クラスナホルカイ・ラースロー「サタンタンゴ」文章で長回しをやった男【読書感想文】
2025年のノーベル文学賞はハンガリーのクラスナホルカイ・ラースローが受賞した。日本では京都滞在の経験を基にした小説「北は山、南は湖、西は道、東は川」程度しか翻訳されていなかった。一方で、彼が原作・脚本を手掛けた作品は映画界隈の間でカルト的人気を博している。特に上映時間7時間を超える『サタンタンゴ』は、YouTubeでもネタにされる程の知名度をもっている。わたくしも『サタンタンゴ』に魅せられた者であり、2019年にシアター・イメージフォーラムで観て以降、後半の竜頭蛇尾な展開にはモヤっとするものの、タル・ベーラによるこの世の終わりのような情景、複雑な長回しは定期的に観直している。
そして、何よりも映画批評VTuberとしての挨拶は本作から取って《ご無沙汰ンタンゴ》としている。実際に『サタンタンゴ』同時視聴や解説動画を作るほどに本作の魔力へ惹き込まれた人間である。
先日、遂に国書刊行会から本作の原作が邦訳された。非常に嬉しかった。本書はクラスナホルカイ・ラースローの長編デビュー作であり、彼の文体が既に確立されつつある小説である。

左:サタンタンゴ
右:Herscht 07769


クラスナホルカイ・ラースローは一文がとにかく長い。そして段落もないに等しい。『サタンタンゴ』をペラっと捲ろうものなら、びっちりと隙間なく文章が埋め込まれている。そのため、「なんだ300ページぐらいか、映画は7時間あるのに常識的な長さなんだね」と語る方が散見されるが、300ページに文章が圧縮されているだけなので要注意である。
↑「Herscht 07769」に関しては文学YouTuberムー氏の解説を観た方が良い。
また、デビュー作にして既に独自の文体を確立しつつあったクラスナホルカイだが、2021年には400ページをたった一文で書き切る奇書「Herscht 07769」を発表しているのだ。昨年、この2冊の英訳版を購入したのだが、あまりにも特殊な文体で挫折した。故に今回の「サタンタンゴ」出版は涙して喜び、手にすると一気に読んだ。
さて、Xでも話題の本書であるのだが、少し気になる言説が飛び交っている。
「映画と全く同じで驚いた!」
確かに静かな長回しが特徴的なタル・ベーラのイメージがどのような文章になっているのか想像し難いものがある。実際に読むと、映画のイメージと結びつく文章なため驚かされる。恐らく、このような意外な類似性に対して「映画と全く同じで驚いた!」と発しているのだろう。しかしながら、実際に映画と比較するとセリフは同相でも、冒頭から大きく異なる部分があるため、見落としてしまう部分があると感じた。
本記事では映画版と比較しながら「サタンタンゴ」の世界について3つの場面を中心に分析していく。
↑動画版
1.文章の長回し/映像の長回し
まず、小説を読んで気づいたこと。それは、クラスナホルカイ・ラースローが文章で「長回し」をやろうとした点にある。プルーストが「失われた時を求めて」において、寝ようとしても寝つけず思索を張り巡らせながら虚実曖昧な微睡みの世界へ身を投じるように、クラスナホルカイも鐘の音で目を覚ましたフタキが再び布団へ潜り込み瞼を閉じようとも眠れず、外の轟音の中で意識の流れを認知するところから始まっている。段落は分けられておらず、カッコ内カギカッコによる心の声とカッコによる現実の言葉として発せられた声が入り混じりながらシームレスに場面を遷移していく。このイメージがタル・ベーラにおける長回しと重なる。
しかし、映画において心の声を介した長回しは演出し難いものがある。映画においてセリフは他者へ向けられる必要がある。心の声を表現したい場合、心象世界を用意し分身たる存在とインタラクティブな会話を行うことで映画としての体裁を保つことができる。先日、小川哲「君のクイズ」が映画化されたが、独り相撲な内容を映画にするために「検証番組を通じて謎を解き明かす」といった大胆な改変が行われた。確かに、独白だけの映画もあるにはあるのだが、映画というメディアとの相性は悪いように感じる。
そこで、タル・ベーラは冒頭で映画のコンセプトともいえる8分近い長回しを提示する。牛小屋が映し出される。野に放たれた牛は、性交したりぼーっと虚空を見つめたりしている。やがてカメラは横移動しながら建物の背後へ回り込み、やがて遠くへ向かっていく牛を見つめるところで場面が転換する。次の場面では仄暗い室内の中心、唯一光を捉えている窓を凝視する。暗闇の中で眼が順応し、空間が把握できるようになる瞬間を擬似体験させるようなショットとでもってフタキの起床を表現しているのだ。
このように、本書の醍醐味は映画と比較することで双方のメディアが得意とする長回しのあり方が見えてくる点にある。ちなみに、本書の訳者あとがき(早稲田みか)にて、クラスナホルカイ・ラースローとタル・ベーラの関係性について興味深いことが書かれていた。
ノーベル文学賞受賞時のインタビューの中でクラスナホルカイは、ドストエフスキーの影響もあり、農村や炭鉱などで、社会の底辺に生きる人々の悲惨な生活を体験し、とにかく一冊だけ書きたいと思って書いたのが、この『サタンタンゴ』だと述べている。ところが、「運悪く」これを読んで深い感銘を受けたタル・ベーラが映画にしたいと言ってきたことから、脚本執筆のために読み返してみたところ、「書きたかったのはこれじゃない、もっといいものを」と、次に『抵抗の憂鬱』を執筆すると、またしてもタル・ベーラが現れて……。そうこうするうちに気づいたら作家になっていたと語っている。
2.猫いじめが強烈すぎる第一部第五章
『サタンタンゴ』が劇場公開された時、映画界隈の間でブームとなった一方で、物議を醸した。それは強烈な猫いじめの描写の場面である。エシュティケが猫のミツルに「粗相したのね?」と揺さぶりをかけて落とす。以降、猛烈ないじめを行う。ミツルの胸ぐらを力強く掴み、振り回し、そして網にかける。ミツルは「にゃー」といった叫びから「うぅー」といった苦しみの叫びへと変わる。コンプライアンスが厳しい2020年代であれば、CGで表現されていたであろう描写だが、本作では本物の猫を使っていじめが行われていた。映画はR指定もトリガーアラートもなかったため、このショッキングな描写に知り合いが怒っていた記憶がある。
しかし、小説版はもっとショッキングであった。映画とは異なり、実際の猫を使っているわけではないので、第一部第五章の大半を使ってエシュティケが力を誇示するためにミツルをいじめ、それまでなついていたミツルが関係修復不可になるまでエシュティケを嫌悪する流れが生々しく描かれている。この関係修復が不可能になった状況を長々と記述した部分は、文学にしかできない恐ろしい表現となっているため引用する。今回、小説版を読んで一番驚かされた部分はこの猫いじめの描写の凄まじさである。
ミツルは筋肉を極限にまで緊張させ、干からびた鶏の糞だらけの朽ちた床板の上に身を伏せていた。その輪郭は暗闇に紛れてぼんやりとしか見えなかったが、重たい空気のなかを、今にもエシュティケの方へ向かって漂ってきそうだった。エシュティケは、激しくへっこんだり膨らんだりする猫の熱い腹壁や、傷だらけの皮膚、傷のまわりに滲む血の感触を、ずきずきと痛む自らの手のひらに感じて、今になってようやく自分がいったい何をしでかしたのかを自覚し、恥辱と憐憫で喉が締めつけられる思いがした。勝利の代償として失ったものを取り戻すことは、もはやかなわない。撫でてやろうと近づいても、ミツルはただ逃げるばかりで、この関係は今となっては永遠に修復不可能にして、こっちにおいでといくら声をかけても、膝に抱き上げても、いいや、何をどうしようとも、もはやどうにかなるものではなかった。
3.《イリミヤーシュ演説する》を比較する
「サタンタンゴ」は死神のような存在であるイリミヤーシュが村へ迫っていると噂を耳にしながらも、村人たちの貯金を持ち逃げしようと企む3人の男の様子を描いた第一部とイリミヤーシュが姿を現し集団農場の再建という名目で搾取する第二部に分かれている。小説では1から6へと章を上がっていく第一部に対して第二部は6から1へと下っていく構成となっており、外の不穏な音でまぶたを閉じることのできないフタキが円環構造の要として配置されている。
ここで中間にあたる第二部第六章のイリミヤーシュが演説をし、村人たちを束ねる場面に着目したい。映画では亡きエシュティケを取り囲み1分近い沈黙が映し出される。次にイリミヤーシュの顔をクローズアップしながら、演説が始まる。彼の瞳は、他者個人を見つめているようなものではなく、遠くの世界を見つめたような眼差しで、淡々と悲劇の中心にいるエシュティケの母を憐れみつつも「この悲劇は我々全員のものです」と連帯責任にした上で、警察が来る前に事件を再構築すべきだと語る。その手段として集団農場の再建を掲げ、村人たちを大移動させる。
小説では映画における10分以上かけた演説を5ページと少しの分量で表現している。映画における語りと語りの重厚な間は三点リーダーで表現されている。以下一部抜粋する。
いちばんの問題は、みなさん、よおくお聞きになってください、いちばんの問題は、昨日の朝ここで、いったい何があったのかということですが……それよりも……昨夜は一晩中あれこれ頭を悩ませて一夜を明かしましたが、そうするうちにようやく、この私自身も気がついたことですが……私たちには、この悲劇が「どのようにして」起きたかだけでなく、じつは「起きたことについて」、そもそも何もちゃんとわかっていないということなのです……手持ちの情報や証言は互いに矛盾しあうことばかりで、この混沌とした薄暗闇のなかで物事をはっきりと見分けるのは、たとえて言うならば、干し草の山のなかから一本の針を見つけるほど困難なことです。
イリミヤーシュは村人から死神のように噂されている一方で、いざ対峙すると敬虔な宗教家、悪意感じられない善人のように思える。彼の長い説法は、ストレートに相手を支配しようとするのではなく、発生した悲劇に困惑する村人へ歩み寄ろうとしている。村人から金を奪おうとするフタキたちやエシュティケの悪意とは対極にいる人物として描かれている。一方で物語を追っている者にとっては、イリミヤーシュの語りは正論なように思えてエシュティケを《無垢な子ども》と評価しているわかってなさがある。だが、村人もまた真実を知らないわけで、その無知が別の悲劇といった運命に巻き取られていく。まさしく《悪魔のタンゴ》ともいえよう円環に人々は閉じ込められ、不吉な予感と突如現れる悲劇に苦しめられるのだ。
個人的に映画におけるイリミヤーシュ主導のもと、村人たちが大移動を行い廃墟へたどり着いてからの展開は、クライマックスは別として蛇足に思っていたのだが、小説を読むことによって評価は大きく変わらないものの必要な描写であることがわかった。
おわりに
『サタンタンゴ』に魅せられて6年近く経つが、小説も映画も終末世界の間延びした時間をそれぞれ確立した長回しの技法でもって表現していて唯一無二の面白さがあるなと感じた。また、今回小説版を読んだことでハンガリーにおけるパーリンカについても知ることができた。映画でも『サタンタンゴ』だけでなく『ニーチェの馬』でもハンガリーの果実酒パーリンカを呷る場面がある。小説だと頻繁にパーリンカの残量を気にしつつ、ひたすら飲んで酔い潰れている場面があり、ハンガリー人にとってのパーリンカの重要性がわかった。
ちなみに日本では神楽坂にあるバー《Bar Pálinka》で嗜むことができる。人気店で予約しないと入れないことが多く、また値段が書いておらず2杯で7,000円ぐらいする高級店ではあるのだが、度数の強さに反してついつい手が伸びてしまうほどの繊細な甘さが口に広がる美味しさだったので、もし『サタンタンゴ』を通じてパーリンカに興味をもった方は是非神楽坂へ足を運んでみてください。
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