ジハード第50話「伊左地の告白」
翌日の朝礼は、今までにない空気に包まれていた。僕たち従業員が集うだけの社内的な儀式のはずが、報道陣の車両が3台ほど止まっており、大きなカメラを抱えたスタッフやガンマイクを構えた音声スタッフの存在が物々しい雰囲気に拍車をかける。
緊張とは異なる張り詰めた空気に従業員たちはざわめきを抑えられずにいた。
僕はその様子を無言で見つめていた。近くには舞子が立っており、彼女は今日の伊左地の決断を思ってか、やや顔色が浮かない。
その隣で啓介は、いつものような軽口を挟むこともなく、両手をポケットに入れたまま、じっと視線を社屋の入り口の方に向けていた。
そのとき、伊左地がゆっくりと現れた。
黒いスーツに身を包み、年齢以上の疲労と覚悟を滲ませた顔で前に立つ。一礼したのち、マイクの前に立ち、深く息を吐いた。
「おはようございます。今日は、皆さんに話さねばならないことがあります」
声は低く、しかしはっきりと響いた。
「共進金属加工は、このたびベトナムに学校を建てるプロジェクトを開始します。これは、あるひとりの若者の夢を引き継ぐかたちです」
ざわめきが従業員たちの間に広がった。
伊左地は続ける。
「その若者の名は、グエン・バン・トゥイ。25年前、私が在籍していた会社の部下でした。彼は日本で孤独な生活を送りながらも、祖国に学校を建てる夢を持ち、必死に働き、コツコツと貯金をしておりました。その話を聞いて何年か経ったある日、大きな力を持つ支援者が現れたと聞いて、私はそれを祝福しました。ですが、その裏で、まだ名前は言えませんが、同じ社の3人にそのお金を仕方なく貸していたのです。騙されていたといった方がいいのかもしれません」
3人。証言のデータも3人分だった。
この3人というのは三和、飯田、鶴見のことと考えて間違い無いだろう。
伊左地の口から飛び出した真実に、僕たちはそれぞれ顔を見合わせ、息を飲んだ。
伊左地は一瞬だけ目を閉じ、再び視線を上げた。
「彼は金を返してほしいと頼みました。当然のことです。ですが3人は彼を懲らしめるために、ある重大な犯罪を仕組んだ。それは、製品の検査記録を意図的に改ざんし、脆弱なナットを出荷させるという、企業にとっても国家にとっても背信行為でした。彼らはその行為がもたらす影響を理解していなかったのか、あるいは分かっていて無視したのか……いずれにせよその結果、新幹線のナットが破断し、河輪恵子さんという一人の命が失われました」
そのとき社内に小さなどよめきが走った。
伊左地の声は震えていない。
しかしその目には深い悔恨が滲んでいた。
「私は当時、現場から離れた立場にありました。グエンが、なぜあのとき急に辞表を出したのか、深く聞こうともしなかった。彼が何を抱えていたのか、知ろうとしなかった。だが、彼は真実を告発しようとしていた。そして……」
伊左地の拳は硬く握られ、指には力がこもっている。
「その口を封じるために、命を奪われたのです。自殺として処理されたその死、社内に蔓延った外国人従業員だからといった差別感情を元に深く追求しなかった社の対応。それらに深い憤りや失望を抱きました。こういった倫理に反する企業体質への加担はできないと判断し、私は自らの意思で退職いたしました。誠実なものづくりと信頼を第一とするこの共進金属加工に入社し、現在に至っております」
社名こそ出さなかったが以前いた会社というのは新陽鋼機のことだろう。
そして土曜日に話した一つの可能性として話した案だったが三和、飯田、鶴見の3人が偽りの証言をしていたという。
伊左地はゆっくりと言葉をつないだ。
「グエンは亡くなる直前、命の危険を感じていたのだと思います。彼は、ベトナムに住む友人に証拠を託しました。『もし自分に何かあれば、この資料を伊左地さんに届けてくれ』と。その友人はすぐに、私の自宅宛に郵便物を送ってくれたようです。ですが……私自身、その頃すでに辞職し、この共進金属加工に転職していました。転居のタイミングが重なり、差出人不明の国際郵便は受取人不明として、送り返されてしまったのです」
伊左地は、わずかに言葉を詰まらせた。
「そして、さらなる不幸が起きた。グエンの友人が住んでいたアパートは火災に遭い、その方も亡くなってしまった……。郵便物は焼失を免れたものの、誰にも手をつけられぬまま、ベトナムの郵便局の倉庫で、25年間眠り続けていました。ところが近年、ベトナム政府がAIを活用した差出人不明郵便物の再編事業を始め、その中で私の旧住所と名前から様々な可能性を提案、照合し、ついに郵便物がベトナム政府から私の元に届いたのです」
そう告げると足元に置いた厚みのある茶封筒を掲げる。
皺だらけで、深い茶色に染まったその封筒。
相当な月日の経過を物語っている。
「中には、3人の会話が録音されたテープ、改ざんされた製造記録の入ったフロッピーディスク、そしてグエンが隠し撮りした映像がありました。彼の命がけの証言です」
伊左地は、スッと背筋を伸ばした。
封筒の中から1枚の便箋を取り出して掲げた。決して上手くはない、カタカナの多い手紙だ。紙にはシワがついていて、ところどころ滲んでいる。
朝の光を受けた紙が、白く輝いた。
あの滲みは、涙だろうか?どれほどの悔しさで、不安で必死にペンを走らせたのだろう…。
デジタルでは絶対に表現できない手紙に込められた様々な感情が堰を切ったように溢れでて、僕の胸に飛び込んでくるような感覚に襲われた。
一方で伊左地は力強く一点を見つめて言った。
「先日、この3人は、週刊誌へのリークをちらつかせ、金銭と引き換えに沈黙を迫ってきた。だが、私は応じません。屈しません。グエン・バン・トゥイという若者の志を、私たちは未来へとつなげなければならない」
伊左地の目が、ほんの一瞬だけ光った。
涙を浮かべ、鼻をすすり息をゆっくりと吐いた。
「その第一歩が、ベトナムへの学校建設です。彼の夢を、今こそ共進金属加工の名で、叶えさせていただきます」
震える指先を押さえるように拳を握った。
怒りや恐怖ではないだろう。
「私はこの証拠をもって警察に再捜査を依頼します!この事件は、正しく裁かれるべきです。私には、彼の勇気に応える責任がある。それが…25年遅れの私の仕事です」
伊左地は最後に深く一礼した。
姿勢を正した伊左地の肩から、長年背負ってきたものがようやく取り払われたように感じられた。
その場は静まり返った。
記者のシャッター音だけがけたたましく響き渡る。
静寂のなか、誰かのすすり泣く声が聞こえた。
静まり返ったのも束の間、報道陣がざわめきだしてひときわ鋭い声が飛んだ。
「昼のニュースに間に合わせろ!全国ネットだ!今すぐ東京とつなげ!」
スーツ姿のディレクターと思しき男性がスマートフォンで怒鳴るように指示を飛ばす。
「伊左地社長の音声きてる?まだ?使えるとこだけ先に送れ!編集は放送センターでやる!」
別の記者は電話越しに焦った口調で叫ぶ。
「こっち、共進の朝礼会場!伊左地社長が『ナット事故の裏に殺人があった』って…いや、今その場で話したんだって!」
「昼ワイド、V間に合うように現場回し続けて!タレントの台本書き直して!」
僕は、その場の光景を呆然と見つめていた。
「数字取れるぞ、これ……!」
「夕方までに続報出せ、番組SNSでも回せ!今バズらせるんだよ!」
「他局に抜かれるな、とにかく先に出せ!」
昼間でも明るい照明、躊躇なく対象を狙うカメラ、怒号に近い指示。
まるで血の匂いを嗅ぎつけた肉食獣たちで満ちていくようだ。
その声を、光景を目にした瞬間、コップに入った氷水が倒れたかのように僕の胸に冷たいものが音もなく広がった。
報道陣が伊左地という名のエサに群がるなか、工場長の上浅田が「仕事を始めてください」と力なく声をあげている。
バーン、ガチャン、ウィーン!
いつも通りの音が工場に響いている。
機械の騒音に負けじと電話に声をぶつける者。
軽快なチャイムを響かせてフォークリフトを走らせる者
大量の製品の出荷確認に焦りを見せる者。
皆、働いている。
僕はぼんやりとその光景を見つめていた。
グエンも、きっとこうして働いていたのだろう。
慣れない国で作業着に袖を通し、
油の匂いを吸い込みながら
慣れない日本語で、頭を下げる日々。
夢のために歯を食いしばって。
社長もそうだ。
25年間、罪悪感を抱えながら、それでも仕事を続けてきた。
真面目に働けば報われる。
誠実に生きれば信頼される。
そんな当たり前を、信じていた。
だが現実はどうだろう。
グエンは利用され、
裏切られ、
最後には命まで奪われた。
結局、壊されるのはいつもそういう人間だ。
真面目な人間から潰れていく。真面目に働いた先に待っているのが、
裏切りや絶望なら、
人は何を信じて働けばいいのだろう。
染地の冷笑が脳裏をよぎる。
外国人差別を煽り、
社内を熱狂、誘導し
多くの真面目な外国人労働者を傷つけた。
許されることではない。
実際に苦しんだ人間がいる。
怯えながら働いた人間がいる。
理不尽な視線を向けられた人間がいる。
気がつけば、握りしめた掌に爪が食い込んでいた。
奥歯にも力が入る。
だが同時に、
僕は分からなくなる。
もし25年前、グエンの死が正しく扱われていたなら。
もし差別や隠蔽がなかったなら。
もし誰かが真実に向き合っていたなら。
染地は、どうなっていたのだろう。
そんな考えが、どうしても頭から離れなかった。
誰かが止まれば、誰かに迷惑がかかるから。
だから回り続ける。
苦しくても、納得できなくても。
僕は工場から聞こえてくる機械音に耳を澄ませた。
バーン!
ガチャン!
ウィーン!
規則正しいその音は、悲痛な叫びのように感じられた。
