【読書感想文】「バンリュー フランス団地映画の軌跡」
0.バンリュー映画の重要文献爆誕!?
近年、団地映画に対する注目が集まっている。2024年にはTAMA CINEMA FORUMにて団地映画の特集が組まれた。このイベントで登壇した団地文化を考察するユニット《団地団》は昨年、「世界は団地でできている 映画のなかの集合住宅70年史」を発刊し話題となった。
わたし自身、団地映画に関心を持っており定期的にスペースやYouTubeで団地映画特集を組んで語っている。特にフランスのバンリュー映画への関心が強く、大学時代から定期的に掘っている。バンリュー(Banlieu)とは、パリ郊外の主に低賃貸の住宅群HLMのある地域を主に指す。驚くべきことにこの単語はフランス語を習うとストライキ(Grève)同様、初期に登場する。英語であれば英検2級ぐらいでようやく出てくるか否かのレベルにもかかわらず早急に提示されるあたりにフランス特有の文化を感じた。
実際にフランスへ留学すると、日常会話でバンリューの話が飛び出してくる。《パリの外側》といったニュアンスで使われることが多かった。そして、段々とフランス映画におけるバンリューの扱いが特殊なことに気づかされるようになった。
パリの街を歩いていると物乞いするロマや鋭い目つきの黒人、ケバブを焼くトルコ系と移民が多い。しかしながら、パリを舞台にした映画の中ではこれらの人種はいないかのように生粋の白人フランス人ばかりが登場する。フランス映画において移民を扱う場合にバンリューが使われる特殊な状況があるように思えた。これに気づいて以降、バンリューをテーマにした作品を積極的に観るようになった。そして、バンリュー文化に関する資料を集めようとした。しかし、映画は見つかれどもバンリュー文化に関する資料は良いものが手に入らず調査が難航することとなった。
そんな中、満を持してフランス語圏の文学研究者である陣野俊史氏が「バンリュー フランス団地映画の軌跡」を発刊した。これぞ、わたしが欲していた文献だと速攻で予約して届くや否や齧りつくように読んだ。ダイジェスト感が強かった「世界は団地でできている映画のなかの集合住宅70年史」と比べると、演繹・帰納的アプローチを巧みに組み合わせてバンリュー映画とは何か、バンリュー映画を考える上で重要な視点は何かといったところを丁寧に掬い上げている一冊であった。映画に関して素人であると前置きしているものの、扱っている作品はシネフィルからしても押さえるところ以上のものを網羅している上に、『憎しみ』に関する分析やアブデラティフ・ケシシュ、ラバ=アムール・ザイメッシュなどに関する情報は慧眼、新鮮なものが多く学びの宝庫であった。一方で、いくつか引っかかるところもあった。これに関して、Xで陣野俊史氏より直接回答をいただいた。回答をいただいたからには襟を正して、わたくしも読書感想文を書いた方が良いと考えたのでここに記していく。
1.バンリューとは?
まず、バンリューについて説明する。先述の通りパリ郊外の主に低賃貸の住宅群HLMのある地域を主に指す。本書ではバンリュー成立の背景として、第二次世界大戦以降、減少した国民を補填すべく移民政策を推し進めてきたことがあると語られている。移民は家族を持ち、フランス社会に受けいれられる過程でパリ郊外のHLMに居住するようになった。ただ、このイメージに関して陣野氏は紋切り型過ぎるとしており、バンリューの多様な視点を模索するようになる。そのため、本書で議論されるバンリュー映画も我々が想像するバンリュー映画とそれを逸脱するパターンを比較しながら輪郭を掴もうとする特徴がある。
2.バンリュー映画の歪な要石としての『最強のふたり』
わたしが本書で最も惹き込まれた部分は『最強のふたり』である。一般的にバンリュー映画の話を映画好きとの間でする中では扱われないタイトルである。しかし、わたしはバンリュー映画の話をする際に『最強のふたり』に触れなければ全体像は掴めないと定期的に語っている。これは映画におけるパリとバンリューの関係性の観点から来る発想である。先述したようにパリを扱った映画は実際のパリとは異なり、移民の存在が周辺化されているどころか存在しないように扱われる傾向がある。
一方で、フランス映画において移民問題に触れる際には決まってバンリューが舞台となっている。先日、YouTube配信のコメントで「ラジ・リ『レ・ミゼラブル』はパリの中の移民像を描いてますよね」といったコメントがあった。確かに、近年パリを舞台にした映画でも移民の存在が取り上げられるようになってきた側面はある。このような動きのきっかけとなった作品が『最強のふたり』だと考えているのだ。
『最強のふたり』は、パラグライダーの自己で下半身不随になった男のヘルパーとして雇われた刑務所上がりの黒人男性との交流を描いた作品。フランスでは歴代興行収入ランキング3位の大ヒットとなった。本作では、パリを舞台にしながらもオマール・シー演じる移民にフォーカスを当てている。さらに、人種間を分断することなく描いている点も従来のパリを舞台にした映画とも異なる。故に、バンリュー映画における移民像を考える前に本作を要石として置いておくことが重要なのである。
本書は別の角度から『最強のふたり』をバンリュー映画のマイルストーンとして捉えており信頼できる一冊だと感じた。陣野氏は、『最強のふたり』におけるバンリューに関する部分がどれぐらいあるのかを精緻に整理している。ドリスの弟アダマが郊外の団地に住んでおり、彼のために今の仕事を離れる場面で一瞬言及される程度である。
そして、この演出意図として「『ふつう』の郊外を映画から排除し、もっとも貧しい郊外を僅かに提示したうえで、もっとも富めるパリを舞台にすることがこの映画の前提であったからなのだ」と評価している。そして、興味深いのは『最強のふたり』を手掛けたオリヴィエ・ナカシュ&エリック・トレダノ監督の前作『Tellement proches(これほど近い人々)』もバンリューを扱いながらもクリシェを外しており、中流階級を主人公にしているとのこと。予告編を観るとオマール・シーが出演しており中流階級の典型的なフランス映画の登場人物と交流していることから『最強のふたり』と繋がる内容となっている。
陣野氏はバンリュー映画のクリシェから外れることで取りこぼされたバンリュー像が見えて来るのではとし、補完するように『Neuilly sa mère !(ヌイイなんてクソくらえ!)』『Tout ce qui brille(すべて輝くもの)』を取り上げていた。
「バンリュー フランス団地映画のの軌跡」:『最強のふたり』パートはかなり迷いがありつつも、フランス映画史を語る要として重要となる部分は伝わり、ようやく周知される感じかと思った。個人的には映画においてパリから見えない存在になる移民観って視点で議論が整理できる気がする。
— che bunbun🐝 映画批評VTuber (@routemopsy) April 26, 2026
『最強のふたり』のパートでは、「ふつう」の郊外を描くことの困難が伝わればいいな、と思っています。ふつうのバンリュー、なかなか難しい表現です。
— 陣野俊史 (@jinnotoshifumi) April 26, 2026
Xにて『最強のふたり』のパートについてコメントしたところ、陣野氏から回答をいただきました。バンリュー映画がたくさん作られる中でクリシェ化し、「ふつう」のバンリューが見えなくなる、あるいは「ふつう」のバンリューを描くことの難しさって観点は確かにあると思いました。実際、わたしがパリを初めて訪れた際に映画とあまりにかけ離れた空気感に衝撃を受けたこととも繋がるような気がします。映画で知ったつもりになっても、実態は周辺化されたり見えなくなっていたりと乖離していることがあるので。
3.慧眼な『パリ20区、僕たちのクラス』
本書は魅力的な映画分析が多いのだが、ひとつ取り上げるとするならば『パリ20区、僕たちのクラス』だろう。本作はフランソワ・ベゴドーの実体験に基く小説「教室へ」をローラン・カンテが映画化した作品である。ドキュメンタリータッチで移民集まる中学校の問題を扱っており、第61回カンヌ国際映画祭で最高賞パルム・ドールを受賞した。本作は教職課程の定番教材として知られており、大学時代に教職課程の授業で本作を鑑賞しディスカッションしたことがある。
陣野氏はフランス社会が教育の機会均等を謳いながら是正しつつ機能不全に陥っている状況を軽く説明した上でディティールの分析に入る。ここでフランス語圏の文学研究者として、映画を観ただけだとわかりにくい部分についてメスを入れる。先生が《ヒントになる》を指し示す慣用表現《耳にノミを入れる》を使う。しかし、生徒たちはその慣用表現を知らないがために文字通り耳にノミを入れる》を解釈し困惑することとなる。世間で頻繁に使われる単語ですら共通項になりにくい状況を表現した場面だと語る。ここでの分析は『最強のふたり』における、異なる階級の者同士が言語体系を擦り合わせていき親密な関係になっていく話へと繋がっていく観点といえる。
4.キュレーションの難しさ
本書はバンリュー映画の話に留まらず、映画をキュレーションしていく活動の難しさも感じた。これは、現在わたしがnote創作大賞2026の応募作品として「死ぬまでに観たい世界遺産映画101」を作っているから感じることだろう。
キュレーション系の本や記事は決まって、有識者から「これがない」「なんでこれがあるんだ」といった論争が起きる。これは映画の領域にとどまらずVTuberや音楽、美術の領域でも起きたりする。本数は関係なく、たとえば「死ぬまでに観たい映画1001本」においてもXでよく超絶技巧な撮影だと評価される『つばさ』がなかったり、唯一無二のギミック映画の帝王ウィリアム・キャッスルが無視されている一方でゴダールやベルイマン、ヒッチコックの作品を過剰なまでに入れている問題があったりする。
基本的にはこうしたキュレーションに対して「これがない」「なんでこれがあるんだ」といった議論は単なる遊びレベルだと思っていてマジトーンで話すのはナンセンスである。すべてを追えるわけではなく、領域を語る上で重要な要素を押さえておけば他の作品はその代替に過ぎないからだ。だから、本書に『呪術召喚/カンディシャ』が掲載されていないことは問題ではない。
一方で、『憎しみ』以前のバンリュー映画誕生前夜の章が設けられているにもかかわらず、ゴダールの『彼女について私が知っている二、三の事柄 』について一切触れられていない点はかなり問題があるように感じた。本作は『壁の中の秘事』や団地妻映画のように、HLMに住む女性が夫のいない中で売春をしている状況を描いた作品である。バンリュー映画の領域を拡大し、団地映画と捉えた際に《妻》というフレームに押し込められる者の閉塞感と渇望を表現する空間として団地がクリシェのように使われてきた。これは雑感だが、男性からして「俺たちが仕事をしている間って妻は家事をするだろうけれども退屈なんじゃないか」といった感覚がそういった映画を生み出してきたのではないかと思っている。そしてアンサーとして、シャンタル・アケルマンの『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』があるような歴史観をわたしは持っている。だから、バンリュー映画を扱う上で『彼女について私が知っている二、三の事柄 』に触れないのはかなりマズいと思っていた。
まず拙著を読んでくださったことに感謝します。ありがとうございました。幾つかお応えしたく。ゴダールの件。さすがに触れないのはどうかと思ったのですが、『彼女について私が知っている二、三の事柄』は六十年代なので、今回の時間軸からはずしています。
— 陣野俊史 (@jinnotoshifumi) April 26, 2026
これに関しても陣野氏から回答があった。本書では以下のように書かれている。
どこから話をはじめようか。90年代に郊外映画というジャンルが生起するとして、80年代は霧に包まれている。ではその向こう側、70年代はどうなのか。忘れてはならない二つの映画を、その存在を示すことで、ひとまず霧の向こうのぼんやりとした時代に区切りをつけようと思う。
陣野氏としても『彼女について私が知っている二、三の事柄 』をどうするかについては考えていたものの、スコープから外すことにしたとのこと。いつか、陣野氏の『彼女について私が知っている二、三の事柄 』論がうかがえる日を待つとしよう。
また、陣野氏はジャック・ドワイヨン『少年たち』(本書では『Petits frères (弟たち)』としているが、フランス映画祭上映時タイトルが存在するので当記事では『少年たち』とする)を扱う中で、2024年2月にセザール賞の舞台でジュディット・ゴドレーシュがブノワ・ジャコとジャック・ドワイヨンから性的暴行を受けたと告発した問題を取り扱い、政治的スタンスについて表明している。言葉を選びながらも詳細に触れている。一方で、アブデラティフ・ケシシュ『身をかわして』を扱っている賞に関しては彼の性的暴行の告発については触れられていない。
『アデル、ブルーは熱い色』でパルム・ドールを受賞したアブデラティフ・ケシシュ監督は2018年に性的暴行で訴えられている。本件に関する調査は証拠不十分につき不起訴となっているのだが、彼を取り巻く疑惑や問題は後を絶たない。たとえば、俳優のレア・セドゥは2024年にradiofranceにて『アデル、ブルーは熱い色』の撮影に関して
「自分の体のどこを見せるかについては、自分で決める権利が欲しい。(…)今なら、映画でセックスシーンを演じる場合、撮影後にラッシュ映像を見せてもらい、シーンを受け入れるか拒否するかを決める。」
と問題点を述べていた。
そして、現在アブデラティフ・ケシシュ『Mektoub, My Love: Canto Due』問題がある。本作は『Mektoub, My Love』シリーズの実質3作目なのだが、前作の『Mektoub, My Love: Intermezzo』がカンヌ国際映画祭で上映されたっきり封印されている状態にある。本作は映画の大半がポルノ的シーンらしく、映画祭当初から物議を醸した作品であり、IndieWireは「撮影現場の目撃者が、俳優たちに演技なしの性行為を強要し、アルコールを与えたと証言」と報道している。CHAOSによれば2022年、2時間10分に編集したバージョンがパテ配給で公開される予定だったのだが、権利処理等の問題が解決しておらず、結局2025年時点でフランス本国での劇場公開は叶っていない。ところが、2025年7月に驚くべきニュースが舞い込んできた。世界有数の映画祭ロカルノ映画祭の2025年コンペティション一覧が発表されたのだが、そこに3作目『Mektoub, My Love: Canto Due』が入っていたのである。筆者が調査した段階では、海外メディアでも本作にまつわる問題が解決されているのかどうかは不明であった。
本作はカイエ・デュ・シネマでも取り上げられ絶賛された一方でケシシュ監督を取り巻く問題については回避されているように感じた。わたし自身、2019年の映画ベストテンに1作目の『メクトーブ, マイ・ラブ』を挙げており、恐らく『Mektoub, My Love: Canto Due』も観たら傑作だと判断するのだが、その場合ケシシュ問題をどのように扱ったらよいのか迷っているところがある。それだけに陣野氏の書き方には違和感を抱いた。
ドワイヨンの性加害の件ははっきり批判しているのに、ケシシュはなぜ批判していないのか、と言われれば、そのとおりです、とお答えするしかありません。ケシシュの件は別に書きたいと思っています。それと今回の議論のなかでケシシュの映画がどうしても必要だったということもあります。
— 陣野俊史 (@jinnotoshifumi) April 26, 2026
これに関しても彼から回答をいただいた。もちろん、バンリュー映画を語る上で『身をかわして』は触れざる得ないだろう。そしてこの話は自分のプロジェクト「死ぬまでに観たい世界遺産映画101」にもかかわってくる話である。
世界遺産にまつわる映画をキュレーションする中で通常『ハリー・ポッター』の名が出る。誰しもが知る映画かつ、イギリスのダラム城でロケされているからだ。しかし、『ハリー・ポッター』は原作者であるJ・K・ローリングがトランスジェンダー差別をしていることで論争を引き起こしている。ジェンダーに関する多様性を尊重するスタンスを取っている身として、『ハリー・ポッター』を選出したくないのだ。また、昨今の政治情勢の中でイスラエルの世界遺産やロシアの世界遺産が舞台の作品をどのように扱うべきかを考える必要がある。世界遺産映画というカテゴリを説明する上で致命的な抜けがないように選出しながらも映画外の問題についてどのように考えていくかが昨年の「【上映時間3時間以上】超長尺映画100本を代わりに観る」以上に求められており、陣野氏の映画の素人でありながらも映画をキュレーションし論を固めていく悩める文体に共感するところがあった。
そのため、これらの批判はむしろ議論が深まるものとして2026年ベスト本候補の一冊となった。
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