにむずむずとしたあたたかみを感じてふと、夕也は呼吸を忘れる。──自分の臓腑のうらにずっと隠していた宝石のいろを綺麗だとほめられたかのような気分だった。そのとおりだ、と返そうとする夕也の喉のふもとで心臓が急く。画用紙を掴んでいる指がそれぞれ凍えているみたいにふるえる。照れくさい気持ちよりずっと、およそ生まれて初めて真面目に描いた絵に向き合った気持ちや姿勢のよさに気づいてもらえたことが何よりもうれしかった。
稚拙なりに画用紙に描いたテニスラケットは夕也が誕生日に両親に強請って買ってもらった憧れのプロプレイヤーとおなじブランドのものだった。夕也にとっては半身と称してもけして過言でない存在であり、ゆえに、思い入れはとても深い。どれだけ隙間なくきれいに巻こうとも掴んでいるうちに生まれてくるグリップの捲れも、練習中についたいくつもの細かい傷も、全部が全部、夕也にとっては唯一無二で大切なものだった。だからわざわざ、絵を描くことなんて昔から苦手なのに友人たちの背を見送り放課後に居残ってまで、絵を描いていたのだ。らしくないことをしていた自覚はあった。鉛筆は思うように目の前にあるガットの直線をたどれないし上手く模すこともできないし、絵具は理想の色に至らないまま濁ってゆく。おれのラケットはもっとかっこいいのに、という悔しい気持ちももちろん乗せて描いて、それでも、と踏ん張った結果がこの絵だ。夕也は、山に面した窓から黄色いイチョウがその身を擦れさせあう音ばかりが聞こえてくるしずかな教室での孤独な背を、昴にだけ見つけてもらえたようなそんな気持ちだった。
「……そうだよ。その通りだ。そういう想いを込めて、下手なりにがんばってさ、描いた絵なんだ。……」
それまで授業以外で足を運んだことなど一度もなかった夕也の美術室通いは、そんな昴との出会いから始まった。
意外なことに、夕也は昴と気が合った。はたから見れば、テニス部員の友人らと集まって快活にわらい声を上げる夕也と、前の席で厚い美術史の本を熱心に読み込む昴は気が合いそうにないと思われるだろうだけれど、ふたりにはちいさな共通点──例えば、年の離れたおさない弟が居ること、遊んでいるゲームで使っている武器が同じであったこと、家から弁当を持ってくるのでなく購買で昼食をよく買うこと、小学生の頃に地方から転校してきたこと、秋が好きで春が苦手なところ、それから、実は同じ女子生徒を好きでいて、彼氏の有無の発覚と同時に失恋をしていたことなど──がいくつもあったのだ。共感できる部分があればあるほどに、おのずと話は弾む。物事を捉える視線や感覚が似ていると、些細なところでわらい合えるし、うなづき合える。語り合ううまれ故郷の風景があまりにも似ていて、出会って数週間しか経っていないのに、どこかへ遠出するわけでもお互いの家に招くこともなく放課後の数時間をおだやかに過ごしているだけにすぎないのに、まるで自分たちが隣の家に住んでいた幼馴染であったかのような錯覚すら、ふたりは互いにおぼえていた。ひそやかに抱く相手への親近感が明確なものになり、ささやかな時間のつみ重ねをゆうに通り越えて自分たちが親しくなってゆくのを、ふたりともが自覚していた。そして何より、……夕也は、昴の描くあのマスカットが昴の手で見事に描き上げられるのを、ずっと楽しみにしていた。
それからいくらか時が過ぎゆきおとずれた、秋の夕暮れが藍に染まりやすくなった冬の中ごろのこと、夕也はすっかり習慣と化した教室から美術室までの道のりを早足で歩いていた。
受験勉強用の参考書や科目別に分けた方眼ノートの入った重いカバンを肩に掛け、階段を二段飛ばしでくだってゆく。掃除がされたばかりで埃のすくない廊下を、上履きの底が擦る。窓の向こうに見える葉のない枝の群れには、今朝積もった雪がいまだに姿を残していた。ほ、と吐き出す息は視界をふやかすほどに濃い白で、夕也はかじかんだ手をブレザーのポケットに仕舞いこみ、歩みをさらに早める。美術室にはストーブが焚かれているのだ。はやく赤くなった指さきをあたためたかった。
──而して、ほとんど駆け足になりながらおとずれた先の美術室の中には、使った絵の具筆などを流す手洗い場の前でちいさなほむらを灯すマッチを右手に、左手に持つキャンバスを燃やそうとしている加古川昴の背が在った。夕也は目を見張る。昴がほむらに食わせようとしているそのキャンバスには、初めて出会ったときに昴が筆を乗せていた、そして夕也が完成を心待ちにしているあの、みずみずしいマスカットがあった。
「……っおい! ちょ、えっ、加古川!? おま、何してんだ!」
大きな声で名を呼んだ夕也が全速力で駆けだしたのは、衝動だった。扉も閉めずにそのまま廊下と教室のさかい目を大股で飛び越えて、昴のもとにゆく。当の昴はというと、夕也がやってきたことには名を呼ばれて一拍経ってから気づいたらしく「ひとどめ、」驚いたように肩を跳ねさせると持っていたマッチを手洗い場にぽとんと落とした。閉まり切っていなかった水栓からこぼれたしずくの中にマッチの火が吞みこまれる音がする。
息を切らして昴の元へと駆け寄っていった夕也が咄嗟に目をやったキャンバスには、焦げた箇所などすこしもなかった。まっ白い面には、あざやかなあの黄緑の実が有る。ひとつぶだって捥がれていない。昴の肩を掴みながら、よかった、とそればかりを、それだけを夕也は思った。
「あー……、マジでよかった絵が無事でさ……、ってかお前、何してんだよ! マッチなんか持ってきやがって、火とか危ねえし……! しかもそのマスカットの絵って、ずっと大切に描いてたやつだろ! なんで、こんな、」
「そうだよ。ずっと大切に描いてきた。自分の頭の中にあるイメージと擦り合わせて、もう何カ月も向き合ってきた」やや熱の込もった声で問いただそうとする夕也に対して、手にしたマスカットを見つめる──否、軽蔑するような目で果実をにらめつける──昴の表情に夕也は一瞬身が竦む。だって、目の前に居る昴のまなざしは出会った秋から今に至るこの冬までのあいだに一度も見たことのなかったほどにつめたい目であったからだ。邪魔な塵を足蹴にするかの如き嫌悪感の滲む目が、夕也の知る悩ましげにキャンバスと向き合っていた加古川昴と重ならない。「だから、もういっそ燃やしてやろうと思ったんだ。自分の中で一向に終わりが見えないもんだから」
細い枝をいくつも靴底で踏んで折るような、ストーブが孕んだガスの燃ゆるちいさな呼吸が教室の隅から聞こえてくる。冷気を通さぬよう閉じ切った窓の向こうから、おおきなトラックが校舎のそばをゆく振動が伝う。誰かのわらい声は、この教室よりもずっと離れた世界から奏でられているもののように感じられた。口にしたい数々の言葉を喉のふもとで押しとどめて、夕也は、過去に交わした昴との会話を思い返す。──特にこれといった目標など無くおのれの偏差値と同等の高校をとりあえず目指そうとしている夕也と異なり昴は、進学先として美術コースのある高校へゆくつもりなのだと言っていた。デザイナーだとか画家だとか具体的な将来像があるわけではないけれど、とにかく絵を描く人では在りたいからと絵筆を握って話していた。まっすぐと語る彼のその横顔に、夕也は鮮明な羨望を憶えたものだ。なんなら、嫉妬したくらいだった。だって、そんなの格好いい。いっぽん、筋が通っている。夕也はテニスが好きだし今までの三年間も熱心に取り組んできたけれど、それでも、テニスをこれからのゆき先をさだめる方位磁針には据えられなかった。不確定な未来のよすがにするほど、確固とした執着をテニスに見いだせなかった。アイデンティティー、とちいさく口にした夕也に、昴はやわらかい声で語った。
「たしかに。絵は僕を僕たらしめるものではあるのかも」
……ゆえにこそ、昴の肩に手をやった夕也の手に力が込められる。場違いな怒りを抱いている自覚はあった。だって、昴の顔はあきらかに戸惑っている。
「……おれにはあんまそういうのよくわかんねーんだけど、こういうことしたくなんのはなんていうか、思うように描けない……のが嫌でってことか?」
「……そう、だね。あのさ。絵って、明確なゴールがないんだよ。スポーツと違って、明確な良し悪しや勝ち負けがない。描き込もうと思えばいくらだってできるし、止めちゃおうと思ったなら色塗りの途中でだって完成って扱いにできる。審判がいないしルール違反だって基本的には存在しないから、自分の中で始まりと終わりを見つけなきゃいけない。自由と言ったら聞こえはいいけど、ただ、完成ってゴールが見つけられないまま、思うように描けない自分と常に正面から相対し続けなくちゃいけないのがつらいんだ。こんなのは、絵を描くとは言わない。苦しい迷路をひたすらにめぐってるのと同じだよ」
夕也から逃げるように顔をうつむかせた昴が、自分で自分の首に手を沿わせ気道を絞めているかのようななんとも言えない笑みを含んだ声で言う。どうかそんな顔をしないでほしかった。そんな声を聞かせないでほしかった。昴には夕也のひとみに長らく居座るがまま、優雅に絵を描き、絵を愛す人間で在り続けてほしかった。夕也の想像していた理想と、目の前の昴が乖離する。──誰がなんて言おうとお前は絵が上手いよ。お前の絵には力があるよ。お前の絵はすごくきれいだし、まぎれもなくお前の絵はすごい。才能だってきっとある。おれがこの3年間、毎日練習頑張ってテニスに捧げたものなんかとは、ぜんぜん比べ物にならない才能ってやつがお前の右手にはあるのに。すくなくともおれは本当にそう思ってる。筆を持つ指のならびがいつもとても綺麗で、なんだかすごい職人みたいだとよく眺めていた。甘そうなマスカットの皮に森の景色を見せてくれたのも、お前なのに。なんでそんなことを言えちゃうんだよ。そのような言葉の全部をぶつけて言ってやりたいのに、ひび割れた昴の笑みのようすになにゆえか、夕也の方が泣いてしまいそうになる。
「別に火留がそんな必死になるほどのことじゃないよ。こういうの、別に初めてじゃないんだ。今までだって何度かあった。破ったりぐちゃぐちゃにしたりした絵なんかいくつもある。もしかしたら完成させた絵より壊した絵の方が多いのかもしれない。そのたびに、自己嫌悪するんだ。絵の具や道具だって、当たり前だけどただじゃない。親がくれたお金も限りある時間も無駄にして、ばかだよな」
そこまでを聞いてから、夕也はようやく昴の抱えていた烈火の片りんを識った。いままで、妙に大人びて凪いでいたように見えた表情のうらがわに沁みついていた、彼の葛藤にふれた。お世辞にも上手いとは言えない夕也の絵に内包された想いさえきちんと掬い取るその審美眼のふもとに根差す、己が絵への高き理想を覗き見た。紙片や灰にしてとり返しのつかない状態にさせることでしか、昴は絵の苦しみから逃れられないのだろうと理解した。自分からの説得はおおよそ無意味で、救いになり得ないのだと夕也は悟った。痛々しいほどに完璧主義者である加古川昴に、火留夕也の言葉は大した癒しを与えられない。
夕也が自らの鞄から財布を取り出したのは、最終手段のつもりだった。小学校のころから使い古している、恐竜の絵柄が描かれたマジックテープの封をべりっと剥がして、夕也は昴にそれを差し出す。
「わかった。それでも焼くってんなら、燃やされる前におれが全財産でお前のその絵を買う。それなら、いいか?」
「……は? え、なんて?」
「だから、買うって。おれはお前の絵が好きだし、お前の絵に価値があると思ってる。そもそもひとめ惚れしたんだよ、そのマスカットに。初めて美術室来た時、すっげー綺麗だなと思ってさ。びっくりした。お前と話すのだってもちろん楽しかったけど、ここに通い続けてたのはさ、絵が完成するまで楽しみにしてたからってのもあるんだ」
突拍子もない夕也の行動に対して、昴はわかりやすく動転していた。まぶたを見開いたかと思うと財布と夕也とを交互に見て、それから、自身の手に在るマスカットに視線を集中させる。信じられない、とでも言いたいげに開閉するくちもとが夕也にはおもしろかった。
「昨日欲しかった新刊買っちまったから、たぶん二〇〇〇円ちょいしか残ってないけどさ。ほら。受け取れって」
「おい。よせって。要らないよ。……ばかだな。お小遣い、毎月三〇〇〇円しかもらえないんだろ。二〇〇〇円なんて、ほとんどじゃないか。まだ12月になったばっかりなんだし、……こんな絵、ただでやる。どうせごみにしかならない予定だったんだし」
「だから、そういうんじゃなくってさ。おれが、お前の絵に、ちゃんとお金を払いてーの」
駄々をこねる弟に言い聞かせるみたいにして、夕也は取り出した二〇〇〇円と小銭たちを昴に押し付けた。しわくちゃの偉人がふたり、身を寄せ合って昴の胸元に渡るさまに申し訳なくなる。これでもまだ、ふさわしい対価だとは到底思えなかった。加古川昴の内側から出力された努力の結晶が、こんな程度で測られていいはずがない。
「加古川の努力なんかにはぜんぜん見合わない額だけど」
「……俺の絵なんて、一円の価値もないのに」
「でもおれはそんなお前の絵を部屋に飾って、家に帰ったら弟にいっぱい自慢する。綺麗だろって、絶対盗られない位置に飾って言い続ける。ずっとそうする。おれはお前の絵を捨てない。お前の描いたものを燃やさないよ」
「家が燃えるかもしれないだろ」
「そしたら、まっさきにお前の絵を抱えて逃げるよ」
──そのような会話を経て、夕也はついに昴の絵を手に入れた。一号サイズのキャンバスに、皮にくすみやにごりの一切ないまるいうぐいす豆をきれいな水で満たした小鍋に集めて長い時間煮てそれを木べらで混ぜてつぶして濾したようなあざやかでやわらかい黄緑色で描かれたひと房のマスカットの絵を、雪のひと粒にだって濡れないよう大切に持ち帰って、おさない弟に万が一にもいたずらなどをされないよう父に頼んで壁の高い位置に飾ってもらった。小学校のころに集めていたゲームキャラのグッズであふれた棚、色あせた青いベッドカバー、消しきれなかったクレヨンの跡が残る机、教材とテニスボールが転がった床……そんな雑多な空間を夕也はいままで特別に感じたことなどなかったけれども、加古川昴のマスカットを壁に添えただけで、自分の部屋が随分と素晴らしいものになったように思えてならなかった。かわいた絵の具の持つ独特の艶は夕也の部屋に在ってもかわらずうつくしく、このマスカットが在るだけで夕也は自分の部屋が誇らしくなるくらいだった。
翌日の学校で昴にその旨を伝えたら、彼は新たに用意したらしい真っ白いキャンバスを前にして「大げさだな」とだけ言って矢張り、困ったようにわらったのだった。
それから幾度か美術室での放課後を過ごしながら──昴は新たに絵を描き始めたけれどあのマスカットの一件以降、絵を燃やそうとすることはなかった──も、卒業というありふれた縁の切れ目を最後に昴と夕也が会うことはなくなり、互い別の高校に通って日々を過ごしてゆくこととなった。ときおり、音楽室の場所もわからない新たな校舎で着慣れない制服に袖を通した夕也は、新しくできた友人らと中学校にあったものとは扉の形からおおきく異なる美術室の前をゆく都度に昴と過ごした数か月間を思い出して、なぜあれだけの時間があったのに連絡先のひとつも聞いておかなかったのだろう、と一抹のさみしさを憶えつつ自問した。昴が受験した高校も、昴の住む家がある付近についても、夕也は知っている。昴だってそうだ。ふたりとも、手を伸ばせば安易に掴めた足取りを、わざと見て見ぬふりをして手放した。そして、自分と昴はわざわざ連絡を取ったりするのでなく、約束をせずとも美術室にあつまってふたりで時間を気にせずおだやかに過ごしていたあの時間を共有することそのものに価値を置いていたのだ、と振り返っては、連絡先を聞いておかなかったからこそ無意識に、ある種の正解の択を選べていたようにも思えた。──その後、高校、大学と経て、夕也が昴と話すことはただの一度もなく、ただ、それでも昴の絵はいつまでも夕也の部屋に麗しく鎮座していた。
◇
再会したのは、夕也と昴が互いに二六歳になった十年後のことだった。会社で祝いにもらった花束の花を飾るため、部屋の雰囲気に合う花瓶を探しに夕也がとある雑貨屋に足を運んだところ、その店でちいさな個展が行われていたのだ。果たしてその個展には加古川昴の絵がいくつか飾られており、そして夕也が店を訪ねたその日はたまたま昴の在廊日でもあった。
相手の存在に先に気づいたのは夕也だった。目的の花瓶を手に入れたあと、個展の開催に興味を持った夕也はまるでお伽話にでもでてきそうな見目の木製の扉を開いて入口から順に絵を見ていった。ポップであたたかみのある絵本調のイラストや流行りのテクスチャーアートなどが並ぶ壁をゆきながら、そして、一枚の絵の前で足を止めた。
それはどこか、印象的な雰囲気を纏っている絵だった。描かれているのは花瓶に入ったクチナシのかべんだ。見る者に不思議と懐かしみを抱かせる、それでいてシンプルな絵柄で描写されているにも関わらず、洗練された画のおさまりに視線をからめとられていると──そんなクチナシの絵の下に、『画家・加古川昴』の文字を見つけた。え、とくちびるからこぼれ落ちた言葉が、夕也の胸の内でうたがいから徐々に確信の輪郭を持ち始める。あの冬の放課後のまぼろしが、まぶたの裏に蘇る。絵の右下にはとてもうつくしい筆記体で『Subaru.』とサインが描かれていた。
「……かこがわ、」
ふと、名前を舌でたどった。その瞬間、左隣にひとの気配を感じた。
「あの、……もしかして、クチナシがお好きなんですか?」
そうして声が聞こえてきた方向に振り向いた夕也を見た男性の目が、おどろきに見開かれる。眼鏡はないけれど、……忘れるわけがない。疑いようのないあのころの加古川昴の面影が残る顔を前にして、夕也は堪らず昴の肩を掴んでわらったのだった。
「こんな偶然ってあるんだなー」
蜂蜜を溶かしたような色のハイボールのおもてをグラスで揺らして、昴がまなじりを細める。笑みから生まれた涙ぶくろはアルコールの影響でほのかに赤らみ、常なら筆を持っているのだろう右手はそんなめがしらを軽く捏ねていた。「あ、酒飲むと眠くなる人?」「うんまあ。ちょっと。普段あんまり飲まないし」
在廊を終えた昴を近くのカフェで待っていた夕也は、彼が雑貨屋の扉から出てくるとすぐに、夕陽が暮れゆく街をあるいてちいさな居酒屋に向かった。目星をつけていた店に到着して間もなく店主に案内された奥のテーブルは、初めて足を運んだなんでもない店の席──からやがて、夕也と昴にとっての〝あのころの美術室〟になった。キャンバスと筆の代わりに、自分たちの目の前にはメニュー表と焼き鳥の串がある。窓越しにひびいていた運動部の掛け声や吹奏楽部の合奏が、わらい声やグラスのぶつかり合う喧噪になる。このふたりで相対したなら、きっとどこでだってあの美術室を幻視するのだろう。そんなことを考えながら、夕也は醤油風味のたれが絡んだつくねを齧った。
「おれもびっくりしたよ。加古川、東京に出てきてたんだな。いつから?」
「美大入学してからだから、……多分今年で8年とかになる。つーかそれで言うなら火留だってさ、俺はてっきり地元にマイホームでも建ててんのかと思ったよ。将来は広い庭ででかい犬飼いたいってさんざん言ってたじゃん。ゴールデンレトリバー、だっけ」
「広い庭にでかい犬な。言ってた気するけどあまりに夢すぎるわ。なんなら将来への貯金のために今格安アパート住みだし……あ。そういえば」苦笑交じりにそう口にしつつ自らの部屋の様相を思い出したとき、夕也の頭の中で華麗な黄緑がきらりとつやを持つ。「あの時お前から買わせてもらった絵、飾ってるよ。いまでも。実家じゃなくて、ちゃんと、こっちに移ったおれの家にある」すると、先までふやけていた昴のまなこが酔いから覚めたように確りとしたひかりを宿して夕也を見た。おどろいた表情それ自体が、意外だ、と言っている。
「絵って、あの……マスカット?」
「そう、あのマスカット。中学ん時の加古川が描いてた、きみどりの」
「まじで? ほんとかよ?」
「マジマジ。結構ずっと大事にしてんのよ、おれ。だから今日、加古川が絵描くのやめないで今仕事にしてんだってわかったの、すげーうれしかった。ほんとにさ」
ジョッキの腹辺りにまで減っていた生ビールを一気に飲みほして、夕也は指さきをくすぐるような気恥ずかしさについうつむいてから、二、三回ほど肯定にうなづいた。やけに早足になる胸奥の慌てように、まるで告白でもしたみたいだな、とおもう。おおよそ十年もの間ひとつのものを大切に扱ってきた気持ちは、たゆまずつみ重ねてきた想いの数々は、織って紡いで出来上ればその形はきっとたぶん、愛とやらに似ている。心臓だって、それなりに照れるだろう。
それからふたりの間に、少々落ち着かない温度感の沈黙がおりていた。たっぷりと胡椒のかかった鳥皮を噛んで、レバーを飲み込み、ハツを食む。昴はハイボールのお代わりを、夕也は一度水を頼んで、去る店員の背を見送ったのちにまばたきをし、互い視線が合う。
「二一六七円だ」
「うん? なんだよ急に」
「なにって、お前があの時出してくれたお金だよ。俺の絵に払ってくれた金額。二一六七円」
今度は夕也がまなこをまるくする番だった。手慰みにと折り紙のようにしておしぼりで作っていたうさぎが、大きくなりすぎた耳の荷重に耐えられずころんとバランスをくずす。
「……覚えてんの? そんな、一円の桁まで?」
「覚えてるよ、そりゃあ」ゆるやかにまばたいてそう言った昴は転んだうさぎを立たせると、夕也の手元に持ってくる。「あんときの俺、ものすごいスランプだったんだ。なんもかんもダメで、描くもの全部納得できなくて、でも何か描きたくて、それなのに思うように筆動かなくて、絵の具を無駄にしちまうのがつらくて、めちゃくちゃだった。だから、あの日の火留の言葉とあの時のお前に渡された二一六七円がどれだけ俺を助けてくれたかって、言葉に表せないんだよ。今この仕事に就けてるのだってそう。大袈裟とかじゃなくてさ、……お前のおかげなんだよ」
そう語る昴の声には、静謐さの中に熱の込められたしめりけがあった。酒を飲むと、涙もろくなるのかもしれない。夕也はグラスを両手で包み、マスカットの絵というひとつの媒介を通して確かめ合うように告白し合った昴と自分の十年を指折り数えて夢想する。十年はそれなりに長い。言語も話せない赤子が、ランドセルを背負って計算だってしてしまえるようになる歳月だ。その間、別々の進路に進み偶然鉢合わせることもなかったもなかった道中で、けして雑に扱わず燃やすこともなく昴の絵を持ち続けていた夕也と、プロの画家になっても夕也の押し付けた金額の一円単位までを覚えている昴は、ほとんど同等の質量の愛らしい何かを持ち合わせているように思えた。今日の再会より、ずっと奇跡じみた話だ。臓腑の緊張がほどけてゆく感覚に、夕也はぬるい息を吐く。
「……その話を改めてするってんなら、俺は今でもあの絵にもっと払いたいけどな。ってか加古川センセーの過去作ってんならいまじゃもっと高い値段つくだろ。プロだし。会えたついでに追加料金払うよおれ」
「そんなのいらねーよ。こら、財布しまえ酔っ払い」
冗談と本気を半分ずつ混ぜた声で話しつつポケットから財布を取り出そうとする夕也の手を、昴が思いのほか強い力でたたいてくる。そうしてそばの壁にもたれかかって垂れる彼の前髪が、前髪の灰色の影に彩られたまぶたのふるえが、いつかの放課後にマスカットを燃やそうとしていた彼の顔の角度と重なった。しかし、あのときと違って昴が湛えているのは、晴れやかな笑顔だ。昴の右手が、花でも慈しむかのような加減でちいさな取り皿のふちを撫でる。
「──誰かに十年、……もしかしたらこれからもずっと大事にされることより価値の高いことなんてないさ。この世に」
からん、と昴の持つグラスの内側で氷たちがそっと肩を寄せ合う。その瞬間、夕也は長袖のシャツから覗き見えた昴の右手首の奥に何やら黒い縦線が刻まれているのを一瞬だけ捉えた。しかし、その正体を確かめる前に、なんだろうと首をかしげる夕也の前には水が運ばれてきて、結局、別の話題に移るころには昴の手首に在る〝縦線〟を絵の具の汚れか何かだろうと適当に予想していた。
箍が外れるきっかけになったのは、沖縄へ旅行に行った際に泡盛とハブ酒を飲んだという昴の話を聞いてからのことだった。
それから、それぞれのアルコールへの耐久度数を測るようにして度数の高い酒を飲むようになった。普段飲まない種類の酒にも手を出してみたりして、喉を焼く感覚にけらけらとわらっていた。なにげない話のなりゆきでお互いに、恋人が居ないことがわかった。コンタクトをつけ、画家として活動している加古川昴はおのれの容姿にも気を遣っているようで、爽やかにわらう横顔が格好よかった。加えて夕也は数か月前に彼女と別れたばかりで、端的に言えばひとの熱に少々焦がれている節があった。双方のどちらが誘ったのかは記憶が定かでない。ただ、おとこふたりじゃ入れてもらえないと噂で聞いたことがあったけれども、店の近くに建つラブホテルは特にふたりを糾弾することも拒否することもなく空いている部屋へとスムーズに通してくれた。憶えているのは、その程度のことだった。
くちづけを交わすことに抵抗はなかった。それが、色濃い酔いによる意識の曖昧さのせいなのか、結局大して何者にもなれずいち企業で一般社員として働く夕也が昔と変わらず何かを生み出し続けていられる昴に密やかに抱いた憧憬に焦がれたせいなのか、判断はつかない。沈黙に落ちる承諾は容易く受け取れた。寝台に寝かせた昴は、大した抵抗もしなかった。──そして目先に待ち受ける快楽に舌を伸ばそうとする夕也のまなこに、服を脱がされた昴の右手首が映った。ちらと見えていただけだった〝縦線〟の肢体のすべてが、おもむろにあらわになる。
寝台に縫い留めた加古川昴のシャツの袖から覗き見えた、右の手首──彼の、利き腕だ。絵を描くための筆を持つ側の腕だ──に在った黒い縦線の正体は、絵の具の汚れなどでなくバーコードだった。いや、より詳細に述べるのなら、それはバーコード柄のタトゥだった。大きさは四センチほどで、絆創膏を貼れば簡単に隠せてしまえそうなものだ。
なましろくなめらかな昴の肌に控えめに記されたそれは、薄くらい明かりだけが部屋を照らすこんな安っぽい設備のラブホテルの室内でもはっきりと見えた。丁寧に削り磨かれたまろい木の音が反射的に思い出されるような、鍵盤の如き縦線の模様が描かれている肌のすこし盛り上がっている部分を親指でそうっとなぞって、夕也は息をつめる。そのタトゥを見つめて、おしゃれなタトゥだな、と難なく受け取るには妙な違和感が喉元でひっかかっていた。……果たしてこのバーコードが一体何を示し、何を意味しているのか、夕也にはすぐにわかるような気がしていた。何せ復習したばかりなのだ、先ほどの居酒屋で好き好きに頼んだ串を食べながら交わしていた昴との会話を、自然と鼓膜によみがえらせる。
夕也を見上げた昴は胸に抱いていたテディベアを取り上げられたみたいに、かなしそうに苦笑していた。夕也の考えも思考の辿りも全てを察したのだろう彼の、前髪の架かったまつ毛はきらきらと星をまたたかせている。昴のまなじりに、流星がながれ落ちる。
「飲み屋の時点でこいつのことをお前に話しておこうか、すこしだけ迷ったんだ。話せるタイミングは無限にあったから」
夕也の身からだんだんと、熱が冷めてゆく。人肌にふれて体温を上げていた夕也の指さきが、みるみるつめたくなってゆく。罰の宣告を待つ罪人のような気分で、唾を吞む。ひどい顔をしている自覚はあった。もしかしたら、友人という線を曖昧に無視してしまおうとしていた自分は想定していた以上にずっと取り返しのつかないことをしてしまったんじゃないか、という本能的な危機感に背が粟立った。軽率なおこないだった、と今更詫びたくなってももう遅い。くちづけた時点で、夕也は昴に呪われたって仕方なかった。だって、このバーコードに込められた特別な意味は、凄絶な祈りは、当本人である昴以外にはこの世界で夕也にしか知り得ない。あの美術室には、外界から隔絶された空間には、自分たちのふたりだけしか居なかったのだ。
ふるえた声で、夕也は昴に尋ねる。
「……このタトゥ、いついれたんだよ」
「高校入って、すこししてからだったかな。絵の調子がようやく戻ってきた時期があって。さすがに親には内緒で、ドーナツ屋かなんかで稼いだバイトのお金引っ張り出して、SNSで彫り師探して、店予約して、それでいれてもらった」
「なんて言って?」
「スーパーで死ぬほど探した二一六七円、……はさすがに見つけられなかったから、近い値段の商品買って、そのバーコード持ってって、これと同じ柄入れてくださいって」
その昴の告白と己が胸中の直感から、夕也はすべてを察する。加古川昴は火留夕也をその身に刻んでいるのだ。とわに消えぬ楔のように、その右手首に。
このような形で〝一生〟をからだに残そうと決めた、夕也はとうとう出会うこともなかった高校生のころの昴の姿を想像する。手首は、肌のうすい場所だ。針が入る感覚は痛かったんだろうか、とわかるわけもない空想上の痛みを勝手に想ってから昴の手首を離した夕也は、うなづくことも適当な返事もできずに思わず口を噤んでしまっていた。否、言葉を失ってしまっていた。──だって、今も尚部屋に飾ってあるマスカットの絵は、夕也が当時の全財産である二一六七円でしか救えなかったから、安価な値段で買い取っただけだ。今日の個展で飾られていた昴の絵には、五万円の価値がついていた。『売約済』という文字が添えられた絵もいくつかあったことから察するに、夕也の絵に同等の価値を見出し、ためらいなく払える人間はままいるわけで、やはり本来の加古川昴の絵にふさわしい金額は二一六七円よりも五万円のほうがずっと近い。夕也だって心からそう思う。五万円のほうがただしい。五万円のほうが似合っている。それだというのに! 昴の手首で生涯褪せずに残り続けるこのタトゥが、己が右手の価値としてきざんだのが夕也の寄越したあの二一六七円を示唆するものだというのだから、動揺する他なかった。昴が蜘蛛の糸として据えているのは、客からの正当な評価でもなんでもない、後先を考えずに発せられただけのただの旧友の言葉だ。こんなことまでしなくたっていいだろ、とすら言いかける。こんなことをするほどのことじゃないだろ、と口をひくつかせてしまいそうになる。釣り合っているとばかり思っていた天秤が軋み、傾いて、夕也は膝を抱えて座る昴の脳天を幻視した。自分の胸中で籠らせていた重みが、途端にずいぶんと軽くなってゆく。自分たち二人は、どうにも致命的な分岐点ですれ違っている。
昴は続けた。
「このタトゥは俺の原点で、お前から渡された二一六七円は俺のエピグラフで、画家としての生き様で、すべてなんだ。いままで描いてきた俺の絵は、俺の描く絵の命は、ぜんぶここから生まれてきたものなんだ。お前が肯定してくれたから、俺の右腕と絵に無理やり価値を与えてくれたから、俺は今でも自分の描く絵を好きでいられてる。またスランプに陥って悩むことがあっても、ここに回帰してまた立ち上がれる。海面で喘いで苦しい時に息継ぎするみたいに右手首をじっと見つめて、タトゥにキスをして、嗚呼大丈夫だきっと、ってやり過ごせる夜が何日もあるんだよ。ぜんぶが全部、今日の個展で飾ってた絵だって漏れなくそうだ。……なあ。なあ、火留」眼下の昴のくちもとからは、嗚咽の気配がした。彼が、すぅ、と息を吸い込む。「気持ち悪いって思ったか? 気持ち悪いよな。わかってるんだ俺も。わかってて、しがみついてきた。よすがにして生きてきた。お前を勝手に、自分の体に消えない形に残して生きてきたんだ。10年ものあいだ、こんなふうに。こんなに成り果てなるまで。ばかみたいに重いだろ。なあ。重いって言えよ」
こちらに情を沁み込ませるような、それでいて、手ひどく突き放される前に予防線を張ろうとする切実さを孕んだ昴のその問いかけに、夕也は何も言えなかった。なにも返せなかった。何を言える訳もなかった。何せ目の前に横たわる旧友が、成人男性の質量をそのまま伴ったどうしようもないくらいの執着と愛のかたまりなのだと識って、圧倒されていた。──けれども往々にして執着とはある種の迫力を纏うものだし、愛とは時間が経てば経つほどにその体表を引き伸ばしながら膨らんでゆく。目に見える形でうまく示せないものであるからこそ愛の表現はひとそれぞれになるものだけれど、おのれの生に永遠を書き込もうとする覚悟はきっとそれ相応のものになるだろう。一生という単語はそのありふれた風味や陳腐さに対して、存外重い。ひとりの人間が生まれてから死ぬまでのあいだ、人生百年時代と謳われるこの日本で、一生の長さに愛を括りつけられるその覚悟の凄絶さといったら!
あのころの加古川昴の成れの果てが、後ろめたそうに、けれど照れくさそうに絵を手渡してくれた彼が今、シーツを背にまながしらをゆがめて涙をこらえる顔をしている加古川昴になったのは至極当然のことなのかもしれない。重い、と舌の上で留めてから、夕也は思考する。
それからの夕也にできることはただ一つだけだった。昴の体からゆっくりと退いて、夕也はしろくなったおのれの両の手をきつく握りしめる。
◇
電車に揺られながらSNSで昴の名を検索してみると、彼は十万人ものフォロワーを抱える人気の画家であることがすぐにわかった。加古、までを入力しただけで予測変換に出てくるのだから、彼のフルネームは世間によく知れ渡っているようだ。投稿している作品には、どれも一万以上の評価がついていて広く拡散されていた。夕也だってけしてSNSに疎いわけではないのに、どうしてこれほどまでにひとびとに名が知れ渡った加古川の存在に今日の今日まで気づかなかったのだろう、とすら思う。
アカウントの自己紹介欄に書かれた文章は無駄がなく、とてもシンプルなもの──作風からつながる人柄のイメージを損ねないよう、たいていの人間が想起するだろう雰囲気からあまり乖離しすぎないように意識しているのかもしれない。そういうブランディングと自己プロデュースを、二六歳になった加古川昴はするだろう。──だった。そこにはサイトのURLと出身大学のみが書かれており、URLをクリックすればその先には問合せ方法とともに作品の写真が並んでいて、簡潔に経歴や受賞歴などが記載されているページもあった。そのページを親ゆびでスクロールしてゆくと、どうやら加古川昴はその独創的かつ魅力的な作風と高い表現力で以て学生時代から活躍し、有名な美術大学を良い成績で卒業して、卒業後も幅広くさまざまな表現の場で活動しているのだという。明記された実績の中には夕也が知っているブランドもいくつかあって、新鮮におどろいた。昴の生み出したかがやかしい結晶が世界にひとつの彩りをもたらしていることは、星すら眠ったこんな灯りのみえない深夜であっても夕也にとってうれしかった。
唯一、夕也の表情を曇らせたのは──アイコンやプロフィールに使用されている昴の写真がどれもモノクロだったことだ。仕立てのよさそうな白いセーターを着た彼は袖をかるく捲っており、右手首のうらにはあのバーコードが映っている。モノクロの空間で、そのタトゥはよく目立っていた。ほんの数十分前に左の指のはらに感じた、あのわずかな凹凸を夕也は思い出す。
入室してから三〇分と経たずにラブホテルを出てすぐ、昴は言った。
「でも、今日会えてよかったよ」
昴の髪が、なだらかな夜風に梳かれる。夜空を見上げる昴の顔は晴れやかで、みだれた前髪をただす手つきにぎこちなさはすこしもなかった。どうかそんな顔をしないで欲しい。どうか、夕也の罪を赦すような笑みをくちもとで描かないで欲しい。夕也は財布を仕舞いながら彼の右手首が視界に入らぬよう、昴のそばからやや離れて立った。
「おれも、加古川に会えてよかったよ。……それは本当に思ってる」
「ありがとな、そう言ってくれて。嘘でも嬉しい」
そうして、それぞれの帰路につく。気を遣われているのか本当にそうであるのかはわからないけれども、駅がある方向へ向かおうとする夕也と違い、昴は真反対の道をゆくらしい。皺のないシャツを靡かせた昴は、改めて夕也と正面で相対していた。
「火留は嫌だろうけど、俺はいつかお前に言っておかなきゃなと思ってたから。シチュエーションはあれでもさ」
「……や、あの。嫌とか、ぜんぜんそういうんじゃない。ただ、その、おれは……」
「わかってる。みなまで言わなくたって」
愚図る子どもを宥めるかのような昴の言い方に、酸素を通していた夕也の喉元がふたたびつかえる。──結局、夕也は昴と行為に及ぶことはなかった。昴から掲げられた自らへの執着を示すタトゥを前に、指いっぽん動かせなくなってしまうくらい怖気づいてしまったからだ。昴から向けられた剥きだしの感情は、夕也にとって愛と称ぶには重すぎた。端的に言えば、おそろしかった。以前の恋人から注がれた数十件の嫉妬のメッセージが可愛く思えるくらいだった。
頭を下げて謝罪をして、それから、服を着た。昴はそんな夕也を前にしても、夕也のことをひとことも責めなかった。感情的に泣きついてくれたならまだよかった、と筋違いに怒りたくなるほど落ち着いた態度だった。まるでこうなる未来がわかっていたみたいに、「謝んなよ」と起き上がって頬を搔く昴のからりとした声の虚しさといったら! おのれの態度や言動のそれぞれが昴を傷つけていることが如実にわかるのに、その償い方だけがどうしても思いつかなかった。しなやかにシャツの袖へと手を通す昴のうしろ姿を、一生忘れないだろう。布越しの月光によって透けた背ぼねのまっすぐな影は、夕也の虹彩から消えないままだった。
「でもさ。俺は、それでもこれを愛って称ぶよ。火留」
部屋でのやり取りを思い返していたのだろう、目線を下にやって慈しむように右手首を撫でた昴が風に攫われそうな声量でそうささやく。否応なく別れが近づいてきていることがわかる。きっともう一生会えない、と夕也は口を結んだ。きっともう一生、会えない。会おうとしないように、取り計らってしまう。
「……うん」
「さいごのさいごまでお前のこと困らせて悪い。じゃあな。元気で」
──そこまでを追想してから携帯の画面をオフにして、夕也は終電の車内でひとり、重く濁った息を揺蕩わせた。以前に彼女に咎められてようやっとやめられたはずの煙草が、つい吸いたくなる。かばんの底を漁るものの、ライターすら見つからない。当然だ。捨てたのだから。
……部屋に飾ってあるマスカットを捨てることはしないだろう。あのマスカットは、これから先何度も引っ越しを繰り返したって家でも燃えない限り夕也の部屋に偏在し続ける。あのマスカットがない部屋に、夕也はもう住めない。想像ができない。失くしたところで、キャンバスの形の正方形の空白を壁に求めてしまうに違いない。そこまでを考えたところで、夕也は考察する。電車は海底を走っている。暗い空で星が黙り込んでいる。心臓がうなっている。──おれのこれは、加古川と同じ愛と称するに相応しい代物なんだろうか?
質量がことなる。熱量がことなる。執着にも、きっと種類がある。愛には、それだけの違いがある。
加古川、と心の中で名を呼んだ。夕也は眉根を寄せる。おれはそれでもこれを、愛とは称べない。称ぶに足る確信がない。
窓に映るおのれの横顔をにらめつける夕也の耳に、昴の声がこだましていた。
火留、俺は──それでも、これを。
